第44話

目の前でアクツがあぐらをかいて座っている。

その長い足を見せびらかすように折り畳み、僕を見つけると見上げてやっと来たか、と言わんばかりの待ちくたびれた表情をしている。


「少しは現実を知ったか?」 


そのやる気の無い声を聞くと、僕は今度こそこれが夢の世界なのだと分かる。

見渡す限りに広い草原の中、ぽつんと佇んでいる一本青々とした大きな常緑樹が作る涼しげな木陰にアクツと僕はいた。


人工物は何もなくてのどかな場所だった。


「あんたは他の“歴史渡り”のこと、どうやったって実際には会えないことを知っていたのか?」 


「ああ」 


そよ風が僕の頬を軽く撫で、木漏れ日の光は暖かい。

「あの、これから僕はどうしたらいいんでしょうかね」


「この前とは態度は面白いくらいに一変してるな。俺も昔同じように傷ついた。けど……お前ならまだ何だって出来る。やろうとする意思さえあれば何だって」


「……どうしてそんなことが言えるんですか?」


「そんなものお前はまだ若いし、どうやったって、どうしたって取り返しの付かない絶望にはまだほど遠い。むしろお前はオレから見れば幸運だ。現実を早く知れてお前は幸運なんだよ。それにお前はお前自身で未来を掴むんだろ? オレはお前に少し期待してる。オレと違う生き方を見せてほしいね」 


アクツは青空に白く霞んだ太陽を見上げながら言った。


「アクツさん、僕からしたら凄く、……言い方悪いですけど、脳天気そうで身軽そうで幸せそうに見えますけど」 


それを聞いてアクツは爆笑していた。

それは静かな笑いだったが彼の笑いのツボに入ったように腹を抱えて豪快に笑う。

どこか投げやりな笑い方だった。


「希望も絶望も表裏一体なんだよ。そこに未来に対する希望、誰かに寄せる期待があるか否か。オレにはもう希望も期待も持っていない、どうだっていいんだよ。だから笑える」

 

僕たちの前を一匹の黒猫が通り過ぎる。

その動作はとてもゆったりとしていて優雅だった。

その足取りは自信たっぷりで、僕たちを一度だけ見る。

頭の中で目には見えないことをごちゃごちゃと考えているのが馬鹿らしい、と見下すかのように自信げに凜としている黒く双瞳がきらりと光る。


「オレは人と関わるのが好きだった。歴史も伝承も興味があった。だから“歴史渡り”は凄く楽しかった。特に苦労も気苦労もなく長い時間が過ぎた。オレ一人だけ周りと違っていようが、考え方が可笑しいと言われようが、変人だと思われていようが、オレには毎日が楽しかった。価値があることに誇らしく思っていた。お前にも分かるだろ?」 


「……はい」


あの時と同じように僕の心が見透かされたような気分だった。


「そしてオレは仕事の一環として全国を旅していたときにある一人の綺麗な女性と出会った。会った瞬間に一目惚れだった。何か体中に電撃が走ったみたいな感じがした。それは彼女も同じだったようでオレたちはすぐに仲良くなった。連絡先を交換して、たまに会う関係になった」

 

アクツが淡々と過去を語るとき、その顔には懐かしさとともにどこか哀しげな表情が隠れることなく点在していた。

僕はその表情に釘付けになる。


「オレはほんの一時的な関係、その場限りの満悦な時間だと思った。だけど本心は違った。本心というよりは本能というやつだな。顔を合わせる度にオレは樅山に惹かれ、会えないときには樅山のことを考える時間が多くなった。それこそ無断で宮内庁のお金を使って二人で日帰り旅行に行ったことも何度かある。樅山から向けられる笑顔が嬉しかった。しかしある時オレがオレの“歴史渡り”についての事情を樅山に告白したら、樅山とは関係がぷつりと切れた。その時の樅山の絶望した顔は今でも覚えてるな。人との関係なんて終わるときはいつも突然で、これまでの積み重ねた日々なんてあたかも存在しなかったかのようにあっさりだ。けれどお互い連絡を取らなくなってもオレの樅山への気持ちは冷めなかった。それだけオレの中で樅山は大きな存在になっていた。お前にもこの気持ち少しは分かるだろ?」 


その問いかけに僕は軽く頷く。

大切にしようとしていたものはあっけなく壊れてしまう。

啓介や早紀との関係、そして河井が思い浮かぶ。もしかしたら上手いやり方はあったのかもしれない。

だから百パーセントは同意しない。

あくまで軽く頷いた。


「樅山はすごく頭の回るやつでな。樅山と連絡を絶ってから半年が経ったある日、オレは樅山が死んだことを人づてに聞いた。それも自殺なのだそう。オレが樅山を求めるように、樅山もオレを求めていた。だから樅山はオレとの障壁となっているモノを取り除こうと考えたらしい。樅山はオレ以外の“歴史渡り”の存在をどうにかして知った。オレは他の“歴史渡り”の存在なんて知らなかったのにな。樅山はもの凄く頑張ったのだと思う。そしてそれから具体的に何をしたのかをオレは知らないが、樅山はその“歴史渡り”から“歴史渡り”という体質を受け継いだ。ちょうどオレがお前にやったみたいに。オレと同じ体質で同じ感覚になって、そこまでしてからやっと再びオレに会い来るつもりだったらしい。だが樅山は“歴史渡り”になってから活動日の違いに気づいた。それこそもう一生オレとは会えなくなってしまったということに。樅山はどうやらオレ以上に恋に盲目になっていた。目的を達したと思った矢先に絶望を突きつけられた。今までの努力が裏切られたように感じて、樅山は全てがどうでもよくなったのだろう。“歴史渡り”は本来強い精神力がある者しか引き継げない。何しろ国家にとって重要機密だから。でも絶望を知った瞬間、樅山はまるっきり変わってしまった。これから先のことを考えられなくなった。“歴史渡り”として生きることに耐えられなくなった。他の方法を探す前に自ら死を選んだ」


アクツは酷く淡々と語った。

そこには悲しみも感慨深さも何もない。


ただ僕に伝えるためだけに言葉を発し、僕はアクツの言葉上から何の感情も読み取れなかった。


ただその樅山という人が“歴史渡り”になるまでの頑張りや活動期の違いを知った時の絶望を思うと、僕はなんだか苦しくなるくらい胸が痛かった。

恋は人を変えてしまう。


「一人で何でも出来ちゃうやつは、壁にぶつかったとき、辛い状況が訪れたとき、一人が勝手に考え、判断して先走る。オレがあの時樅山のそばにいれば、樅山が“歴史渡り”になることも、それこそ死を選ぶこともなかったといつも後悔している。もっと早い段階でオレの方から再び樅山に会いに行っていれば、と何度も思った。けれど全てはもう手遅れで、どうすることもできない。……だからオレも死を考えたことはある。政府は“歴史渡り”の一人の死よりも“歴史書”が一冊この世から失われたことに衝撃を受けて、しばらくの間、オレが樅山の後を追わないように政府の人間に監禁された。そのくらい重大な事件で政府の人間は樅山のことをこれでもかと批難した。恐らく親族だって厳しく事情聴取を受けたはずだ。オレには樅山の方が大切だった。政府を憎んだ。オレは樅山のいないこの世界で浪費するように生きている日々に意味はあるのか、とひたすら考えた。樅山の後を追うことは別に悪いことじゃないだろう? って。だけど、こうしてオレは生きている。生きることにした。今や““歴史渡り”“というものだけがオレと樅山を結びつける繋がりになっている。憎いことにな。ただそれだけの繋がりで、いやそれしか繋がりなんてものはないが、樅山がくれたこの繋がりをオレは大切にしたいと思って過ごしてきた」



誰かがいなくなっても世界は続く。

今僕がいる場所を見渡しても、この夢の中には僕とアクツの二人しかいなかった。


もしこの世界中の全てを探して、人間が僕たち二人しかいなくなってしまったとしても、今この瞬間だけはこの空間に溢れるばかりの悠長な静けさというものがやけにぽかぽかと暖かく、愛おしかった。


「今、僕の前にいるのは、現実世界を共にしているアクツさんで合ってますか?」


「いや、正確には違うな。オレはお前の心のなかにある“歴史書”の記憶であり記録だ。だからお前に“歴史渡り”を譲渡するまでのかつてのオレの人格に過ぎない。現実世界のオレが今どこで何をやっているかはオレも分からない。それこそ、もう寿命が尽きて死んでいるかも知れないな。だけどオレはお前にオレのような間違った人生を送ってほしくない。手遅れになった時ではもう駄目だ。過去の“歴史渡り”たちが苦しみ藻掻きながら、お前まで繋いできた。みんなお前のことを応援している。けれど先代であるオレは具体的なイメージとなって、お前が現実を見れなくなった時のためにいつでもここにいるってわけだ」


そう言ってアクツは僕の心臓部に軽く拳を当てる。

彼なりの励ましのようだった。


「僕はこれからどうすればいいんでしょうかね」


「オレは正しい選択は知らない。お前は“歴史渡り”に関する情報を知る人物を探すために高校生をやっていたんだろ。それは樅山の姪っこで間違いない。別に彼女の記憶を消す必要もない。だからお前はもう高校生をやる必要はなくなった。だから学校をやめて今まで通りの穏やかな日々に戻ってもいい。今まであったことは忘れてこれから新たに楽しく生きていってもいい。……だけど、もしお前が。お前自身が河井との関係をこのままで終わらせたくないのなら。進むのも退くのもお前の自由だ。だけどそのためには、お前も河井と正面から向き合え。どうしたいのか聞け。どう思っているのか聞け。そしてお前もどうしたいか言え。すれ違うな。それぐらいしかオレが言えることはない」


次第に僕の視界はくすみ始める。


気づけば先程の黒猫がぴょんと軽く跳んでアクツの膝の上で着地すると、そのまま丸くなり、気持ちよさそうに喉をゴロゴロいわせている。

そんな彼女を愛おしそうに撫でながら、アクツは僕にもう一言だけ口を開く。


今度ははっきりと澄んだ声だった。


「二度目の高校生なんて絶対楽しいだろ。羨ましすぎるわ」

 

もう十分頭は整理できた。

アクツの話を聞いて、僕が目指すべき未来がより見えた。

そのための方法はまだ分からない。


ただこの幻想的な世界に辿り着くことはもうないのだろうと思って僕は目を閉じた。

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