午後十時:蚕月製糸場前
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「あの……雛さん……?」
先程のゾンビのようななにかではないだろうかと、暮春はこわごわと声をかける。
しかしゾンビは動きが横にゆらゆらと歩いていたが、今巫女装束を身に纏っている彼女は体幹がしっかりしていて、ゆらゆらし出す素振りは見せない。なによりも、ゾンビたちから感じる得体の知れないオーラを、彼女から受け取ることはなかった。
「あの、どうしてこんなところに……危ないじゃない。あんなに桑の木人形がうろついているのに……!」
「ん、かのきじんじょうって」
雛の悲鳴に、花月はきょとんとした顔をしてみせる。
この地全体を覆う寒気と怖気で、暮春は動いてないとやってられない状態、そもそも桃井はゾンビたちに走らされ続けたせいで、息切れしている中、彼女だけは本当にいつもの調子であった。
あまりもの彼女のマイペースっぷりに拍子抜けしたのか、雛はちらりと桑の木人形と呼ばれたゾンビたちのほうに視線を向ける。
「……あれはおしら様のお使い。おしら様に供物を捧げるために、他所から来た生きている人間を探しているの」
「あいつらってさあ、ゾンビなのか? 死んでんのか生きてんのかもわからんけど、神社のお清めの塩は効いたんだよなあ」
塩を撒きながら全力疾走したなんて話をしたせいか、雛もポーカーフェイスが少しだけ崩れて、年相応の少女らしいぎょっとした顔になる。
「あれは……おしら様の選別した繭を受け入れたら、おしら様の端末になるとおじいちゃんから聞いた。もっとも、それは本当に邪道で、本来だったら禁止されているはずなんだけど」
「んー……そこなんだけどさあ。あそこの製糸場が建つ前は、神社があったんだろう? お前の言い方だったら、おしら様は本当にろくでもない神様だけど、そんな邪神を祀ってる神社だった訳?」
「違う……元々行われていた儀式が滞ったせいで……神が反転してしまったの。村の出身者たちが今でも祀っているおしら様と、私のおじいちゃんが宮司として祀っていたおしら様は、もう別物と言ってもいい存在だから」
彼女は心底悔しそうな顔をして、桑の木人形たちを見た。
ここの土産物屋通りで見た店員たちは軒並み年寄りばかりだったが、ここで歩き回っている人々は皆一様に若い。
まるで観光客の一部を桑の木人形に変えてしまい、おしら様に服従するように仕向けたように見える。そして、服従させられなかった人間は、そのままおしら様に捧げられるというらしい。
桃井は強張った顔で、雛に尋ねる。
「あの……雛さん。この村……製糸場をつくられる際に無理やりこの地を取り上げられたと伺いましたが……それから、本当になにがあったんですか……? 雛さんも、おじいさんから聞いたことまでしかわからないんでしょうけど……」
「……本当は、もう宿から出ず、なにも見ずに聞かずに知らないまま帰って欲しかったんだけど……手遅れなら仕方ないか。私もおじいちゃんから聞いた話までしか知らないけれど。いろいろ抜けていたらごめんなさい」
暮春は冷や冷やしながら、辺りを伺う。
正直、花月ほど冷静な訳でもなく、桃井ほど雛が心配な訳でもない暮春からしてみたら、こんなところで立ち話せずに、さっさと用事を終わらせて帰ったほうがいいのでは、と思う。ここで立ち話している間に桑の木人形に襲われたら、元も子もないのだから。そもそも供物に生きた人間を捧げようとしている狂信者とそのお使いに捕まったらどうなるのかなんて、想像することすら拒否してしまっている。
しかし、暮春のおどおどした態度とは別に、あくまで花月は雛の話を聞くつもりらしいし、桃井は最初から最後まで雛を優先させるつもりらしい。
暮春は寒気でシャツの上から袖をさすった。
未だに桑の木人形と呼ばれるゾンビたちは、この辺りを徘徊している。
頼むから、話の間だけでもこっちに来てくれるなと、祈ることしかできなかったのである。
****
蚕月神社を取り潰して、その上に近代化した製糸場を置く。この地を統べるおしら様のことさえ知らなければ、合理的な考えである。
この村を囲むような桑の木の森には手を付けられない。そもそもこの地の養蚕は自然任せなのだから、桑の木の森に手を付けてしまったら最後、蚕月村特有の大きな蚕は育たなくなってしまうかもしれなかったからだ。
だからと言って、この村の中を取り潰すのもよろしくなかった。村の土地は買い取るにしても、この鉄道も遠い地に製糸場で働く従業員たちを住ませる場所がなくなってしまう。
その中でなくなっても困らないと判断したのが、蚕月神社であった。なにぶん全てを取り仕切っていたこの事業のオーナーは神道についても蚕信仰についても無知もいいところで、神社を取り潰すという話をあれだけ反対されるということに理解を示さなかったのだ。
市の権力者を買収し、土地を購入。神社の権力者も買収して、蚕月村で宮司を務めていた一家も追放したあと、村の人間も全てお見舞金を与えて追い出そうとしたが。
それでも村民たちはなかなか納得せず、村に留まり続けたのだ。土地を購入した以上、ここは私有地なのだからと、とうとう警察を呼ぶ騒ぎになった。
しかし抵抗虚しく神社は取り壊され、その上に製糸場は完成した。なおも抵抗を続ける村人たちもいたが、その間にどんどん製糸場で働く者たちを住ませる施設をつくり、村人たちの住む場所を圧迫させていった。
製糸場が始動したあと、ようやく村人たちが黙ると踏んでいたが。
異変は本当に唐突に起こった。
従業員のひとりが唐突に、おかしな動きをするようになったのだ。
「今日も終わったら、ちょっと飲みに行こうや……ん、お前どうした?」
隣の従業員に、作業の合間に声をかけたところ、どうも会話が成立せず、あれと思った。それどころか、いきなり手を伸ばしてきたと思ったら、いきなり従業員の首を折れんばかりに絞めつけてきたのだ。
いきなり首を絞められた従業員はすぐに病院に運び込まれ、首を絞めた従業員は取り押さえられて警察に連れていかれたが、その一件だけでは事は終わらなかった。
作業が終わったあと、見回りをしていた警備員は、唐突に行方をくらませてしまったのである。当時はまだ監視カメラもなかった時代。捜査はされたものの、その事件は迷宮入りになってしまった。
それらが何度も降り積もっていった。
一件二件であったら、この地は鉄道に着くまでに二時間はかかるため、いくらでも揉み消せた。しかし雪だるま式に増えていく不可解な事態に、とうとう従業員の近親者から問い合わせが殺到していった。
それすらも黙殺していたが、怒った近親者たちはとうとう新聞社に密告し、取材に訪れた記者が現れたのである。
それこそが村民たちが待ち構えていた者だった。村民たちはこぞって製糸場の不正を訴え、この地を帰してほしいと訴えた。
しかしこれらは市政どころか県政の不正、賄賂まで暴きかねない案件であった。当然そんなものを暴かれる訳にはいかないと、オーナーは新聞社に揺すぶりや脅迫、賄賂を持って黙らせようとしたが。
とうとうそこで、一番起こしてはいけないものが、起きてしまった。
本来、おしら様は養蚕の神とされているが、それが及ぶ範囲は意外と広い。家や農業、馬の神とされている。
蚕月村みたいにわざわざ神社を建てて祀られる例は少ないが、養蚕を行っていた地方では民家に祠をつくって祀られる例は多い。
蚕月村では代々、その年にできた生糸で織った布をご神体に着せる服に着替えさせ、供物を供えることで祀り上げていたが、その年は神社が壊されてしまい、当然ながら祀りは行われていない。供物も供えられていない。
おしら様を祀るときにはいくつか禁忌が存在しているが、一番犯してはいけない禁忌は、一度でも祀ったことがあるものが祀り上げないということだ。
おかしい、おかしいと思われていた製糸場は、その夜にとうとう様変わりしてしまった。
蚕月製糸場で働いているのは、製糸場が建てられたときに従業員として村に入った者だけではなく、村の者たちから「裏切者」とかつて雛のおじいちゃんやおばあちゃんが言われた言葉を向けられた者たちもいた。この地が取り上げられてしまった以上、もう蚕を採ることもできなければ、生糸を繰ることもできなくなってしまったため、働き口を求めて製糸場で働きはじめた者たちもいたのだ。
村の者たちの目が怖い上に、ときおり家に投げ込まれる石や脅迫文は怖かったが、働かなければ生きてはいけない。堪忍してくれと思いながら、今日も製糸場で乾かしていた繭玉の様子を見に行ったときだった。
「……あれ?」
繭玉の大きさがおかしかった。本来、繭玉を干した場合、水分が抜けて小さくなることはあっても、大きくなることはまずない。
いくら蚕月村で育った蚕の繭玉が大きいとはいえど、大の男の掌よりも大きくなることなんてまずありえないし、これはどこかで水分を吸ってしまったんだろうか。
従業員はおそるおそる繭玉を手に取った途端。
急に繭玉の繭が解けたかと思ったら、その糸は急に従業員に絡まった。
「なっ……なんで……だ、れか……!!」
大声を上げて人を呼ぼうとしても、糸は喉にすら絡みついて締め上げ、声が出ない。体全体が糸で縛り上げられたかと思ったら、そのまま大きな繭玉になって、従業員は床に倒れた。
あちこちで、そんな不可解な繭玉が転がって回ったのだ。
従業員は混乱したものの、声が出ないし、助けを求められない。足も手も縛り上げられてしまったので、繭玉から脱出することも不可能だった。だが、外から聞こえる声だけは聞こえた。
「この裏切者もおしら様に?」
「ああ……反転してしまってもおしら様はおしら様だ。肉を所望している以上は、供物を捧げないと」
それに従業員は絶句した。
おしら様は本来、肉を供物として捧げることはまずない。だが、この製糸場で起こっていた不可解な出来事。
供物が捧げられず、祀られずに腹を空かしたおしら様が、ありえないほどに暴走していたのだ。
揉み消そうとしても揉み消せず、とうとう新聞社まで巻き込んで騒ぎ立てても、なおも揉み消そうなんてするから。さっさと諦めてこの地を手放せば済んだ話だったのに。
土地を奪われ、職を奪われ、生き甲斐を奪われ、義を奪われた村民たちが、怒りのままにおしら様への狂信だけで己を保っている。
……反転したのはおしら様が先だったのか、村民が先だったのかなんて、もうわかりはしない。
声の主たちに、従業員は運び出された。だんだん繭越しに、なにか匂いがすることに気付いた。
それは熟した桑の実を強い酒と蜂蜜で漬け込んだ桑の実酒の匂いだ。
鈴の音が鳴った。
「おしら様。供物を捧げます」
「おしら様。ここにはもう宮司はいませんが」
「おしら様。私たちをお助けください」
「おしら様。私たちの土地を返してください」
「おしら様」
「おしら様」
「おしら様」
・
・
・
・
もし宮司がいたのなら、こんな馬鹿馬鹿しい祭りは辞めろと止めただろう。いや、既に狂信者となってしまった村民たちにどれだけ届くかはわからない。
従業員が転がされたのは、おそらくは製糸場だろう。自分と同じく繭玉にされてしまった人々が、次々と転がされ、鈴の音を鳴らす村民たちの身勝手な願いに、怒りと恐怖で身を震わせている。
やがて、なにかが震えた。なんだろうと従業員は思う。
村民たちが祀っているのは、本来だったら宮司が祀っていただろうご神体だ。桑の木でつくられた人形に、今年織った布の服を着せるのだが、今年は着せる人がいないせいで、去年のもののままのはずだ。
ご神体から、何故か声がする。
「────……」
誰。その声は甲高く、繭玉にされてしまっている従業員からは、なにを言っているのかは聞き取れない。ただその声は人の声とは思えないほど神々しく、透明度が高い。
これがおしら様だというのか。
やがて、今度は「ギャァァァァァァ……!!」と悲鳴が続く。それは、人間の声で、自分と同じく村民に「裏切者」と罵られながらも製糸場で働きはじめた同僚であった。
村民たちが、「裏切者」と言い捨てた者たちを、おしら様に「供物」として捧げている。
その意味に気付いて、従業員は顔を青褪めさせた。どうにかして逃げないと。しかし声は出ない。腕はほどけない。足も縛られたままだ。それでも。体を必死でもがいた。もう糸で腕が切れる、足が傷つくと考える余地などなかった。
今、逃げないと殺される。なんなのかわからないものに食い殺されるよりも、村民全員を敵に回してでも逃げ出すほうが、まだましだった。
ブチリ、ブチリと糸が切れる。絹糸は強く丈夫で、下手すると身も切れそうだったが、それでも必死で糸を千切って、従業員は繭から脱出したのだ。
そして辺りを見回して、愕然とする。
自分の知っているご神体の服を、透明な「ひと」が着ていた。それは透けていて、まるで蛾のようだった。育ち切った蚕が羽化する直前のようなものがそのまま人型になった存在を、村民たちが鈴を鳴らして、供物を捧げて祀り上げていたのだ。
従業員は、もうそれ以上見ている余裕はなく、必死に体を振り回して逃げはじめた。
見知った顔の者たちが、怒声や罵声を浴びせてくる。
「逃げたぞ!」「追え!」「殺せ!」「捧げろ!」
「おしら様!」「おしら様!」「おしら様!」「おしら様!」
堪忍してくれ。堪忍してくれ。堪忍してくれ。堪忍してくれ。
従業員は、すごい勢いで追いかけてくる村民たちを背に、わき目も降らず走り続けた。腕が千切れそうだし、足はガクガクしてきた。それでも怒声も罵声もずっと耳にこだましているのだ。逃げないといけない。逃げないと殺される。
「どうしたんですか!?」
気付けば桑の木の森を越え、蚕月村も越えて、市と市の境すらも越えて声をかけられたが、従業員は既にその声すら聞こえていなかった。
「堪忍してくれ……俺は……死にたくない……」
ぼろぼろの繋ぎの従業員を保護したのは、隣の市の古い神社を任されていた宮司……雛のおじいちゃんであった。
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