「囲碁の恋」映画化用脚本(初稿)
【タイトル】『囲碁の恋』
【想定尺】本編のみ約88分
本編88分+休憩10分+囲碁プロレスがあった場合⇒約190分
【脚本家】黒羽 翔
【ページ数】20×20字換算 本文88枚
【梗概】
大学生の恋路亘は、同じ学部の女子大生・稲穂香織に一目惚れする。「普通の恋」と思っていた恋路はデートを積み重ねた末に告白するが、香織は自分が囲碁棋士と打ち明け、「囲碁が強い人じゃないと尊敬出来ない」と言って、フってしまう。恋路が諦め切れずに粘ると、香織は個人レッスン料を要求して、恋路を囲碁サロンに連れて行く。
香織のバイト先で、仁村博久九段が経営する囲碁サロン『ニギリ』にやってくると、恋路は香織から囲碁の基本ルールを教わり、囲碁の面白さや楽しさに惹かれていく。
そこへ、仁村の息子で日本棋院院生(プロ候補生)の仁村実が現れる。恋路が香織に惚れて碁を始めたと語ると、実は気分を損ね、六路盤で囲碁対決をすることに。実は恋路に圧勝、プロへの強い拘りから恋路に激怒して退室する。見かねた仁村が礼儀礼節の大切さを恋路に説き、レッスンはお開きとなる。
香織は恋路に謝罪するが、恋路はもっと教わりたいと言って囲碁を続けることに。
香織がタイトル戦の大盤解説に参加している会場へ、恋路も遊びに来る。
しかしプロ棋士の香織と、そうではない自分が互いに別の世界で生きていると感じた恋路は、囲碁に真剣に打ち込んで急激に棋力を上げ、外来予選を勝ち抜く。
恋路は次の合同予選にも参加するが、実に完膚無きまでに負かされて落ち込むが、香織に励まされ、合同予選もなんとか通過し、仁村からも激励を受ける。
11月の本予選最終戦、恋路と実の対局は勝った方がプロになれる大一番。恋路は実に半目勝ちする。敗北を受け入れられない実に仁村は礼儀礼節を欠いたら栄光は得られないと指摘し、プロになった恋路を祝福する。
恋路は待っていた香織に改めて告白する。恋路は「手は繫いで良い」と言われて感激し、香織の手を握って帰り道を歩いて行った。
【登場人物表】
清掃員
女流棋士A
女流棋士B
女流棋士C
係員A 日本棋院職員。外来予選、合同予選記録係。
係員B 日本棋院職員。本予選最終戦・棋譜読み上げ。
係員C 日本棋院職員。本予選最終戦・記録係。
若者A 外来予選参加者。
若者B 外来予選参加者。
若者C 外来予選参加者。
若者D 外来予選参加者。
記者
【本文】
○大学・教室(昼)
恋路亘(18)、私服姿で目を見開く。
恋路(M)「これは、普通の恋だと思っていた」
長テーブルと椅子が備え付けられた、二〇畳ほどの広さの教室。
恋路の先で椅子に座る女子グループ。
稲穂香織(18)、春物の私服姿で、女友達の江繋理沙(18)と談笑する。
恋路、香織に見惚れている。
恋路(M)「同じ学部の女の子に一目惚れ」
理沙「恋路君に聞いてみたら?」
恋路「えっ」
理沙「ちょっと恋路君、来て」
恋路、香織と理沙に恐る恐る歩み寄る。
恋路「江繋さん、何?」
理沙「こちら、稲穂香織さん」
恋路「恋路、亘です」
香織、微笑んで恋路に上目遣い。
香織「稲穂香織です」
恋路(M)「僕はもう、完全に恋に落ちた」
○大学・食堂(昼)
学生達で賑わう食堂。
恋路、香織、理沙、三人で同じテーブルに着いて談笑する。
恋路(M)「最初は仲間と一緒」
○大学キャンパス・敷地内歩道(昼)
恋路、香織、私服姿で教科書や鞄を抱えながら談笑して、並んで歩く。
恋路(M)「でも、次第に二人きりになり」
○喫茶店内(昼)
オシャレな雰囲気の喫茶店。
恋路、香織、私服姿で、テーブルに着いて談笑する。
恋路(M)「二人で何度かお茶をして」
○遊園地・メリーゴーランド(昼)
大勢の客で賑わう遊園地。
恋路、香織、私服姿で、楽しそうにメリーゴーランドに乗る。
恋路(M)「二人でデートにも行った」
○遊園地・敷地内・遊歩道(昼)
恋路、香織、私服姿で敷地内を歩く。
香織「楽しかったぁ」
恋路「良かった」
香織「じゃあ私、この後バイトだから」
恋路「香織ちゃん!」
香織「何?」
恋路、香織、歩みを止める。
恋路、緊張で全身を振るわせて立つ。
恋路「すっ……好きです!」
香織「ワタル君」
恋路「僕と、付き合って下さい!」
恋路、頭を下げて右手を伸ばす。
香織、気まずい表情。
香織「ごめんなさい」
恋路、顔を上げて苦悶の表情。
恋路「なんでダメなの?」
香織「私、囲碁が強い人と付き合いたいの」
恋路「……はい?」
香織「ワタル君には言ってなかったけど、私、囲碁棋士なんだ」
恋路「全然知らなかった」
香織「囲碁が強くないと私、尊敬出来ない」
香織、恋路から離れようとする。
恋路「まっ、待って!」
恋路、香織の前に慌てて立ち塞がる。
恋路「じゃっ、じゃあ! 僕、囲碁強くなる!」
香織「囲碁、分かるの?」
恋路「分かんないけど、僕に囲碁を教えて! 囲碁を覚えて強くなるから! お願い!」
香織、自分の顎を持って考える仕草。
香織「今、いくら持ってる?」
恋路「いくら? えっ、お金? どうして?」
香織「私に払う、個人レッスン料」
香織、真顔で恋路を見つめる。
恋路(M)「これは、普通の恋ではない」
タイトルテロップ『囲碁の恋』
○繁華街・ビル前(昼)
商業ビルが立ち並ぶ繁華街。
恋路、香織の後ろに随いて歩く。
香織、恋路、ビルの中に入る。
『囲碁サロン ニギリ』の看板がある。
○囲碁サロン『ニギリ』(昼)
香織、扉を開けてサロンの中に入る。
恋路、香織の後ろに随いて入る。
碁盤や机が並ぶ、お洒落な雰囲気の店。
仁村博久(51)、スーツ姿で高齢者の客に指導している。
仁村、香織を見て、客に頭を下げる。
仁村「ちょっと失礼します」
仁村、客の下を離れて香織に近付く。
仁村「香織ちゃん。この方が?」
香織「はい、こちら同じ大学の恋路亘さん」
恋路「初めまして」
香織「ワタル君。この方はサロン経営者で、囲碁棋士の仁村博久先生」
仁村「こんにちは」
恋路「香織ちゃんのバイト先って」
香織「そう。ここで働いているの」
仁村「香織ちゃん。この子、彼氏?」
香織「いいえ。さっき告白されて囲碁強くないと無理って断ったんですけど、じゃあ
囲碁を教えてって言って諦めないんです」
仁村「ワタル君、囲碁の経験は?」
恋路「ありません」
仁村「囲碁のルールは?」
恋路「知りません」
仁村、鼻で笑う。
仁村「ワタル君、トンデモない女の子に恋をしてしまったね。男の子でも素人じゃ女
流棋士には勝てないよ」
恋路「そうなんですか」
仁村「だけどせっかくの機会だ、ぜひ囲碁を覚えて帰って欲しい。この世界で囲碁よ
り面白いモノなんて無いんだ」
恋路「本当ですか?」
仁村「本当さ。囲碁を覚えれば素敵な毎日が君を待っているよ」
恋路「それは楽しみです」
仁村「香織ちゃん、六路盤を使いなさい。十九路盤だと難しいだろうから」
香織「はい。ワタル君、行こう?」
香織、恋路、空いている座席へ歩く。
恋路、香織、向かい合って着席する。
盤に蓋を閉めた碁笥が二つ置かれる。
香織、机の一九路盤の上にある碁笥を
退かして、六路盤ボードを盤上に置く。
恋路「やっぱり、囲碁って難しいの?」
香織「……勝つのが難しいの」
恋路「実際に体験してきた言い方だね」
香織「だけどルール自体は簡単だから、すぐに覚えられるよ!」
恋路「頑張るよ」
香織「じゃあ、まずは挨拶」
恋路「挨拶?」
香織「礼に始まって、礼に終わるのが囲碁」
恋路「分かった」
恋路、香織、椅子の上で背筋を正す。
香織「では、お願いします」
恋路「お願いします」
香織、恋路、頭を軽く下げる。
香織、二つの碁笥の蓋を取り、黒石の入った碁笥を恋路側に寄せる。
香織「囲碁は黒と白がかわりばんこに打ちます。黒が先番で、白が後手番。一度置い
た石は動かすことが出来ません」
香織、白石の碁笥を自分側に寄せる。
恋路「オセロと一緒だね」
香織、碁笥の蓋をそれぞれの碁笥の前に置いて見せる。
香織「石は四角い枠の中じゃなくて、線と線の交点に打ちます」
香織、恋路側の碁笥から黒石を取り、六路盤の碁線の交点に打って見せる。
恋路「見たことある」
香織「それで、囲碁は陣地の数を競います」
恋路「陣地? 石の数じゃなくて?」
香織「ちょっと見てて」
香織、二つの碁笥から交互に黒石と白石を右手指で摘んで、六路盤に置く。
恋路、香織の指裁きに見惚れる。
※六路盤の座標は、左から右に1~6、上から下に一~六で示す。
※交点座標は黒番から見て、(横の縦{アラビア数字の漢数字})と記す。
香織、黒石で縦の4線を埋め尽くし、
(3の四)に黒石を一子置く。残りの縦3線を五つの白石で埋めて、(2の
三)、(2の四)に白石を置く。黒も白も盤上にそれぞれ七子置かれた状態
(盤面①)を作る。
香織「石を点ではなく、線で考えてみて」
恋路「線?」
香織「そう、境界線を引くイメージで」
香織、人差し指で黒石の上をなぞる。
香織「自分の石と碁盤の線で囲った空き地が陣地。石を置ける交点の数を競います。
例えば、黒番なら?」
恋路、5線と6線を指差して数える。
恋路「一二三四五六七八九十、十一、十二」
香織「だから十二点」
恋路「それだけ? じゃあ、白は」
恋路、1線と2線の交点を指差す。
恋路「一二三四五六七八九十、十点だ」
香織「だから黒の勝ち」
恋路「あっ、本当にそれだけなんだ」
香織「陣地の数え方は点じゃなくて一目、二目、石は一子、二子と数えます」
恋路「じゃあ黒が十二目、白が十目だね?」
香織「そう」
恋路「石ってさぁ、何処に打ってもいいの?」
香織「良いよ」
恋路「だけど、何処に打っても良いならさ」
恋路、香織側の碁笥から白石を摘み、5線一~三、6三に四つの白石を置く。
恋路「黒の陣地の中に、白が陣地を作れば、白は有利にならないの?」
香織「ならないんだなぁ」
恋路「どうして?」
香織「じゃその前に、石を取る話をするね。一旦、黒石を退かしてくれる?」
恋路「分かった」
恋路、香織、石を碁笥の中に戻す。
恋路「なんか楽しいなぁ」
香織「そう?」
六路盤から碁石がなくなる。
香織「石は、囲うと取ることが出来ます」
香織、白石を(3の三)の地点に置く。
香織「オセロなら上下左右斜めのどれかを挟めば裏返せるけど碁はそういきません」
香織、白石の上下左右の線を指差す。
香織「碁盤の線は石の逃げ道みたいなモノ」
香織、黒石を右手で摘んで、(3の三)の白石の上下左右に置く。
香織「逃げ道を全て塞いだ時に取れます」
香織、(3の三)の白石を摘み、恋路側の碁笥の蓋に入れる。
香織「取った相手の石は入れ物の蓋の上に置いて、大切に取っておきます」
恋路「一子取るのに四つも石が必要なのか」
香織「でも斜めは関係無いよ。それにね」
香織、自分側の碁笥から白石を摘み、
(1の一)の隅、(4の一)の端に置く。
香織「隅や端は逃げ道が少ないでしょ?」
香織、盤上の黒石を動かし、さらに恋路側の碁笥から黒石を一個摘んで、
隅と端の白石を囲うように黒石を置く。
香織「だから隅なら二子、端は三子で石を取ることが出来ます」
恋路「オセロは隅や端は取られにくいよね?」
香織「囲碁は逆に取られ易いから、初めのうちはあまり打たない方が良いんだよ」
恋路「石は一個ずつしか取れないの?」
香織「そんなことないよ」
香織、3線の二~四段に白石を置く。
香織「こんな風に石が複数個並んでても」
香織、3線の一と五、2線の二~四、4線の二~四に黒石を素早く並べる。
香織「石の集団の上下左右を囲えば」
香織、3線の二~四段の白石を取る。
香織「一度に全部取ることが出来るの」
恋路、盤上の黒石を全て碁笥に入れる。
恋路「だけど、相手も取られたくないじゃん」
恋路、白石を(3の三)に置き、黒石を(2の三)、(4の三)、(3の二)
の地点にそれぞれ並べる。
恋路「囲われたら取られちゃうんだからさ」
恋路、(3の四)に白石を打つ。
恋路「相手もこうやって逃げない?」
香織「逃げるね」
恋路「やっぱ、逃げるよね?」
香織「後一個で取られる状態をアタリって言うんだけど」
恋路「相手も中々取らせてくれないわけか」
香織「オセロなら何回でも取り返せるけど、囲碁の場合は取られちゃうじゃん。相手
も逃げるし、中々取れないんだよね。だけど相手の石を一〇個も二〇個も取れたら
さ、中々取れない分、物凄く気持ち良いよ!」
恋路「囲碁の話をしてる時の香織ちゃん、凄く楽しそうだね」
香織「楽しいよ。だから大好きなの!」
恋路「俺が?」
香織「囲碁が! ワタル君じゃない!」
恋路「そんな全否定しないでよ……」
香織「話を戻そう」
香織、石を動かし、以前の数え易い盤面①の状態に戻して見せる。
香織「さっきこの状態でさぁ」
香織、自分側の碁笥から白石を摘み、5線一~三、6三に白石を計四子置く。
香織「白が陣地を作れないか訊いたよね?」
恋路「訊いた。こっちの方が得じゃない?」
香織「でも囲碁はかわりばんこに打つから」
香織、黒石を(5の四)、(6の四)、(6の一)と、打つ(盤面②)。
香織「白が四つ置けるなら黒も四つ置ける」
香織、(6の二)に黒石を打つ。
恋路「白石が囲われちゃった」
香織「だから全部取られちゃう」
香織、5線一~三、6三の白四つを取り、恋路側の碁笥の蓋に入れる。
恋路「黒の陣地の数が八目。白は一〇目だ。やっぱり相手の陣地に入った方が点数を減らせるから良いんじゃないの?」
香織「でも今、白石を四つ取ったでしょ?」
香織、恋路側の碁笥の蓋から白石を四つ摘み上げて左手に取る。
香織、蓋の白石を白の陣地に置く。
香織「取ったアゲハマは、対局が終わった後で、相手の陣地を埋める時に使います」
恋路「白の陣地が四つ減ったから六目だ」
香織「最初は黒が十二目、白が十目で黒の二目勝ち。でも今度は黒が八目、白が六
目、やっぱり黒の二目勝ち」
恋路「結局一緒だから意味無いのか」
香織「そういうこと」
恋路「分かった。他にはルールある?」
香織「うん。囲碁は基本的に交点の何処に打っても良いんだけど、打ってはいけない
『着手禁止点』があります」
香織、(3の三)の上下左右に黒石を置く。
香織、(3の三)を指差す。
香織「この場所って白は打てると思う?」
恋路「逃げ道が無いから取られちゃうね」
香織「だから打てないって決まりなの」
恋路「取られる場所には打てないんだね」
香織「こういう形もあるよ」
香織、(3の四)の黒を(3の五)の位置に下げ、(2の四)、(4の四)に
も黒石を置いて、(3の三)に白石を置き、(3の四)を指差す。
香織「ここって白は打てると思う?」
恋路「いや、黒に取られるから打てないな」
香織「そういうこと。でも例外もあるよ。さっき、ちょっとやったんだけどね」
恋路「本当に?」
香織、盤面②の状態に石を並べる。
香織「私、この後(6の二)に黒を打ったけど」
恋路「あっ、本当なら白に取られるじゃん」
香織「だけど、白の四つもアタリでしょ?」
恋路「本当だ!」
香織、(6の二)に黒石を打つ。
香織「相手の石を取れる時は、打つことが出来るんだ」
香織、囲った白石を取り、恋路側の碁笥の蓋に入れる。
恋路「なるほど。囲碁って面白いね」
香織「でしょ?」
恋路、香織、微笑み合う。
扉の開く音がサロンに響き渡る。
仁村実(18)、白の私服姿で入室する。
香織、実の方へ振り向く。
仁村、実に構わず生徒の指導を続ける。
香織「みのる、お帰り」
実、香織と恋路の下へ歩み寄る。
実「香織。いや、稲穂先生と呼ぶべきかな」
香織「どうだった?」
実「勝った」
香織「良かったね」
実「もう年下ばかりだもん」
実、椅子に座った恋路を見て微笑する。
実「もしかして、香織の彼氏?」
恋路「残念ながら違う」
実「見かけない顔ですね。棋士の先生ですか?」
香織「恋路亘君。大学の同級生」
実「マジで? 大学で見たこと無いけど」
香織「私達、学部違うじゃん」
実「なんでまた囲碁を?」
香織「告白されたの」
香織、照れ臭そうに口を手で覆う。
恋路「囲碁強くないと付き合えないってフラれたから、教えてもらっていたんだ」
実「そんなんじゃ一生強くなれないよ」
恋路「何だと?」
実「ルールは覚えた?」
恋路「一応ね」
実「六路盤か。俺と対局しないか?」
香織「みのる!」
恋路「望むところだ」
実「稲穂先生、退いてください」
実、香織を押し退けるように恋路の向かい側に立つ。
実「俺が後手の白番を持とう」
恋路「良いだろう」
恋路、実、盤上と碁笥の蓋に乗る石をそれぞれの色の碁笥の中に戻す。
実「投了する時は、アゲハマの白石を碁盤に置くんだ。石が取れればの話だがな」
恋路「調子に乗るなよ、行くぞ!」
香織、恋路を心配そうに見つめる。
恋路、実、六路盤を挟み対峙する。
恋路、椅子に座って碁盤を見つめる。
実、立ったまま余裕の振る舞い。
恋路「えっと、隅や端は最初の内は打たない方が良いんだよな」
恋路、右手の親指、人差し指、中指の三本を使って、黒石を摘み上げる。
❶恋路、黒石を(3の三)に打つ。
実「手付きが初心者だな」
実、人差し指と中指だけで白石を摘む。
①実、白石を(3の四)に打つ。
恋路「じゃあ次はこうだ」
❷恋路、黒石を(4の四)に打つ。
②実、白石を(2の三)に打つ。
❸恋路、黒石を(2の四)に打つ。
恋路、3四の白石を指差す。
恋路「これでアタリだ」
③実、白石を(3の五)に打つ。
実「逃げる」
恋路「次はこれだ」
❹恋路、黒石を(2の二)に打つ。
実「じゃあ、こう」
④実、白石を(4の三)に打つ。
❺恋路、黒石を(1の三)に打つ。
恋路「よし、石を取ったぞ!」
恋路、(2の三)の白石を碁笥の蓋に入れる。
実「そんなに嬉しい?」
⑤実、白石を(5の四)に打つ。
実「4四の黒がアタリだ」
恋路「取らせない」
❻恋路、黒石を(4の五)に打つ。
実「追いかける」
⑥実、白石を(5の五)に打つ。
恋路「さらに逃げる」
❼恋路、黒石を(4の六)に打つ。
⑦実、白石を(2の五)に打つ。
❽恋路、黒石を(1の五)に打つ。
恋路、(1の四)と(2の三)を指差す。
恋路「これでここには打てないよ」
⑧実、白石を(3の二)に打つ。
恋路「返り討ちだ!」
❾恋路、黒石を(3の一)に打つ。
実「甘い!」
⑨実、白石を(2の三)に打つ。
(3の三)の黒石を取り上げ、碁笥の蓋に入れる。
実「石を取れる時は囲われていても置ける」
恋路「そうだったな。だが取り返す」
❿恋路、黒石を(3の三)に打つ。
実、(3の三)の黒石を恋路側の碁笥に戻す。
実「打てない」
恋路「はっ!?」
香織「ワタル君、コウになってるの」
恋路「コウって?」
香織、(2の三)の白石を左手で、(3の三)の上に黒石を右手で摘み上げて
見せる。
香織「アタリに石を置くとお互いアタリになって、無限に石を打てちゃうでしょ?
だからコウになったら、次の手番の人は必ず違う場所に打たなきゃいけないの」
恋路「そうなの!?」
実「本来は貴方の反則負けだが、打ち直しを認めよう。他の場所に打ちな」
香織、黒石を碁笥に戻す。
恋路「仕方が無い。じゃあ、こっちだ」
❿恋路、黒石を(4の二)に打つ。
⑩実、白石を(3の三)に打つ。
恋路「あっ!」
実「コウは解消して良い」
恋路「じゃあ、これだ」
⓫恋路、黒石を(5の三)に打つ。
恋路、3線の白の一団を指差す。
恋路「この真ん中の白を全部取ってやる」
⑪実、白石を(5の二)に打つ。
⓬恋路、黒石を(6の三)に打つ。
恋路「外側に逃げる」
⑫実、白石を(4の一)に打つ。
実「だが、こっちが取れる」
実、(4の二)の黒石を碁笥の蓋に置く。
恋路「嘘っ!」
実「両アタリ、知らないの?」
恋路「まだだ!」
⓭恋路、黒石を3六に打つ。
実「うん?」
恋路「まだ真ん中の白を狙っているんだ」
実「だが、これが取れる」
⑬実、白石を(2の一)に打ち、(3の一)の黒石を取り上げて、自分の碁笥の
蓋に入れる。
恋路「えっ!」
実「弱過ぎる」
恋路「じゃあ、これならどうだ」
⓮恋路、黒石を(1の一)に打ち(1の二)を指差す。
恋路「石で囲った場所には打てない!」
⑭実、白石を(1の二)に打ち、(1の一)と(2の二)の黒石を取り上げて碁
笥の蓋に入れる。
実「だから、石を取れる時は打てるって」
恋路「あっ、そうだ。二つも……」
実「もう無理だ。諦めろ」
恋路「諦めない!」
⓯恋路、黒石を(2の六)に打つ。
⑮実、すました顔で白石を(5の六)に打つ。
⓰恋路、黒石を(6の四)に打つ。
恋路「右下の白三つを取ってやる!」
⑯実、淡々と白石を(6の二)に打つ。
恋路「逆に俺の黒三つがアタリか。なら!」
⓱恋路、黒石を(1の六)に打つ。
恋路「どうせ取られるなら攻めてやる!」
実、碁笥から白石を摘み上げ、頭上に一旦掲げた後、自分の目元に寄せる。
実「喰らえっ!」
⑰実、白石を(1の四)に強く叩き付けるように打ち込み、大きな石音を鳴ら
す。
実、1~4線の黒石を全て取り上げる。
恋路「なっ、何ぃぃぃ!?」
実、黒石を碁笥の蓋に入れ、歪む表情。
実「ワタルさん、これが囲碁だぜ!」
⓲恋路、絶望した顔で黒石を(4の四)に打つ。
⑱実、白石を(4の五)に打ち、(4の四)の黒石を取り上げて、碁笥の蓋に入
れる。
⓳恋路、無言で黒石を(6の一)に打つ。
⑲実、白石を(5の一)に打ち、(6の一)の黒石を取り上げて、碁笥の蓋に入
れる。
⓴恋路、力無く黒石を(6の六)に打つ。
⑳実、白石を(6の五)に打ち、全ての黒石を取り上げて、碁笥の蓋に入れる。
実「イェーィ、真っ白ぉ」
恋路、自分側の碁笥の蓋にある白石を(6の六)に置き、右手で頭を抱える。
恋路「ダメだ……」
香織「ワタル君……」
実「なぜ負けたと思う?」
恋路、下を向いたまま黙っている。
実「まぁ、分かるはずもないか」
香織「みのる、なんてことするの!」
実、首を廻して、香織の顔を見つめる。
実「何が?」
香織「ワタル君は今日初めて囲碁を覚えたばかりなのよ!」
実「迷惑なナンパ野郎をやっつけたんだから、むしろ感謝して欲しいけど?」
香織「弱い者いじめみたいな酷い碁を打って!」
実「俺はちゃんとルールを守った上で戦った」
香織「院生の中でなかなか勝てないからって、初めての子に八つ当たりしないで
よ!」
実「八つ当たりじゃない。ちゃんと合意して対局した」
香織「初めてでこんな負け方しちゃ囲碁を嫌いになっちゃうじゃない!」
実「別にいいだろう」
香織「はぁ?」
実「強くなる可能性の無い奴が、囲碁に興味を持って何の意味がある?」
香織「強くなることだけが囲碁の道だとでも思っているの?」
実「上には上が居ると云う現実を先に知っておいてもらった方が良い」
実、真っ白になった碁盤を見下ろす。
実「六路盤は黒番絶対有利。その程度の力で俺に勝とうなんて」
恋路「でも! 誰だって最初は弱いだろ!」
恋路、立ち上がって実を睨む。
仁村、恋路達の方に苦い顔で振り向く。
恋路「君だって、最初から強かったわけじゃないはずだ!」
実「何?」
恋路「今はまだ弱いけど、一生懸命頑張れば強くなるし、プロ棋士にだってなれるか
もしれないじゃないか!」
実「プロ? プロだと! プロをナメるな!」
恋路、実の剣幕に怯む。
実「院生にもならずに、ダラダラ遊んできた温室育ちが、偉そうな口叩くな!」
実、足早にサロンを出て行く。
仁村、生徒の高齢者達に頭を下げる。
仁村「お見苦しい所を見せてしまい、本当にすみませんでした!」
仁村、恋路達の下へ足早に歩み寄る。
仁村「恋路君」
恋路「仁村先生」
仁村「息子の無作法は謝るよ。本当にすまん」
恋路「彼、先生の息子さんだったんですね」
仁村「みのる、十九歳になってもまだプロになれてないから焦っているんだ」
恋路「十九歳になっても、まだ?」
仁村「院生の年齢制限は十九。みのるは今年最後だから内心穏やかじゃないんだろ
う」
恋路「そうだったんですか」
仁村「恋路君、今日は終わりにしよう。けど対局を始める時は「行くぞ!」じゃなく
て「お願いします」だから」
恋路「あっ、はい……」
仁村「相手が無礼なのはしょうがない。けど自分まで無礼に合わせちゃいけないよ」
恋路「そうですね、分かりました」
仁村「じゃあ今日のレッスンは終わりです。ありがとうございました」
恋路、仁村に頭を下げる。
恋路「ありがとうございました」
○繁華街・ビル前・歩道(夕)
恋路、香織、私服姿で立ち話。
香織「ごめんなさい」
恋路「うぅぅん、凄く楽しかったよ」
香織「本当に?」
恋路「だけど、十九歳でまだプロになれないって言われる世界なんだね」
香織「早い子は小学生でプロになるから」
恋路「香織ちゃんはいつプロに?」
香織「私も女流枠で合格したのは高校生の時で、プロになれたのは遅かった」
恋路「高校生で「遅い」のか」
香織「でもプロのレベルは凄く高いから、棋戦だけじゃ食べていけないよ」
恋路「やっぱり、プロの世界も厳しいんだ」
香織「女流タイトルを取るのが夢だったけど、今は女子アナになるのが目標かな」
恋路「女子アナって」
香織「だって囲碁で食べていくの難しいもん」
恋路「……俺なんかじゃ無理だったんだね」
香織「でも二二歳までチャンスあるよ?」
恋路「そうなの?」
香織「うん。日本棋院の冬季採用試験なら二二歳まで受けられるの」
恋路「受けてみたいなぁ」
香織「七月の書類審査で落ちちゃうよ」
恋路「でもまだ三ケ月もあるじゃん」
香織「三ヶ月……も?」
恋路「最初から無理って諦めていたら、俺は香織ちゃんとデートも出来なかったし、
囲碁も教えてもらえなかったよ」
香織「ワタル君」
恋路「香織ちゃんからもっと囲碁を教わりたいんだ! ねっ! お願い!」
香織、微笑して頷く。
恋路、香織に微笑む。
○大学・教室(昼)
恋路、香織、私服姿で横並びに席に
座り、机に載せた折り畳み式の小さな
碁盤を見つめる。
香織、右手で碁盤の中央を指差す。
香織「まず、真ん中ら辺は普通に“中央”ね」
恋路「中央」
香織、黒点が印字された碁盤の中心を指す。
香織「中央の中でも本当に真ん中の真ん中は“天元”って言うから」
恋路「天元?」
香織「中国語で万物成育の根本って意味だよ」
恋路「よく覚えているね、香織ちゃん」
香織「だって習うから」
恋路「院生になってから?」
香織「師匠に教えてもらった」
恋路「仁村先生?」
香織「違うよ」
恋路「えっ、仁村先生って香織ちゃんの師匠じゃないの?」
香織「仁村先生のサロンって渋谷に在るじゃない? 家からも大学からも行き易いか
ら、仁村先生の弟子じゃないんだけど、お願いして働かせてもらっているんだ」
恋路「そうだったんだ」
香織「話、続けて良い?」
恋路「うん」
香織「天元以外にも、黒い点が書かれているでしょ?」
恋路「そうだね。九つある」
香織「この黒い点を星って言うの」
恋路「星か」
香織「よく使うから、覚えてね」
恋路「うん」
香織「碁盤のそれぞれの端っこを“隅”」
恋路「すみ」
香織「ワタル君から見た場合」
香織、折り畳み式碁盤を亘の正面で真っ直ぐ平行に見えるように位置を整え
て、碁盤の右上から時計回りに、人差し指の先で丸を描いていく。
香織「右上隅、右下隅、左下隅、左上隅って呼んでいくの」
恋路「なるほど」
香織、隅の黒い星達を指し示す。
香織「例えば右上なら、右上隅星、左上なら、左上隅星、左下隅星、右下隅星」
恋路「組み合わせて、言葉を創るんだね」
香織、「中央」とした真ん中と、碁盤の「四隅」以外の、上下左右を指し示
す。
香織「そして、中央と隅以外の上下左右を“辺”って言います」
恋路「上辺、下辺、左辺、右辺ね」
香織「まぁ、隅と辺の境界線とか、辺と中央はここまでとか、明確に決められている
わけじゃないから、大体で良いよ」
恋路「なんか算数の図形の授業を思い出すな」
香織「あっ、そういう考え方あるよ」
恋路「やっぱり算数得意だった?」
香織「だって囲碁で使うもん」
恋路「そうなの?」
香織「最近だとAIの開発が進んでいて、囲碁でもAIの勝率予測を中継映像に載せ
ようじゃないかって議論が進んでる。例えば黒の勝率が70%で、白の勝率が3
0%ですみたいに表示して、一般の人にも分かり易く伝えようじゃないかって。あ
れだって、確率だしね」
恋路「囲碁にもAIが入ってきているの?」
香織「そうだよ。去年、Googleが開発したAlphaGoが世界最強の
て、AIが人間を超えたって話題になったんだ」
恋路「もう囲碁でも機械の方が強いんだ」
香織「うん、私もガッカリしちゃったもん。もう機械の方が人間が考えるよりも強い
って現実を見せられちゃうと、人間が囲碁を打つ意味ってあるのかな? って」
恋路「あるよ!」
香織「え?」
恋路「人間だから囲碁を打つ意味があるんじゃん」
香織「ワタル君」
恋路「AIが自分から囲碁を打ちたいなんてプログラマーに言ったの?」
香織、笑顔を見せる。
恋路「AIはプログラムされたことをやらされているだけ。でも香織ちゃんは自分か
ら、囲碁を打ちたい、って思ったんでしょ?」
香織「うん」
恋路「せっかく好きで始めてプロになったんだからさぁ、香織ちゃんには囲碁棋士と
してずっと頑張って欲しいなぁ」
香織「ワタル君……」
清掃員「君達!」
亘、香織、出入口に振り向く。
ツナギ姿の清掃員が清掃道具を抱えながら、出入口の前に立つ。
清掃員「青春しているところ悪いが、清掃に入るんだ」
恋路「あっ、すみません!」
香織「ワタル君、行こう!」
恋路、香織、自分達の荷物を抱えて、席を飛び出す。
恋路「香織ちゃん、何処へ行こうか?」
香織「じゃあ食堂」
恋路「分かった」
恋路、香織、笑顔を見せる。
○大学・食堂(昼)
恋路、香織、私服姿で席に着いて、互いに片手に惣菜パンを持ちながら、テー
ブルに載せた折り畳み式碁盤を見つめ、もう片方の手で碁石を打つ。
香織「じゃあ碁盤については大体語れたから、石を取るテクニックを教えるね」
恋路「そんなのがあるの?」
香織「一つ一つ名前が付いているから、覚えると囲碁も楽しくなるよ」
恋路、相違パンを一旦机に置く。
恋路「分かった。では、お願いします」
恋路、深々と頭を下げた。
香織「何やってんの?」
恋路「礼に始まって、礼に終わるって、香織ちゃん言ってたじゃん」
香織、微笑して小さく頭を下げる。
香織「じゃあ、お願いします。まず、シチョウを教えるね」
恋路「シチョウ?」
※19路盤の座標は、亘(黒番)から見て、左から右へアラビア数字で1~1
9、上から下は漢数字で一~十九と示す。
※交点座標は黒番から見て、(横の縦{アラビア数字の漢数字})と記す。
香織、黒石を(5の四)の地点に打ち、白石を(4の四)(5の三)(6の
四)(6の五)の4点に打つ。
香織「このままだと(5の四)の黒石が白石に囲われて取られちゃうじゃん?」
恋路「そうだね」
香織「逃げてみてくれる?」
恋路「分かった」
恋路、(5の五)に黒石を打つ。
香織、(5の六)に白石を打つ。
恋路「アタリにされちゃった。じゃあ」
恋路、(5の五)の黒石に繋げるために(4の五)に黒石を打つ。
香織、(3の五)に白石を打ってくる。
恋路「またアタリか」
恋路、(4の六)に黒石を打つ。
香織、(4の七)に白石を打つ。
恋路「あれ? まさか」
香織「そう、もう助からないの」
恋路「あぁあ」
香織「これがシチョウ」
恋路「凄いな」
香織「だけど、これが決まったら勝ったも同然だから、盤面を見てシチョウが出来な
いか見極められると良いよ」
人々でにぎわう食堂。
香織「じゃあ、次はゲタを教えるね」
恋路「ゲタ? 履き物の?」
香織「そうだよ」
恋路「本当にそんなのがあるんだ」
香織、黒石を(2の四)(5の四)(5の七)(6の三)(7の三)に打った
後、白石を(4の三)(5の三)(6の四)(6の五)(7の四)に打つ。
香織「ワタル君、この(5の四)黒石に注目してみて」
恋路「うん」
香織、白石を(4の五)に打つ。
香織「今の白の手がゲタ」
恋路「えっ、たった一手だけ?」
香織「でも、もうこの黒石は取られたの」
恋路「嘘だぁ」
恋路、(4の四)に黒石を打つ。
香織、(3の四)に白石を打つ。
恋路「まさか」
恋路、(5の五)に打つ。
香織、(5の六)に打って3子の黒石を取り上げる。
恋路「一発じゃん」
香織「今は分かり易く黒石を1子だけでやったけど、2子あってもゲタで取られるこ
ともあるから」
恋路「2子あっても、1子でトドメを刺せるなんて凄いね」
香織、碁石達を片付ける。
香織「シチョウやゲタは必殺技」
恋路「香織ちゃんの好きな必殺技は?」
香織「ウッテガエシ」
恋路「佐々木小次郎みたい」
香織「ウッテガエシは、相手に石を取らせた後、打ち返して何倍も石を取り返すの」
恋路「教えて」
香織「いいよ」
香織、黒石を(4の五)(5の五)、(2の六)(3の六)とそれぞれ横に並
べ、さらに(4の七)に黒石を置く。
(4の五)(5の五)の黒石を囲うように、白石を(3の五)、(4の四)
(5の四)と横に並べ、(6の五)(6の六)と縦に並べ、さらに(5の七)
に白石を置く。
香織、黒石達を右の人差し指で示す。
香織「白はこの黒石達を繋げたくないのね」
恋路「黒に逃げられちゃうからね」
香織「だから此処に打つの」
香織、(4の六)に白石を打つ。
恋路「でもアタリじゃん」
恋路、(5の六)に黒石を打ち(4の六)の白石を取り上げる。
恋路「これで取れるよね」
香織「必殺、ウッテガエシ!」
香織、(4の六)に再び白石を打ち込み、(4の五)(5の五)(5の六)の
三つの黒石を取り上げる。
恋路「あっ!」
香織「実は3子の黒石もアタリだったの」
恋路「囮だったのか」
香織「そう、これが必殺ウッテガエシ」
恋路「必殺技だね」
香織、盤上の白石を片付ける。
香織「手筋って言うんだけどね。囲碁の世界だと必殺技とは言わないから」
恋路「手筋ね。他には無いの?」
香織「いっぱいあるよ」
恋路「例えば?」
香織「追い落としとか」
恋路「相撲の決まり手みたい」
香織「見てて」
香織、黒石を(3の十六)(3の十七)(3の十八)と縦一列に並べて、(4
の十九)に一子置き、さらに(5の十八)(6の十八)と横一列に二子を並べ
る。
白石を(4の十八)(4の十七)(5の十七)(6の十七)と並べて、かぎ
括弧を形作ると、さらに(7の十八)に白石を置いて、(5の十八)(6の十
八)の黒2子の上と左右を囲った陣形にする。
香織「黒が6子で、白がまだ5子だから、次は白番じゃない?」
恋路「そうだね」
香織「それで」
香織、(6の十九)に白石を打つ。
香織「次、黒はどうする?」
恋路「2子がアタリにされちゃったから、繋ぐよね」
恋路、(5の十九)に黒石を打って、横並びの(5の十八)(6の十八)の2
子と(4の十九)の1子を繋いだ。
香織「でも4子もアタリ」
香織、(3の十九)に白石を打つと、(5の十九)(5の十八)(6の十八)
(4の十九)の黒4子を全て取り上げる。
恋路「あっ」
香織「そう、もう取られているんだよね」
恋路「これが追い落としか」
香織「アタリをかけて逃げたところを取っちゃう。敵を追い掛けて、その先の落とし
穴にハメるような手筋」
恋路「まさに“追い落とし”だね」
実、私服姿で食堂に入って来る。
恋路「そう言えば、うちの大学にも囲碁部があるのに香織ちゃんは入らないんだ?」
香織「私はプロ棋士でアマチュアの大会には参加出来ないし」
恋路「そういうルールがあるんだ」
香織「それに、最近はみのるも大学の囲碁部に出入りしているらしいし」
恋路「みのるって昨日の仁村先生の?」
香織「そう」
恋路「俺正直、昨日初めて見た時、香織ちゃんの彼氏かと思った」
香織「付き合ったことはないけど、昔は好きだったの。みのるのこと」
恋路「えっ」
香織「みのる、カッコいいし、背も高いし、頭も良いし、囲碁も強いし、足も速かっ
たし、昔は年下の子の面倒見も良くて誰にでも優しかった」
恋路、頭を抱えて下を向く。
香織「冗談よ!」
恋路「香織ちゃん、嫉妬させないでよ」
香織、そそくさと碁盤を片付ける。
香織「みのる、高校時代まではずっと院生でもAクラスに居たのに、なかなか勝ち上
がれなくて、私が先に女流特別採用で棋士になると凄く態度悪くなって、17歳で
院生資格を失うところを仁村先生の息子さんだからってことで2年延長してもらっ
たのに、去年Bクラスに落ちちゃって」
恋路「あぁらら」
香織、碁盤を畳むと、恋路に手渡す。
香織「もう行こう」
恋路「どうして?」
香織「来ちゃったの」
恋路「誰が?」
実「よう、稲穂先生」
恋路、振り返る。
実、定食のトレーを抱えて歩いて来る。
実「6路盤も打てない彼氏も一緒か」
香織「別に良いでしょ。囲碁が弱くたって」
実「俺が告白した時、碁が弱いから無理って言ってフッたくせに?」
恋路「えっ」
香織「ワタル君は優しいもん」
実「勝負師じゃないからだろ」
香織「勝負師にもなれていないあなたに言われたくない」
香織、バッグを抱えながら立ち上がる。
香織「ワタル君、行こう?」
恋路「あっ、ああ……」
恋路、香織、席から立って離れる。
実「ワタルさん!」
恋路、実に振り向く。
実、香織が座っていた椅子に触る。
実「すぐに取るから」
恋路「取らせはしない」
恋路、実、見つめ合う。
恋路、振り返って、香織の下へ駆ける。
実、微笑して香織が座った席に着く。
○書店・店内(夕)
一般的な書店。
香織、私服姿で本棚から本を取る。
香織「はい、ワタル君」
恋路、私服姿で本を受け取る。
恋路「詰め碁?」
香織「手っ取り早く強くなるには一番良い」
恋路、香織と一緒にレジへ歩く。
恋路「明日も会える?」
香織「明日は無理。仕事があるから」
恋路「対局?」
○高級ホテル・外観(昼)
聳え立つ高級ホテル。
○高級ホテル・イベントホール(昼)
椅子が多く並んでいるイベントホール。
壇上に大型スクリーンと看板があり、「第40期棋帝戦」と銘打たれている。
スーツを着た職員達が会場の隅に立ち、私服の観客は椅子に座って待つ。
会場に居る観客が一斉に拍手を始める。
香織、パーティドレス姿でマイクを握りながら、壇の下手側から登壇する。
香織、壇の上手側まで歩き、ノートパソコンを置いた机を前にして立つ。
仁村、スーツ姿でマイクを握りながら、香織と反対の壇上の下手側に立つ。
香織、仁村、揃って観客に一礼する。
香織、マイクを口元に寄せ、ノートパソコンで原稿を確認して喋り出す。
観客、拍手を止める。
香織「皆様こんにちは。本日は、第40期棋帝戦、七番勝負第三局、井川勇太棋帝対
山上敬司九段の一戦の大盤解説会にご来場頂きまして誠にありがとうございます。
本日、聞き手を務めさせて頂きます、稲穂香織です。よろしくお願いします」
香織、観客に一礼し、拍手を浴びる。
香織、頭を上げると動揺を見せる。
恋路、スーツ姿で客席に座り、香織を愛しく眺めながら、右手を振る。
香織、目を逸らして仁村の方へ向く。
香織「そして解説は、仁村博久九段です。どうぞ、よろしくお願いします」
仁村「よろしくお願いします」
香織「本日の棋帝戦ですけれども、見所は如何ですか?」
○高級ホテル・廊下(昼)
イベントホールの外、関係者エリアの入り口前の廊下。
恋路、私服姿で、パーティドレス姿の香織と立ち話をする。
恋路「来ちゃまずかった?」
香織「別にいいよ。でも驚いちゃった」
女流棋士A「香織!」
香織と同年代の女性が三人見える。
香織、女性達の下へ駆け出す。
香織「皆!」
女流棋士A「香織、聞き手良かったよ!」
香織「ありがとう!」
女流棋士B「来週の棋戦、楽しみだね」
香織「えっ、私達が当たるんだっけ?」
女流棋士C「香織、調べてないの?」
女流棋士B「また中押し勝ちしちゃおうかな」
香織「えええええ?! 勘弁してよぉ」
女性陣「はっはっはっはっはっはっはっ!」
恋路、寂しそうに女流棋士達を眺める。
香織「立ち話でも何だから、控室で話そう」
女流棋士C「そうだね」
香織、恋路に振り返る。
香織「ワタル君」
恋路「この子達は?」
香織「女流棋士の仲間だよ」
女流棋士A「彼って香織ちゃんの彼氏?」
女流棋士B「結構イケメンじゃん」
女流棋士達、ほくそ笑む。
香織「ただのお友達! さぁ行こう」
香織、女流棋士、恋路を横切る。
香織「じゃあね、ワタル君。楽しんでね」
香織、女流棋士達、関係者以外立ち入り禁止の看板が立てかけられた出入口を
堂々と通過して、中に入る。
扉が重たい音を立てて閉められる。
『関係者以外立ち入り禁止』の看板。
恋路、看板を寂しく見つめる。
○高級ホテル・イベントホール(昼)
香織、仁村、壇上で楽しそうに立つ。
観客も皆が楽しそうに壇上を見つめる。
恋路、悲しい表情で壇上を見つめる。
香織、凛として爽やかな笑顔。
恋路、苦悶の表情で目を瞑り、俯く。
○電車内(昼)
恋路、スーツ姿で、ソファに座り、香
織が選んだ詰め碁の本を、真剣な眼差しで読み進める。
○囲碁サロン『ニギリ』(昼)
壁に「2017年7月」のカレンダー。
恋路、仁村、夏服の私服姿で着席し、机の碁盤を挟んで対局している。
恋路の隣の椅子に鞄が置かれている。
香織、私服姿で横から対局を眺める。
恋路、黒石を碁盤に打つ。
仁村、黒優勢の碁盤をじっと見つめる。
香織「どうですか?」
仁村「信じられない」
仁村、苦笑いを浮かべる。
仁村「たった三ヶ月でここまで強くなるとは」
香織「私も予想以上でした」
恋路「実は、お二人にご報告がありまして」
恋路、隣の椅子の上に置いた鞄から、大きな封筒を取り出して見せる。
恋路「棋譜審査に受かりました!」
香織「嘘っ!?」
恋路「七月末の外来予選に出られます」
仁村「凄いじゃないか」
香織「おめでとう! ワタル君」
仁村「何かお祝いしよう」
仁村、席を立って店の奥へ歩く。
香織、仁村が座っていた椅子に座る。
香織「ワタル君、囲碁の才能があったのね」
恋路「無いよ、才能なんて」
香織「えっ、でも、どうして?」
恋路「だって香織ちゃんから囲碁を教えてもらえるんだよ! こんなに素敵なことな
いじゃない!」
香織、顔を赤らめる。
恋路「俺、香織ちゃんが女流棋士の子達と喋っているのを見て、俺と香織ちゃんは違
う世界で生きていると思い知った」
香織「ワタル君」
恋路「だから香織ちゃんが超えてきた棋士予選に俺も受かって、香織ちゃんと同じ世
界に住みたいんだ! 棋士として、人間として、男として」
恋路、香織、互いの目を見つめ合う。
仁村、店の裏側から二人を伺いながら、悲しい表情。
仁村「みのる、香織ちゃんはもう厳しいぞ」
○日本棋院・東京本院前・道路(朝)
朝日が照り付ける日本棋院のビル。
恋路、半袖の私服姿で道を歩いて来る。
香織「ワタル君!」
恋路、声のした方を向く。
香織、私服姿でトートバッグを手に立っている。
恋路「香織ちゃん!」
恋路、香織の前にやって来る。
恋路「どうしたの? 香織ちゃんも対局?」
香織、トートバッグを恋路に手渡す。
香織「お弁当!」
恋路「香織ちゃん……」
香織「頑張ってね」
恋路、力強く頷く。
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
若者達が何人も集う広い洋室。碁盤、碁笥、座布団、対局時計、長机がある。
恋路、私服姿で椅子に座る。
係員A、長机を前にして座り、皆に向く。
係員A「時間になりましたので、対局を始めてください」
若者A「お願いします!」
若者B「お願いします!」
若者C「お願いします!」
若者D「お願いします!」
恋路「お願いします!」
次々と碁盤に打たれる黒と白の碁石。
恋路、黒石を打ち、対局時計を押す。
○日本棋院・東京本院・休憩室(昼)
恋路、私服姿で椅子に座り、机の上にトートバッグを置き、銀紙に包まれた
お握りを取り出し、銀紙を剥がす。
海苔で巻かれた茶飯に、半分に切った煮卵が入ったお握り。
恋路、お握りを食し、微笑む。
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
恋路、若者達が私服姿で椅子に座り、
碁盤を挟んで向き合っている。
恋路、真剣な表情で碁を打つ。
○囲碁サロン『ニギリ』(夕)
恋路、私服姿で緊張した面持ちで座る。
香織、仁村、私服姿で向かいの席に座って、心配そうな表情。
恋路「外来予選……」
恋路、手に持った紙を二人に向ける。
恋路「四位で通過出来ました!」
仁村「おめでとう!」
香織、仁村、恋路に拍手する。
香織「凄いじゃん!」
恋路「先生と香織ちゃんのおかげです! 本当にありがとうございました!」
実「喜ぶのが早いんじゃないか?」
恋路、声のした方へ振り向く。
実、私服姿で腕組みして立っている。
香織「みのる……」
実「一位じゃないのを悔しがるべきだぞ」
実、ゆっくりと恋路の下へ歩み寄る。
実「まさか、君がここまで辿り着けるとは思わなかったよ」
恋路、顔を強張らせて実を見つめる。
実「君が合同予選に上がったと云うことは、俺と戦うってことだよな」
実、蛇が巻き付くように恋路の傍を回る。
実「外来予選を勝ち抜いて調子に乗っているようだが、君は院生の実力を知らない」
香織、仁村、心配そうに見守る。
実「君はきっと後悔するぞ。その女に惚れて囲碁を始めたこともな」
香織、下を向く。
恋路「後悔などしない!」
恋路、毅然とした表情。
実、余裕の表情。
実「すぐに、現実を思い知らせてやる!」
○日本棋院・東京本院・外観(昼)
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
恋路、私服姿で入室する。
恋路、碁盤の前の座布団に座る。
係員や院生達が次々と入室する。
実、私服姿で恋路の向かい側に座る。
実「いよいよだな」
恋路「半年前の俺とは違うぜ」
実「違わなきゃ話にならん」
恋路「香織ちゃんにいっぱい囲碁を教えてもらったんだ。負けるわけにはいかない」
実「稲穂は俺に一度も勝ったことは無いぜ」
恋路「なら香織ちゃんより強い君が何故院生に留まっているんだ」
実「男だからだよ」
恋路「何?」
実「女は女流棋士特別採用枠で受かれる。だが男にそのような優遇措置は無い」
恋路「謝依旻先生は男女混合の一般採用試験で受かったぞ」
実「謝先生は本物の棋士だ。だが女流棋士特別採用で受かった大抵の女流棋士は、俺
から言わせれば偽物だね」
恋路「香織ちゃんが偽物だって言うのか?」
実「対戦成績も負けが先行して、プロになってから2年も経っているのに未だに初
段。それはつまり、あの女が棋士として偽物であるという証拠だ」
恋路「香織ちゃんの悪口は許さない!」
実「君の許可なんかいるか」
恋路「何だと……」
実「女と云うことで優遇してもらわないとプロにもなれない奴らに、プロ棋士を名乗
る資格なんか無いね。此処にいる女子の院生達なんて皆、俺より弱い」
院生の少女達が黙って下を向く。
恋路、気を悪くして表情を歪める。
実「どうせこの冬季採用試験に落ちても、女流特別採用枠で受かろうって薄汚れた魂
胆しか持っていない連中なのさ」
恋路「そんなこと聞こえるように言うな」
実「聞こえるように言わなきゃ意味無いだろ」
恋路「何?」
実「
実、碁盤を右手の人差し指で示す。
実「俺の言葉に気を悪くして囲碁をやめるような連中なら、所詮それまでのカスだっ
たということさ」
恋路「お前……」
実「俺の減らず口を黙らせたいんだったら、力で破って来い!」
恋路「望むところだ!」
係員A、長机を前にして座り、皆に向く。
係員A「時間になりましたので、対局を始めてください」
恋路「お願いします!」
恋路、頭を下げるが、実は無視する。
恋路、口元を歪ませながら黒石を打つ。
実、恋路を見て鼻で笑う。
○日本棋院・東京本院・休憩室(昼)
恋路、私服姿で椅子に座り、机の上にトートバッグを置き、銀紙に包まれた
お握りを取り出し、銀紙を剥がす。
恋路、苦しい表情でお握りを食す。
実「愛妻弁当か?」
恋路、仰天して左に振り向く。
実、右手にコンビニのパンを持って、香織の作った弁当を凝視する。
実「見せつけてくれるな」
恋路「お前が見に来たんだろう」
実「残念だったな。俺が押している」
恋路「まだ負けると決まったわけじゃない」
実、恋路の向かいの席に着く。
実「しかし、どうやって逆転するんだ?」
恋路「すぐにお前の石なんか取ってやるさ」
実「ほう……それは楽しみだ」
恋路、お握りの銀紙を剥がす。
実「美味しそうなおにぎりだな」
恋路「香織ちゃんが作ってくれた」
実「君は彼氏として最低だ」
恋路「なんで?」
実「稲穂は今日対局だぞ。対局の準備だってしなきゃいけないのに、君のために弁当
を作って勉強する時間だって削ったはずだ」
恋路「俺からは頼んでない」
実「無責任な彼氏だな」
恋路「お母さんに作ってもらったんじゃない?」
実、黙る。
恋路「君もお母さんに弁当でも作ってもらったら?」
院生の子供達が恋路達を見つめる。
恋路、分からず、周りを見る。
実、パンを食べる。
実「離婚した」
恋路「えっ」
実「母さんとは一緒に暮らしていない」
恋路「じゃあ仁村先生って」
実、立ち上がって怒鳴る。
実「父さんは立派な棋士だ!」
実、休憩スペースから出て行く。
恋路、呆然と実を見つめる。
○日本棋院・東京本院・外観(夜)
○日本棋院・東京本院・対局室(夜)
碁石が多数載った碁盤。
対局時計が秒読みを知らせている。
恋路、私服姿で悔しそうに頭を下げる。
恋路「負けました」
対局時計のブザーが鳴り響く。
実、私服姿で余裕の振る舞いを見せる。
実「何故負けたと思う?」
恋路「……棋力が違い過ぎる」
実、自分の胸に右の拳で軽く叩く。
実「違う! 気力の方だよ! てめぇは、香織に惚れて囲碁を始めた、ただのナンパ
野郎だ。そんな不純な動機で囲碁を始めた奴なんかが、命を賭けて囲碁を打ってき
た院生に勝てるわけないだろ!」
実、足早に立ち上がって歩き去る。
恋路、落胆の表情を見せる。
○日本棋院前・道路(夜)
恋路、私服姿で日本棋院から出て来る。
恋路、下を向き、足取りも重い。
香織「ワタル君!」
恋路、棋院の方へ振り返る。
香織、私服姿で恋路の横に歩み寄る。
香織「どうだった?」
恋路「ボコボコにされた」
香織「だろうね」
恋路「香織ちゃんに惚れて囲碁を始めたナンパ野郎が、命を賭けて碁を打ってきた院
生に勝てるわけがないって言われた」
香織「みのるか」
恋路、悔しがる。
恋路「勝ちたかった……」
香織「あいつは強いから」
恋路「女流棋士に対する恨みが凄くてさ。女流枠で受かった棋士なんて偽物だとか言
って香織ちゃんのこともバカにして」
香織「あいつのお母さんも女流棋士なの」
恋路「そうだったんだ。離婚したって言ってたけど」
香織「何があったかは知らないけどね」
恋路「お父さんは立派な棋士だ! って怒鳴られた」
香織「確かに、あいつがちょっとおかしくなったのは親の離婚もあるのかな」
恋路「なんで?」
香織「家庭って子供の最後の居場所だから」
恋路「実君はどうして囲碁を打つんだろう?」
香織「囲碁しか無いからじゃない?」
恋路「自分の場所が?」
香織「囲碁って、自分の居場所を探すゲームだから」
恋路「そっか」
香織「それよりもワタル君だよ」
恋路「え?」
香織「どうしてワタル君は碁を打つの?」
恋路「僕は、香織ちゃんと付き合いたくて」
香織「もう付き合っているじゃん」
恋路、ドキッとして香織を見る。
香織「ただのお友達がお弁当作ると思う?」
恋路「香織ちゃん」
香織「今ならワタル君を彼氏って紹介するよ」
恋路、空を見上げる。
恋路「俺が囲碁を打つ理由か」
香織「ワタル君の中に、きっと答えがある」
恋路「俺の中に?」
香織「それさえ分かれば、実にも必ず勝てる」
恋路、香織に微笑む。
恋路、香織、二人で歩いて行く。
○繁華街・ビル前(昼)
商業ビルが立ち並ぶ繁華街。
木々の葉が黄色みや赤味を帯びている。
落ち葉がアスファルトに転がる。
○囲碁サロン『ニギリ』(夕)
壁のカレンダーに「2017年10月」
恋路、私服姿で扉を開けて入って来る。
仁村、スーツ姿で椅子に座り振り向く。
仁村「ワタル君」
恋路「仁村先生。香織ちゃんは?」
仁村「まだ来ていない」
恋路「そうですか」
仁村「合同予選の結果は?」
恋路「あります」
仁村「見せてくれ」
恋路、仁村と向かい合わせに座る。
恋路、バッグから封筒を取り出して、紙を封から出して、仁村に渡す。
仁村、紙を受け取って眺める。
仁村「合同予選7位。ギリギリだったな」
恋路「なんとか」
仁村「私の弟子も何人か負けてる」
恋路「すみません……」
仁村「どうだった、院生の子達は?」
恋路「不思議な感覚でしたね。まだ学校に通って、自分のやりたいことも決まってい
ないような子達がプロを目指して向かって来るのが」
恋路「泣いちゃった子、居なかった?」
恋路「居ました。高校生ぐらいの比較的ちょっと大きい男の子が負けると、悔しそう
に涙を流していました」
仁村「男の子は泣くんだよ、終わりだからね」
恋路「院生で居られるのは17歳までだから」
仁村「実も泣いてさ。17歳の時にあと一勝でプロになれなくて、日本棋院に私も頭
を下げてお願いしたからね。何とかあと2年居させてくれって」
恋路「女の子は負けても泣いている子って居ませんでしたね」
仁村「女の子は女流採用試験があるからね」
恋路「何故、女の子を優遇するんですか?」
仁村「現実的な問題だな」
恋路「現実的って?」
仁村「麻雀は分かるか?」
恋路「分かります。よく遊んでいました」
仁村「雀荘に行ったことある?」
恋路「ああ、それは無いですね」
仁村「分かった、今度一緒に行こう」
恋路「ぜひ」
恋路、仁村、一緒に笑う。
仁村「麻雀にもプロ雀士が存在する」
恋路「それは何となく知っています」
仁村「で、雀荘だとね、男性のプロと女性のプロが居たら、女性のプロの方が給料は
良いらしいんだ」
恋路「どうしてです?」
仁村「男性客の方が多いからさ」
恋路「男なら若い姉ちゃんと打ちたいってわけですか」
仁村「囲碁も男性のファンが多い。なら言いたいことは分かるだろう?」
恋路「分かります」
仁村「囲碁のインストラクターも女性でちょっと美人ならそれだけで人気が集まる」
恋路「男性客の方が多いから?」
仁村「ゴルフとかもそうじゃないかな? 今はもう男子の大会がどんどん減っている
んだって。でも女子の大会は増えていて、企業に所属するようなプロゴルファーも
女性の方が圧倒的に多いらしい」
恋路「選手のレベルはどうなんですか?」
仁村「いや、囲碁も麻雀もゴルフも、男子の方が女子よりもレベル高いんだよ? レ
ベルそのものは? だけど君は男性としてどっちと一緒に遊びたい? 男性のプロ
と若い女性のプロと」
恋路「若い女性を選ぶ人が多いでしょうね」
仁村「社会は性風俗産業化していくんだ」
恋路「どういうことです?」
仁村「自分達の商品やサービスをアピール出来なければ、どんな企業やスポーツも値
段を下げるか、若い女の色気に頼らざるを得なくなって性風俗化していくしかない
んだ。雑誌や漫画の表紙、テレビ局の女子アナやお天気お姉さん、結局はそう云っ
た類の仕事でしかない良い例じゃないか」
恋路「香織ちゃん、女子アナになろうか真剣に考えたことがあるって言ってました」
仁村、恋路を睨み付ける。
仁村「君だって、香織ちゃんに会わなかったら、囲碁やってなかっただろ?」
恋路、緊張した表情。
仁村、恋路の成績表を見る。
仁村「囲碁を始めてから半年で合同予選を勝ち抜けるほどの棋力を得られたと云うの
は大したものだ。しかしなっ……!」
仁村、恋路を睨み付ける。
仁村「好きになった女の子が囲碁をやっていたから興味を持って、半年でプロになれ
ましたなんて話、私には軽薄にしか思えないからね?」
仁村、微笑する。
仁村「君が初めて実と出会った時、実激怒したよな? プロをナメるな!って」
恋路「はい」
仁村「でも、実が言った「プロをナメるな!」って意見は私も正しいと思っている」
仁村、恋路に紙を返す。
恋路「次の本予選は、院生のAクラスの子達がやってくる。合同予選7位の君では非
常に厳しいだろう」
恋路、紙を封筒に入れて、バッグの中にしまい、仁村の方へ向く。
仁村「実は合同予選を全勝で勝ち抜いた。何を意味するか分かるな?」
恋路「はい……」
恋路、立ち上がる。
香織、私服姿で入って来る。
香織「ワタル君、ごめんなさい」
恋路「香織ちゃん」
香織「合同予選どうだった?」
恋路「7位でギリギリ通過」
香織「でも受かったから、良かったじゃん」
恋路「そうだね」
香織「じゃあ、早速研究会始めようよ」
恋路「いや、いい。本予選が終わるまで、しばらく一人でやらせてくれないか?」
香織「どうしたの?」
恋路「俺、いつまでも香織ちゃんに頼っていたくないんだ」
香織「ワタル……君?」
恋路、微笑して、サロンから出て行く。
香織、心配そうに恋路の背中を見る。
香織、仁村の方を向く。
香織「何かあったんですか?」
仁村「男になろうとしているんだ」
○繁華街・ビル前(昼)
恋路、私服姿でビルから出て来る。
恋路、スニーカーで落葉を踏みつける。
恋路、街路樹の紅葉を見つめる。
恋路、一人で歩き出す。
○日本棋院・東京本院前・道路(朝)
灰色の秋空と紅葉が舞う日本棋院の前。
仁村、実、スーツ姿で歩いて来る。
仁村、実、日本棋院の前で立ち止まる。
仁村「実、いよいよ最後の一戦だ」
実「そうですね」
仁村「まさかこんなことになるとはな……」
実「恋路亘のことですか?」
仁村「囲碁を始めて、たった半年の奴が此処まで上がって来るなんて」
実「碁盤を挟めば、誰が相手だろうともう互角です」
仁村「そうだな」
実「父さん」
仁村「何だ?」
実「今まで、ありがとうございました」
仁村「礼を言うのはまだ早い、行くぞ」
実「はい」
仁村、実、棋院に入って行く。
○日本棋院・東京本院・フロア(朝)
仁村、実、スーツ姿でフロアを歩く。
仁村「実、頑張れよ」
実「はい」
仁村、実と別れてフロアを歩く。
記者、仁村の下にやってくる。
記者「仁村先生! おはようございます!」
仁村「おはようございます」
記者「どうですか? 今年の本予選は?」
仁村「色々と納得し難いですね」
記者「と言うと?」
仁村「棋士採用試験の様子を実況中継するなんて聞いたことがありません」
記者「インターネットの時代ですから」
仁村「院生の対局は原則非公開のはずでしょ」
記者「スポンサーが付けば話が違ってきます」
仁村「金持ちには勝てないってことですか」
記者「囲碁ってそもそもそういう物じゃないですか。中国の王様が打っていて、日本
に伝来して、飛鳥時代から平安時代まで朝廷で公家に打たれて、武士の時代になっ
ても戦国時代や江戸時代は武将や幕府が囲碁棋士のパトロンになって」
仁村「そして今は金を持っている企業からスポンサードを仰ぐと」
記者「あまり乗り気じゃなさそうですね」
仁村「わざわざ和室で打たせますか?」
記者「スポンサーの要望ですから」
仁村「そもそも師匠が同じ場合、本来はリーグ戦の前半に対局させる手筈のはず」
記者「恋路君は仁村先生の正式なお弟子さんではないですからね」
仁村「ちゃんと私の門下に弟子入りさせておけば良かったかな」
記者「息子さんの対局を解説するってのは如何ですか」
仁村「仕事だから何とも思っていません」
仁村、エレベーターの前にやってきて、
ボタンを押して昇降機を呼ぶ。
記者「最終戦で勝った方がプロになるって展開になるとは」
仁村「二人とも全勝のトップ通過の子には負けて、それ以外は全部勝ちましたから
ね」
エレベーターの扉が開く。
仁村、エレベーターに入る。
記者「先生、最後に一つだけ」
仁村「何です?」
記者「息子さんに勝って欲しいでしょ?」
仁村、エレベーターの閉ボタンを押し、扉を閉める。
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
実、ジャケットを脱ぎワイシャツ姿で座布団の上に座り、緊張した面持ち。
係員B、係員C、実の横に長机を置いて座る。
テレビカメラや照明などを向ける中継スタッフが何人も見受けられる。
○日本棋院・東京本院・観戦室(昼)
大盤が立て掛けられている観戦室。
香織、仁村、スーツ姿で大盤の左右に立って、緊張した面持ち。
香織と仁村の向かい側に、対局室の様子を映すモニターが置かれる。
中継用のテレビカメラや照明を持ったスタッフ達の姿が見受けられる。
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
襖の開かれる音が鳴り響く。
スタッフ達が一斉に襖の方へ振り向く。
実、遅れて襖の方を向き、微笑する。
恋路、真っ黒な羽織袴姿で歩いて来る。
○日本棋院・東京本院・観戦室(昼)
香織、スーツ姿で羽織袴姿の恋路を映すモニターをじっと見つめる。
香織「カッコいい……」
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
恋路、実の向かいの座布団に正座する。
実「着物とはな」
恋路「一世一代の戦いだからな」
実「何をやっても結果は同じだ」
恋路「実君、俺の最初の相手は君だった」
実「そう言えばそうだったな。君は6路盤も真面に打てない雑魚だった」
恋路、下を向く。
実「そんな奴がまさか此処まで辿り着けるとはな。褒めてやるぜ、ワタル君。弱い奴
をぶっつぶしたって倒し甲斐が無いからな」
恋路「俺も倒し甲斐があるよ」
実「何?」
恋路「俺がまだ唯一勝っていないのはお前だからな」
実「一生勝てないって現実を思い知らせてやる」
恋路「最後の相手がお前で良かった」
実「最後か。俺に負けたら囲碁を辞めるのか?」
恋路「アマチュアとしては最後って意味だ」
実「何?」
恋路「お前に勝って、俺がプロ棋士になる!」
実「女の尻追い掛けて、囲碁を始めたバカが偉そうな口叩くな!」
恋路、羽織袴姿で正座して目を瞑る。
恋路、自分の胸に右の拳を当てる。
〇休憩 10分(囲碁プロレスが無い場合、省略)
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)(囲碁プロレスが無い場合、省略)
恋路、羽織袴姿で正座して、胸に手を当てている。
○日本棋院・東京本院・観戦室(昼)
香織、スーツ姿でモニターを見る。
香織「亘君……」
○日本棋院・東京本院・対局室(昼)
恋路、瞼を上げる。
係員、腕時計で時間を確認する。
係員B「握ってください」
実、碁笥から右手で白石を一子取って、碁盤の上に載せる。
恋路、右手で黒石を一つ摘み盤に置く。
恋路、実、碁盤の石を碁笥にしまう。
係員B「握りまして、恋路亘さんの先番となりました。コミは六目半、持ち時間は無
く、初手から一手三〇秒未満で打って頂きます。ただし途中、一分単位で合計一〇
回の考慮時間がございます。それではお願いします」
恋路、実、碁笥を自分の方に寄せて、蓋を開けて右横に置く。
恋路、頭を深々と下げる。
恋路「お願いします」
実、頭を下げず微動だにしない。
係員C「一〇秒………二〇秒……二八秒」
恋路、右の人差し指と中指で、黒石を摘み上げて碁盤の上に打つ。
係員B「黒、10の十、天元」
【囲碁プロレス】約90分
(筆者の構想では、90~100分の囲碁のプロレス(戦闘シーン)を挿入したい。
筆者の棋力では鑑賞に耐え得るオリジナルの棋譜を作成出来ず、省略した)
恋路、実、盤上の石を整地し終わる。
恋路、実、互いに自分の手を引く。
実、ワイシャツ姿で表情が引き攣る。
恋路、真っ黒な羽織袴姿で実に向く。
恋路「俺の、半目勝ちだ」
実「バカな! こんなこと有り得ない!」
恋路「実君……」
実「嘘だ! 絶対に嘘だ! 整地の時に数を誤魔化したんだろ!」
恋路「俺はそんなことしない」
実「記録係、棋譜を確認してくれ! 絶対に俺が勝っているんだ! こんな奴に俺が
負けるわけない!」
仁村「ワタル君! みのる!」
恋路、実、襖の方へ振り向く。
仁村、スーツ姿で二人の下へ歩み寄る。
仁村、やがて実の横で正座する。
仁村「確かにワタル君の勝ちだ」
実「そんな!」
仁村「観戦室から見学していた。間違いない。AIもワタル君の半目勝ちと示してい
る」
実「……畜生」
仁村「ワタル君!」
恋路「仁村先生」
仁村「本当に強くなったな。囲碁のルールを全く知らなかった初めの頃から比べる
と、ワタル君は本当に成長したよ。プロ棋士に相応しい棋力と精神力を手にしたん
だね。本当におめでとう!」
恋路「ありがとうございます」
仁村「みのる、残念だ。お前は序盤、中盤、終盤、ほとんどの局面でゲームを支配し
ていた。にも関らず、お前は負けてしまった。どうしてだと思う?」
実「無理に、相手の石を取ろうとしたから、返り討ちに遭いました」
仁村「お前、ワタル君に挨拶しなかったな」
実「っ!」
仁村「相手への敬意を忘れないことが盤面の視野を広げることにも繋がるんだ」
実、ガックリと肩を落とし、項垂れる。
仁村「礼儀礼節を欠いたら、どんなに努力を積み重ねても、栄光は得られないぞ!」
実、泣き崩れる。
仁村、恋路の方を向く。
仁村「ワタル君。君は自分だけの努力で強くなったわけではないのを分かってる
ね?」
恋路「はい」
仁村「じゃあ、あの子のもとに行きなさい」
恋路「はい! ありがとうございました!」
恋路、立ち上がって部屋を出て行く。
係員、スタッフ達、立ち去って行く。
実と仁村の二人だけになった対局室。
仁村「実!」
仁村、実の肩を優しく叩く。
実「父さん……」
実、泣きながら仁村に抱きつく。
仁村、実の頭を優しくなでる。
○日本棋院・東京本院前・道路(夜)
恋路、真っ黒な羽織袴姿で外に出る。
香織、艶やかな振袖姿で立つ。
恋路「香織ちゃん」
香織「おめでとう、ワタル君」
恋路「ありがとう」
香織、両腕を広げて振袖を垂らす。
香織「どう?」
恋路「香織ちゃんが、世界で一番可愛い」
香織「そう言うと思った」
恋路、香織、微笑み合う。
恋路、香織、並んでゆっくり歩く。
香織「本当にプロ棋士になるなんてね」
恋路「だって碁が強い人と付き合いたいって言ってたじゃん」
香織「ワタル君」
恋路「だから、もう一度告白させて」
恋路、香織、足を止めて向き合う。
恋路「香織ちゃん」
香織「はい」
恋路「好きです。僕と付き合ってください」
恋路、真剣な表情。
香織、自分の顎を持って考える仕草。
香織「ワタル君……」
恋路、緊張した表情で固唾を飲む。
香織、微笑して右手を伸ばす。
香織「手は繋いで良いよ」
恋路、感極まった表情で両手を伸ばし、香織の右手を優しく握る。
恋路「香織ちゃんの手を、握れた……」
香織、微笑する。
香織「行こう」
恋路、香織の右手を握りながら歩く。
香織「次は、私のためにタイトルを取って」
恋路「えぇ、何年後になるやら」
香織「諦める人、嫌いよ」
恋路「分かった、頑張るよ。香織ちゃんも女流タイトルを諦めないで」
香織「うん、二人で頑張って行こう」
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