十手目「未来への布石」

 亘は香織と笑い合って幸せな気持ちになるが、ふと香織の後ろ側に見えた、仁村と指導碁を打っている児童達のことが気になる。亘は彼らの方を眺めながら、

「香織ちゃん」

「何?」

「ちょっと子供達のこと、見て良い?」

 香織は一旦仁村や子供達の方を見た後、すぐに亘に振り返って、

「良いけど、お喋りしたり口出ししたりしないでね。対局している時は口出ししてはいけないって決まりだから」

「分かった」


 亘はソファから立ち上がると、黙ることに努めながら子供達の傍へ歩み寄った。

 仁村と彼を囲う机、子供達との距離が近くなって、次第に児童達の様子が鮮明に見えてくる。亘は自分の子供を見守る同伴の保護者達に頭を下げると、彼らと同じ距離から仁村や児童達の様子を伺い出した。

 大して気にしていなかったので亘は最初気が付かなかったが、教室には男子の方が多いが、女子も一人居る。

(香織ちゃんみたいな女流棋士を目指しているのかな?)

 上は小学校4年生くらいだが、どう見ても幼稚園児としか思えない幼児も、椅子にしっかりと座り、はしゃぐことなく対局に集中している。

(俺がこの子達と同じ年の頃は、もっとはしゃいで暴れ散らかしていたよな)

 子供達の前に置かれた碁盤は彼らの棋力に応じて、9路盤だったり13路盤だったりして、中には難しい19路盤でちゃんと打てている児童まで居る。

(6路盤も真面に打てない今の俺では、この子達にも絶対に勝てないんだろうな)

 亘の関心は指導碁を打つ仁村にも向かう。

 仁村は白番を持ち、碁盤に黒石を余計に置かせ、子供達にハンデを与えているが、まるで台本でもあるかのように、子供達の碁盤を廻りながら、何の迷いもなく次々と高速で打ち進めていく。

 亘は余裕綽々と指導碁を進める仁村の様を見て、平静を装いながらも内心圧倒されていた。

(初めて仁村先生にお会いした時に感じた、ただ者じゃないって雰囲気は本当だったんだ)

 立ち入ってはならないような神聖な雰囲気に圧されて、厳粛に振舞おうとする亘。亘はいつの間にか両手を前に組んで、子供達を見守っていた。

(布石だ。今、子供達は単に碁を打っているだけではない。人生における布石を今、この場で打っているんだ。僕はその目撃者だ。この中からプロ棋士になる子も現れるかもしれない。逆に、夢破れて一般社会に進むことになるかもしれない。単に楽しい習い事で遊んでいるだけの子だって居るかもしれない。大人になっても忘れられない貴重な思い出になる子も居れば、永遠に忘れ去られる時間を過ごしている子も居るに違いない。間違いない真実は、子供達が人生の布石を打っていることだ。最後に勝つのか、それとも負けるのか、その分岐点に子供達は今立っているんだ。そんなこと、当の本人達は全く知る由も無くて)


 亘は、香織が微笑んで自分の様子を眺めているのに気付く。

 亘は指導碁の場所から離れて、香織の下へ戻って、ソファに腰掛けた。

「どうだった?」

「僕よりも大人」

「そうだよ」

 微笑する亘と香織。

「子供時代は囲碁で云う布石なの。どうなるか分からない将来のために、貴重な時間を今、過ごしているんだよね」

「僕も同じこと考えてた」

「でも、何も知らないままただ闇雲に子供時代を過ごしていたら、将来どうなるのか全然分からなくなる」

「だから布石を学ぶ必要があるんだね」

「でも人生に比べたら、囲碁の布石なんて全然簡単だから」

「良いこと言うね、香織ちゃん」

「囲碁を知らない人は皆、そう思ってないだろうけどね」

「じゃあ、どうなるか分からない将来のために、囲碁の場合はどうしたら良いの?」

「そうねぇ、まず大前提として『囲碁とは何か?』を分かっておく必要がある」

「囲碁とは何か」

「何でもそうだよ? 仕事とは何か、社会とは何か、お金とは何か、勝負とは何か、あまり自分に関係の無いモノまで真剣に考える必要は無いけど、自分が携わるモノについては『前提』を分かっていないとどうしようもない」

「カッコいいね、香織ちゃん」

「って、仁村先生に私も教えてもらった」

 子供達の迷惑にならないようにも努めて、亘と香織は小さく笑った。

「それで『囲碁って何か?』って云ったら、『囲碁は点取りゲームだ』ってこと」

「陣取りゲームとはよく聞くけど、点取りゲーム?」

「陣取りでも間違いではないんだよ。でもワタル君、野球やっていたから、そっちの方が分かり易いかなぁと思って」

「ありがとう」

「でもお互いに多く地を取ろうとするんだから、自分の思い通りにはいかない」

「それは昨日、みのる君にやられてよく分かってる」

「で、囲碁には二つの競争があります」

 香織は人差し指と中指を順に一本ずつ立てながら、

「『自分の点数を増やす』もう一つが『相手の点数を減らす』」

「野球やサッカーと一緒だね」

 指を下ろす香織。

「でも野球やサッカーは一度点数が入ると減らないけど、囲碁は減らせるからね」

「より攻防が激しくなるわけか」

「しかも囲碁の場合はスコアボードに何点取れたとか表示されない」

「自分の地は何目で相手の地は何目って、自分で計算しないといけないんだね」

「相手の妨害をしたり、相手の石を取ったり、逆に自分の作戦を進めたり、相手から取られないように守ったり」

「色んな攻防をしなくちゃいけないのか」

「だから囲碁で勝つために必要なものは、相手の地を減らしたり自分の地を増やしたりして、より大きな地を取る『構想力』と、相手の石との戦いに勝って相手の石を取ったりする『戦闘力』、そして互いの地の数を計算して戦況を見極める『判断力』、こういったものを磨いていかないといけないんだ」

「構想力、戦闘力、判断力の三つね」

「それで、前提として大事なのは、囲碁は1目しか勝てなくても100目勝っても、1勝は変わらないの」

「野球と一緒だね」

「逆に言えば、凄く良い碁を打って半目負けしても地を100目以上確定させても、負けは負け」

「野球と一緒だ」

「でも野球って、相手を0点に抑えれば100%負けないじゃない?」

「引き分けがあるからね」

「囲碁の場合は“コミ”って云うルールがあって、先に打つ黒の方が有利だから公平を期すために、白番に6目半の点数を付けるんだ」

「そんなルールがあるんだ?」

「だから黒は白に勝ちたければ、最終的に7目以上地を多く取らなきゃいけないの」

「そのことを頭に置いて、打っていかなきゃいけないんだね」

「それと、コミは6目半って言ったでしょ?」

「半ってことは0.5点?」

「そう、だから19路盤だと絶対に引き分けは起きないんだ」

「そうなんだ」

「“知っている”って凄く大事なことだから。さっきやった、隅と辺と中央で地の稼ぎ易さや石の働きが全然違ってくることとか、『シチョウ』『ゲタ』『打って返し』『追い落とし』の手筋があるとか、引き分けが無いとか、黒番で勝ちたかったら相手より7目以上地を稼がないと勝てないとか、こういうことを知らないのは棋力以前の問題で、勝てる対局も勝てなくなっちゃうの」

「『知る』『覚える』って重要なことなんだね」

「だから布石の優先度も、『隅』・『辺』・『中央』がどういう順番で重要になってくると思う?」

「やっぱり、『隅』が一番重要で、その次が『辺』で、最後に『中央』ってことになるよね」

「そう、だから囲碁は自由だからと言って、ただ闇雲に自分の打ちたい所に打つんじゃなくて、布石の順番も隅が最初、次に隅から辺、最後に辺から中央、これが布石の基本的な順番だから」

「じゃあ最初に打ち始めるところも」

「そう、基本は隅から打っていくの」

「なるほどね」

「それと、基本的に人って右利きが多いじゃない?」

「そうだね」

「右利き?」

「左利き」

「ワタル君、左利きなんだ。あれ、ノート取っている時、右手で書いてなかった?」

「横書きだと左利きは手が汚れるから、右手でも書けるようにしたんだ」

「そうなんだ」

「世の中って右利きの人のために作られているからね」

「囲碁も相手は基本的に右利きの人が多くなるから、右利きの人が腕を伸ばし易い、碁盤の右上から打っていくのが基本だからね」

 亘が碁盤の中央の星を左手で指差す。

「天元から打つってのはどう?」

 香織は少し冷めた表情を浮かべる。

「勝てるんだったら良いよ」

「いや、遠慮しておきます」

 香織は微笑んだ。


※19路盤の座標は、亘(黒番)から見て、左から右へアラビア数字で1~19、上から下は漢数字で一~十九と示す。

※交点座標は黒番から見て、(横の縦{アラビア数字の漢数字})と記す。


初手の種類❶:『星』(4の四)(4の十六)(16の四)(16の十六)

「まぁ、布石ってとにかく初手だから」

「初手が一番大事なんだ」

「と言うより、囲碁において重要じゃない手なんて一つも無いけどね」

「全部が大事なんだね」

「でも、とにかく初手。初手はすっごく大事」

「じゃあ、初心者におススメの初手は何?」

「やっぱり『星』だよね」

「星?」

「最初に隅を占めて辺や中央にも発展させやすくて、三々に入られても厚みを作って勝負出来るバランスが良い手」

「良いこと尽くめじゃん」

「その代わり、三々に入られちゃうんだけどね」

「防御はちょっと弱いってわけか」

「実際に打ってみよう」

「うん」

 亘は香織やみのるのように、右手の人差し指と中指の先で碁笥の中から黒石を摘まもうとするが、碁石を碁盤の上に落としてしまう。

「あっ、ごめん」

 亘は碁盤の黒石を取ろうとする。

 すると、香織が強い口調で注意する。

「ダメ!」

「えっ」

「一度打った着手はやっぱり辞めたり、間違ったと分かっても石を動かしたりしちゃいけないルールだから」

「そんな」

「でも打ててるから良いじゃん」

「え?」

 亘は碁盤をよく見ると、偶然落とした黒石が(16の十六)の交点にちゃんと着地していた。

「ワタル君、左利きなら言ってよ」

「左腕を動かすと、いつも他人から『左利き?』って聞かれるのが鬱陶しくて」

「でも、囲碁界で一番強い井山裕太先生も左手で碁を打つんだよ」

「本当に? じゃあ左手で打った方が強くなるかな?」

「ならないよ」

 微笑み合う亘と香織。

「じゃあ、私の手番ね」

 香織は右手の人差し指と中指で白石を摘まみ上げると、真っ直ぐ右腕を伸ばして、(4の十六)にある交点に白石を華麗に打って見せる。

「カッコいい」

「じゃあ、次はワタル君。今度は左手で良いから」

「うん」

 亘は左の人差し指と中指の先で碁石を摘まみ上げると、つい左手を伸ばし易かった亘側から見て左上の(4の四)の星に黒石を打った。

「ワタル君、右上から打つって言ったよね?」

「あっ、ごめんね」

「まぁ、いいか」

 香織はつまらなさそうに(16の四)に白石を打つと、対角線上に並ぶ(4の四)(16の十六)の黒石を指差しながら、

「こういう風に対角に星を占める布石を“タスキ星”って言います」

「名前がちゃんとあるんだ。どんな手なの?」

「すぐに急戦が起きて、戦いになるイメージ」

「えぇ、もっと穏やかに打ちたいな」

「じゃあ、ちゃんと4線に揃えて打たなきゃダメだよ」

「分かった」


初手の種類❷:『三々』(3の三)(3の十七)(17の三)(17の十七)

 香織は右手の人差し指と中指を立ててハサミを形作り、隅からの第三線と第四線を上下左右に指し示す。

「布石では、第三線と第四線に置くのが一番良いの」

「どうして?」

 香織は第一線や第二線を指差しながら、

「あんまり小さく地を作っても効率が悪いし、取られやすい」

 今度は真ん中ら辺に手をやりながら、

「かと言って真ん中ら辺は上手く取るのは難しいし」

「さっきも辺や中央は石の働きが悪くなるって言っていたもんね」

「だから初手の布石は、基本的に三線と四線の組み合わせになることが多いんだ」

「なるほどね」

「じゃあ、一旦石を退かしてくれる?」

「分かった」

 亘と香織は星に打っていた自分達の石を碁笥に戻して、盤上を真っ新にする。

「星は縦の4線と横の四線の組み合わせじゃない?」

「うん」

「だからもう一つの3線と三線の組み合わせの『三々』も非常に重要になってくる」

「サンサンはどんな手なの?」

「確実に隅の実利を確保することが出来る」

「無難で良いじゃん」

「だけど上から圧迫され易くて、そんなに地は稼げないんだよね」

「ローリスクローリターンって感じか」

「昔は相手を大きくさせやすいから、あんまり打つなって怒られたんだけど」

「今は違うの?」

「去年、AlphaGoが世界最強の世乭セドル九段に勝ったって話したじゃん?」

「AIが人間を超えた事件でしょ」

「ところがAlphaGoが序盤の5手目とか6手目とかで『三々』に入って、プロ棋士をやっつけちゃうもんだから、最近凄く流行っているんだ」

「そんな良い手なんだ」

「ベテランの先生は嫌う人多いけどね」

「なるほど」

「一番最初に初手から打つってことは少ないけど、早めに打っちゃうに越したことは無いような手になりつつある」

「囲碁も進化しているんだね」

「じゃあ実際に打ってみて」

「分かった」

 亘は左手の人差し指と中指で黒石を摘まむと、今度は間違えずに右上隅を狙って、(17の三)に打ち込んだ。

「よく出来ました」

 香織も右手を伸ばして、(3の十七)に白石を打つ。

 亘は次に左腕を伸ばし易い(3の三)に黒石を打つが、香織は少し苦い顔をする。

「まぁ、間違いじゃないんだけど」

「えっ何?」

 香織は右腕を大きく左上に伸ばして、(17の十七)に白石を打つと、

「横に打つと、お互いに腕を伸ばさないといけないから、打ちにくくない?」

「あっ、ごめん」

「斜めに打つ場合を除けば、プロの先生も縦一列に一手目と二手目は打つよ」

「そうなんだ」

「そっちの方が打ちやすいし、ほとんどの棋戦がそうやって打たれているから、横に打つ癖が付いちゃうと、プロの先生の棋譜も読みづらくなるから、一手目と二手目は縦に打つ癖を付けた方が良いよ」

「分かった」


初手の種類❸:『小目』(3の四)(4の三)(3の十六)(4の十七)(16の三)(17の四)(16の十七)(17の十六)

 香織が白石を片付けだすと、亘も黒石を碁笥に戻す。

「『星』は4線と四線、『三々』は3線と三線の組み合わせだったでしょ?」

「そうだね」

「『星』は攻めには強いけど、守りはそこそこ。『三々』は確実に地を守れるけど、攻めるのは弱い」

「一長一短なんだね」

「だから、それらを組み合わせて補った手が『小目』」

「コモク」

「実際に打ってみようか。両端の3線と四線、4線と三線みたいに打ってみて」

「分かった」

 亘は左手で黒石を摘まむと、盤の右上隅を意識して、(16の三)に打つ。

「大丈夫だよ」

 香織は右手を伸ばして、(3の十六)に白石を打つ。

 亘は続けて(17の四)に黒石を打つ。

 香織は(3の四)に白石を打つ。

 次に、亘は自分のすぐ手前の(16の十七)に黒石を打つ。

 香織も(4の三)に白石を打つ。

 亘は(17の十六)に黒石を打つ。

 香織が(4の十七)に白石を打ち、左右の第三線と第四線の計八つの交点が二人の石で埋め尽くされた。

「これが小目」

「なるほど」

 香織は石が打たれていない(16の四)の星や(17の三)の三々を指差す。

「『星』よりも隅に近いから、地を守る分には星より有利。その代わり『中央』には進めづらいけどね。でも『三々』より『辺』にも『中央』にも近いから、バランスが良いんだ」

「なるほど」

「『星』『三々』『小目』、この三つが布石で一番よく打たれる手かな」

「この三つが基本なんだね」

「他にも『高目』『大高目』『目外し』『大目外し』『五ノ五』とかあるけど、今のワタル君にはちょっと難しいから、基本はこの三つで良いよ」

「分かった」

「覚えてもらうために星の近くに二手打ってもらったけど、普通は隅に一手だから」

「あっ、そうなんだ」

 香織は亘が打っていた(16の三)と(17の四)の黒石をそれぞれ摘まみ上げては戻したり、或いは片方の黒石を付近の違う場所に打って見せたりする。

 亘には香織の慣れた手付きが速過ぎて驚嘆する。

 そんな亘の気も知らず、香織は淡々と碁石を素早く打って見せていく。

「最初に此処の小目に打ったから、此処から『小ゲイマジマリ』や『一間ジマリ』、『大ゲイマジマリ』『二間ジマリ』とか状況に応じてさまざまな変化させていくの。こういう技術は言葉で教わるよりも、身体で覚えて行くような布石かな」

(香織ちゃん、プロなんだな……)

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