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 その日、おたなが終わり、皆そろっての晩飯も終わってから、旦那様に呼ばれた。きっと弁天さまでの出来事はお耳に届いているのだろう。お嬢さんから直接でなくても、お嬢さんが女将さんに、女将さんが旦那様に、きっとあたしがお嬢さんに言った言葉を伝えている。


「それで、決心付いたかね?」

 笑顔で旦那様が問う。傍らの女将さんも笑顔をお見せになっている。


「身に余る有難きお話、あたしなんぞには勿体ないお話。これをお断りして、旦那様、お嬢さんに恥を書かせるなど、奉公人にあるまじきこと。謹んでお受けし、なお一層、お店のため、旦那様、女将さん、お嬢さんにお仕えしたいと存じます」


「仕えて欲しいと思っちゃいないよ」

 女将さんが笑う。

「娘と二人、あんたに幸せになって欲しいだけだよ」

そうだそうだと旦那様も笑顔でおっしゃる。


 それじゃあ祝言はいつにする? お前の親元にも使いをやって知らさなきゃ。結納金はできるだけ弾ませてもらう。何しろ大事な息子を婿に貰うのだからね。なになに、おまえの支度もこちらでするから心配ない。さぁ、これから忙しい――


 旦那様と女将さんでどんどん話は進み、あたしはと言えば「お任せいたします」と受けるだけだった。


 お嬢さんも呼ばれ、話が決まったと聞かされるとまた泣き始め、

「可笑しな娘だねぇ、喜ぶと思ってたら、また泣くんだね」

と女将さんが揶揄からかえば

「いやなおっ母さん、嬉し泣きに決まってるじゃないの」

それを笑顔で眺める女将さんの目にも光るものが見えた。


 あの店の手代がお嬢さんに手を出した、などと悪い噂が立たないうちに、なるべく早い佳き日を選びお披露目をする、祝言は一月後、と決まった頃には夜も更けて、やっと退出を許された。


「ほかの奉公人の手前、今まで通り接するほかないとは思うけど、心の中ではあたしら夫婦を親と思っておくれよ」

旦那様までそう言ってあたしを送り出してくれた。

「へい、できる限りの孝行をさせていただきます」


 あたしの返事は旦那様の涙さえ誘ってしまったようだった。お嬢さんは名残惜しそうな目であたしを追っていて、それには会釈するしかない。


 話がまとまってさえも、あたしにこんな幸運が巡っていいのか、もしや夢でも見ているのか、と何度も思ってしまった。だけど……なぜこうも気持ちが沈んでいるのだろう。


 あてがわれた寝所に戻り、襖を開けると、足元を子猫がすり抜け入ってしまった。

「おまえ、お嬢さんの猫じゃないか」

お嬢さんのところへお戻り、と寝所から出そうにも出て行かない。諦めて襖を閉めると寝床を敷き、そこに座り込んだ。


 疲れた……どんなにおたなが忙しくても、ここまで疲れた日が今まであっただろうか。普段と違うということがこれほどまでに疲れることとは、今まであたしは知らずに来た。


 弁天様でお嬢さんは、こんなあたしの幸せを望んでいるとおっしゃった。あたしの幸せが自分の幸せ、ともおっしゃった。それはあたしがお琴のお師匠さんのところの娘に寄せる思いと同じだった。


 このお話しを断るわけにいかないと、それは初めから分かっていた。すぐに承諾しなかったのはあの娘の面影を己の中から閉め出せる自信がなかったからだ。


 それが昨日、大福を持ってご挨拶をしてくるよう仰せつかった。娘の顔を見ることができると嬉しかったし、これで己なりのけじめを付けようと決意しもした。娘の顔をひと目見て、できることならあたしなりの別れの言葉を、たとえ相手にはそれがそうとわからなくてもいいから告げようと、そう思ったのだ。


 あたしがまだ丁稚のころ、お琴のお師匠さんは

「あの娘は下働きだけど、いずれあたしの跡を継がせて琴で身の立つようにしようと考えている」

と言っていた。

「だから、すべてがあの子にとっては修行なんだよ。あんたが手助けしちゃ、あの子のためにならない」


 その言葉の通り、近頃は新弟子のお稽古を任されるほどの腕前になり、代わりに下働きをする娘を探している、との事だ。ただ、なかなかあの娘の代わりになれるような、気の利いた娘が見つからない、とお師匠さんが嘆いているらしい。


 先ほど旦那様や女将さんにあたしが言った言葉に嘘はない。弁天さまでのやり取りでお嬢さんの心根に触れ決心もついた。


 そう、お話しがあったときからあたしの答えは決まっていた。旦那様に申し上げた通り、あたしに断れる話じゃない。


 うすぼんやりした灯明の明かりの中で、娘の顔を思い出そうとしていると、膝に子猫が乗ってきた。


「不思議なコだね、お嬢さんに懐いていたんじゃないのかい?」

子猫は膝に座ってあたしを見上げた。

「あの娘はどんな顔をしていただろう。久しぶりに見た顔はえらく大人びて、胸がきゅっと締め付けられるようだった」


 あの日、旦那様から「好いたおなご」はいないのか、と問われたあの日、あたしが思い浮かべたのはおまえだったのだよ……心内で話しかけるほかない。誰かに聞かれれば大変なことになる。


 だって、仕方ないじゃないか。いくらあたしがおまえを思ったところで、おまえを女房に貰えるわけもなし。貰えるとしたら、まだ何年も働いて、町住が許されるような番頭になり、旦那様がお許しになれば、の話。だいたい、おまえに「うん」と言って貰えるかどうかさえ怪しい話だ。


 大福を持って行っておくれ、女将さんの言いつけに、「あの娘をひと目見て、それを最後と忘れるのだ」そう己に誓った。「幸せになるんだよ」と伝えることもできた。


 不思議そうな顔をしてあたしを見ていたね。きっと、気持ちの悪い男だと、あたしのことを思っただろうね。だけど、おまえが幸せでいること、それがあたしのおまえへの願い。一方的ではあるけれど、あの娘が幸せなら、あたしはそれでいいと思った。


「これでいいんだ」

 あたしは子猫の背を撫でながら、己に言い聞かせた。

「本当に、こんな仕合せ、ないんだよ。あたしにはもったいない」


 弁天さまでのお嬢さん。あんな真っ直ぐにあたしを見て、あたしを好いていると言い、あたしが自分の幸せだと言い、自分があたしの幸せになりたいと言ってくれた。あたしがあの娘を思う気持ちと、お嬢さんがあたしに向ける気持ちは同じだった。


 ただ、お嬢さんは「自分が相手の幸せになりたい」とあたしがあの娘を思うより強く、あたしのことを思ってくれている。それに気付いたあたしは、お嬢さんの気持ちに応えなきゃならない。主が命じるから、ではなく、お嬢さんの気持ちに応えるため、このお話を受けなくちゃならない。それが誠と言うもんだと、あたしは思ったんだよ。


「ねぇ、あたしは幸せ者なんだよ」

子猫にまで自慢したいくらいに。


 そう言いながら手代の顔が晴れることはなかった。

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