心配性で世話焼きたがりの従妹との同居生活

縞杜コウ/嶋森航

きゅうりがない冷やし中華なんてライスのないカレーライスと一緒だと思う

「げほげほげほっ」


 意識の覚醒とともに、思い切り咽せた。快適な海底1万メートルから無理やり引き上げられた深海魚のような気分が胃の奥に浸透する。


「深海って真っ暗でジメジメしてて息苦しそうだね。もしかして前世は深海魚?」


 そりゃそうだろ。そもそも人間が深海魚が棲息する場所に飛ばされたら一瞬で破裂死しそうだけど。ロマンをぶち壊すような一言はよくない。というか今の声に出てた?


「未開でノスタルジーを感じる場所が好きなんだよ。ほっといてくれ」

「深海にノスタルジー感じるってどういう悲しい人生を送ってきたの? というか寝起きで咳き込むって、ほんとに大丈夫?」


 本気で心配している声音ではないが、多少なりとも気には留めている様子が窺える。俺にとっては日常茶飯事なので、適当に流して身体を起こす。


「というか、なんで俺の部屋にいるの」


 知らない顔ではないため取り乱しこそしないが、怪訝に眉を歪めるくらいはする。


「起こしに来た健気な女の子に礼の一つでも言えんのかね。この寝坊助さんは」

「え、今何時!?」

「さあね〜。自分で確かめれば? 私は今の素っ気ない対応に心を痛めましたー」


 棒読みに苦笑する余裕はなく、充電コードに繋がれた枕元のスマートフォンを慌てて覗くと、無惨にも七時三十四分と表示されていた。メリケンサックで両頬を同時に殴られるような衝撃に、一気に眠気が吹き飛んだ。


「うわっ、危なかった。助かったよ。帰りにお高いプリンでも買ってくるから許してくれ」

「ほんと!? やった〜! お兄ちゃん大好き!」

「単純だなぁ」


 ムスッとする海琴をなんとか宥めようと餌を放ると、計算通りというように破顔する。そして小躍りして部屋を出ていった。まさかこの手札を引き出すためにわざと遅く起こしたのかもしれない。そもそも妹ではなく、正確には従妹なわけだが、普段は下の名前に君付けで呼ぶくせに、こういう時だけ都合が良い。


「今日も暑そうだ」


 窓の外は早朝にも関わらずかんかん照りであった。空に浮かぶ立派な入道雲は、エアコンの効いた室内で心の奥底に潜んでいた憂愁な感情を外に誘引する。


 一階に降りてリビングに入ると、トーストの焼けた香ばしい匂いは、体の芯にこべりついていた微かな眠気を吹き飛ばす。


「いただきます」

「ゆっくり食べるんだよ。じゃあ私はもう行くから、戸締りはちゃんとしてね」

「ほいほい」

「大丈夫かなぁ」


 額に皺を寄せる海琴。なおざりに手をひらひらさせると、背中越しに溜息が漂ってきた。静寂が耳鳴りのように響いて心を騒つかせる。落ち着かないので冷蔵庫に2杯目の牛乳を注ぎに行くと、視界の隅に海琴が作った弁当が置いてあった。「今日も頑張ってね」とメモ書きが添えてある。なんとも言えないむず痒さが胸臆を覆った。




 





「おはよ、いおりん」

「いおりん呼ぶな」


 小学校からの幼馴染である畔柳桃矢、通称クロが話しかけてくる。いおりん、というのは俺の下の名前である『依緒莉』から由来するものだが、あだ名の響きが男にしては可愛らしすぎるというか、とにかくあまり好きじゃない。


「その顰めっ面、いい加減どうにかならんのかい。昔から知ってる俺でもたまに話しかけるの気が引ける時があるんだぞ」

「いつも言ってるだろ。元からこんな顔なんだよ」


 クロは呆れたように息を吐く。


「いやぁ、そんなことはないね。前は親しみやすい雰囲気だったし、明らかに違う。普通にしてればいいんだよ、普通に」


 昔から俺のことを知ってる人間に言われてしまえば反論は難しい。自分は毎日鏡で自分を見てるから変化に気づきにくいって言うしな。というか、自分の中で「普通」がなんなのか分からない。自分という人格が迷宮に迷い込んだように安定しないというか。とにかく、人生の基軸がぐにゃぐにゃに屈折しまくってる感じだ。


「そういやあと二週間で期末テストじゃんか。勉強してる?」

「してない」

「だよなぁ」


 クロが余裕を構えたようにケラケラと笑う。お前、いっつも赤点ギリギリで回避してる落第候補生じゃんか、とは言わないでおいた。


「依緒莉は頭いいのにさ、大学行かないかもなんて勿体なさすぎるよ」

「それも何万回も聞いた」


 高校三年生になって受験勉強を始める学生が多くなってきた。俺の通う軽峯高校はそれなりの進学校ということもあり、ほとんどの学生が大学に進学する。なので俺も当然大学進学を教師からも勧められていた訳だが、俺はとある事情があってそのつもりがハナからなかった。


 億劫な気分を逃がそうと、窓の外を眺めると後悔が先にきた。結露のせいか水滴を帯びる窓越しに、抜けるような空とうだるような暑さが伝わってきたからだ。


「こんなクソ暑い中良くやるよ」


 外では校庭で慌てて後片付けをする陸上部の面々がおり、ほんの少し尊敬の念を覚えた。


「こんな時には冷やし中華を食べたいもんだ」

「そういや食堂で7月限定のメニューとして出てたな」

「冷やし中華ってなんで夏だけしか見ないんだろうな。あんだけ美味しいんだし一年中あってもいい気がする」

「きゅうりが夏の野菜だからだろ」

「貴様冷やし中華にきゅうりなぞ入れるのか? 邪道だな」

「きゅうりがない冷やし中華なんてライスのないカレーライスと一緒だろ」


 あの麺とタレに絶妙なエッセンスを与えるシャキシャキ感がなければ半分食べて飽きると思う。この世にきゅうりを入れない人種がいるとは思わなんだ。


「お前とは一生分かり合えんようだ」


 まあでも、こうやってバカやれるこの時間も悪くない。荒みきった俺の心に潤いを与えたのは、この幼馴染の存在があったからでもあるのだ。

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