9

 エスカルゴはすぐ見つかった。表通りにあるわけではないが、そこそこ賑わっているのは魚介料理専門と看板を出しているからかもしれない。ターゲットを絞ることにより、却って客を呼ぶこともあるだろう。しばらく出入りする客を観察していたが、庶民に化けた貴族が混ざっているのに気付いた。安くて旨い庶民の店、そこに出入りしているとは知られたくない、そんなところだ。


 頃合いを見て店の裏に回る。狭苦しい路地には思った通りゴミ置き場があった。少し離れて、ネズミが出てきそうな路地でじっと待っているとやがて勝手口を開ける気配がする。慌ててフィルは物陰に隠れた。


 初老の女に話を聞いた後、街中を走り回りお膳立ては済ませた。あとはマナをその気にさせ、今日のうちにすべてを終わらせたい。嫌な予感がした。早くこの街を出たほうがいい。嫌な予感は当たると相場が決まっている。きっと追手がこの街に来たんだ――


 勝手口から大きなゴミ箱を持ってマナが現れフィルをホッとさせる。マナが出てくるのを待っていたフィルだ。

「やぁ――」

物陰から出て、マナに話しかける。マナがきょとんとフィルを見た。


「重そうだね――ここに置けばいいのかい?」

 ゴミ箱に手を伸ばすと警戒してマナが身を引く。そのマナにフィルが微笑む。


「怪しいヤツだって思われたよな? そりゃあもっともだ。なんで馴れ馴れしく話しかけてくるんだ、って思うよな――あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたを知っている。グラップ通りの裏に住んでるマナ、そうだろう? かあちゃんの名前はルナだね」


「――それで何の用? 変なことしたら人を呼ぶよ。大声出すよ」

「怖がらせてごめんよ――俺さ、あんたのとうちゃんに頼まれて、あんたと母ちゃんを探してたんだ」


「父ちゃん?」

「うん、本当なら父上って言わなっきゃな、貴族様だ」


「……父ちゃんになんか会ったことない」

「だからさ、探してくれって。随分探し回ったんだよ」


「いまさらなにを?」

「父ちゃんはマナと母ちゃんを手放したことを後悔してるんだ。酷いことをしてしまったってね――今からでも償いたいって思ってる」


「償う?」

「うん、本当なら二人を引き取って一緒に暮らしたい。でも正式な奥方がいる。だからできない――その代わり、生活が立つよう手助けしたい」


 マナの表情が目まぐるしく変わる。怒り、恐れ、そして安堵――でも、信じられないと目が言っている。


「あ、そうだ、これこれ――忘れるところだった」

 フィルが手にした包みから、瓶を一つ取り出す。やっと見つけたシラップ漬けの桃の瓶詰だ。生のものが欲しかったが、季節柄、瓶詰がやっとだった。


「これを母ちゃんに、って、父ちゃんに預かってきたんだ。ルナは桃が好きだったって。今は季節じゃないから生の桃は手に入らない。瓶詰で申し訳ないって」

「桃?」

マナの表情が今度は大きく変わった。


「これが桃? くれるの?」

「もちろんだとも。マナと母ちゃんのためのものだ」


「――本当に父ちゃんはわたしと母ちゃんを助けてくれる?」

瓶詰めとフィルを見比べながらマナが尋ねた。


「マナと母ちゃんのために家を用意した。そこに住んで、今までの生活を断ち切って欲しい――曲がりなりにも貴族の令嬢に、あんな暮らしをさせていたとは世間に知られたくない」


「貴族の令嬢?」

「令嬢ってのはお嬢さまって意味だ――できるかい? 今すぐエスカルゴをやめて、俺と一緒にその家に行く。そして今までの知り合いにはもう会わない」


「ここを辞めたら食べていけないわ」

「大丈夫、ちゃんと金は渡す。母ちゃんを医者に診て貰って二人で生活して、それでも十年は余裕がある金額だ」


「母ちゃんをお医者に?」

「うん、診て貰って早く元気になって貰おう――でもね、マナ、母ちゃんには父ちゃんが金を出してくれたなんて言っちゃダメだ」

「えっ? なんで?」


「母ちゃんはきっと父ちゃんを恨んでる。世話になりたくないはずだ」

「だったらわたしも……」


「よく考えろマナ、母ちゃんのためだ。父ちゃんの世話になったほうがいい――まぁ、どうしても嫌だというなら無理強いはしない」

「待って! 母ちゃんには言わない。でも、どうやって母ちゃんを家に連れて行くの?」


「母ちゃんにはこう言おう。マナは貴族の世話になることになった――まったくの嘘ってわけでもない」

 本当は嘘だ、まったくの出鱈目でたらめだ。かすかにフィルの胸が痛む。でも、他にいい考えが浮かばない。


 ややあって、マナが顔を上げフィルに言った。

「判った、わたし、父ちゃんを信じる」

うん、とフィルが頷く。


「それじゃあ、今すぐ行こう」

「うん、店主に挨拶してくる」

「いやダメだ、マナは行方不明になるんだ。貧乏なマナはもう消えた。今日からは貴族のお嬢さんのマナだ。判るか?」


 フィルが真剣な眼差しをマナに向ける。その目を見つめマナが頷く。

「判った。貧乏だったってこと、忘れる。母ちゃんを迎えに行こう」

「ごめん、マナ、母ちゃんはもう新しい家に行ってる。向こうでマナを待ってる」


「どうして?」

「マナを世話したいって貴族がいるがいいか、って先に母ちゃんの許しを取ったんだ。だって母ちゃんが嫌だって言ったら困ると思って」

「そっか……」

ルナにそんな話をしたのは本当のことだ。マナが哀れと泣くルナの背を撫でて、このままではもっと苦労すると説得した。そしてとうとうルナも頷いた。


「まず、宿に行ってバスを使って――服もお嬢さまに相応しいものを新しく用意した。それを着て母ちゃんが待っている家に行こう」

 うん、とマナが頷くのを見てフィルが言う。


「もう一つ約束して欲しいことがある――これから知りあう人には、母ちゃんに言ったことと同じことを必ず言うんだ。貴族の世話になっている、と。本当のことを母ちゃんに知られるわけにはいかない。そして、マナを世話している貴族は忙しくてなかなか来れないってことにするんだ」

約束する、とマナが微笑む。そして大事そうにかかえた桃の瓶詰を嬉しそうに見た。

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