【2】

 シバとシュリの婚約が決まったのは、寒い冬の頃だった。それから二回目の冬を迎えようとしていた。


 この冬はいつになく寒い日が続いている。いつもシュリはシバのために温かなスープをジャーに入れて持参していた。休み時間になるとそのジャーを持ってシバのいる三年生の教室へとやってくる。しかし珍しいことにその日の昼休みにシュリの姿はなかった。


 シバからシュリの教室へ出向けば、シュリは早退したらしい。騒がしいシュリのクラスメイトたちを無視して、シバは踵を返した。シュリがいないとなんとなく調子が出ない。


 シバの足は自然とシュリの家へと向いていた。


 シュリの家はシバの家とは反対方向だ。シュリの両親は女性同士で結婚している、アルファとオメガの番だった。父親役をつとめるアルファのアカネさんは、シバの両親の仕事仲間でもある。


 そのためシバとシュリとはこどもの頃から面識があった。婚約が決まったのは高校に上がる頃であったが、二人は幼い頃に何度か遊んだことがあるらしい。らしいというのは、その頃の記憶が曖昧なほど幼い頃の出来事だったからだ。


 シュリの家につくと、出迎えたのは母親役のオメガのリカさんだった。


「あら、シバ君、いらっしゃい」


「シュリは帰っていますか?」


「帰っているけど、会わないほうがいいわよ」


 リカさんの言葉にシバは状況を察する。


「もしかして、発情期ですか?」


「ええ、薬で抑えていたみたいだけど、今回は特別に辛いみたい」


 定期的に訪れる発情期は、自身でコントロールできるうちはいいが、コントロールできないほどのフェロモンを出すことも多い。近くにいるアルファはそのフェロモンの影響を受けやすかった。


 事実、シュリの家に入った矢先から、甘い匂いがシバの鼓動を早くしていた。シュリと同じオメガであるリカさんは、シュリの辛さをわかっているのだろう。


「シュリは大丈夫でしょうか」


「心配してくれてるの?」


「心配? 俺が?」


 リカさんの言葉に、シバは返答に困った。なんとなく、シュリがいないと調子がでない、そう思ってやって来ただけなのだが、それが心配というものなのだろうか。


 その答えが知りたかった。


「シュリに会わせてください」


「でも、シュリは今の自分を見られたくないと思うわ」


「ドア越しで少しだけで構いませんから」


 最後まで言い終わらないうちに、シバは靴を脱いで、リカさんの静止を振り切った。向かうのは二階の突き当りにあるシュリの部屋だ。部屋に近づくと、甘い匂いが強くなって、シュワシュワとシバの神経に染み渡っていくようだった。シバは賢明にその誘惑を振り払ってシュリの名を読んだ。


「シュリ!」


「シ、バ……先輩?」



 部屋の中から弱々しくシュリの声が聞こえる。


「ダメ、こ、ない……で」


「なぜ? いつもはシュリから寄ってくるだろ?」


 なぜだか、シバの声に底知れぬ熱がこもる。それをシュリも敏感に感じ取ったのだろう。


「わたし、の、フェロモンに、酔っている、シバ先、輩は、見たくない、の」


 そこでシバは自分がシュリのフェロモンに当てられているのだと自覚した。それが急に恥ずかしくなり、シバはさっと踵を返すと逃げるようにシュリの部屋の前をあとにした。リカさんに挨拶もそこそこに、シバはシュリの家を飛び出す。


 帰り道は雨が降っていた。


 どうして逃げ出してしまったのか、シバ自身もよくわからない。それでもあの場にあのまま留まることはできなかった。


雨に濡れるのも気にせず、シバは傘もささずに雨路を走った。冷たい雨が先程の甘い匂いを洗い流してくれるような気がする。


「シュリ……」


なぜだか、優しいシュリの笑顔がシバの頭を過ぎったのだった。

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