第42話:臆病な接近

 十秒ほど安堵をかみしめた後で、壁を伝って反対の階段の方へ進んだ。


 階段の奥には通路が横断していて、通路を挟んだ向こう側に、扉がいくつか並んでいる。そのうち、一番左の扉が数センチほど開いており、そこに意識が集中した。中に人がいる可能性を疑い、熱検知をかけてみるも、人の反応はない。ただ、扉まで十メートル以上離れているから、検知の精度は期待できなかった。念のため、あたりを見渡して、扉から人が出てきた場合の行動をシミュレーションする。


 まず考えられるのは、すぐ右手に飛ぶこと。壁のへりをつかめれば、身を隠すことも、先ほど顔を出した階段へ飛び移ることもできるだろう。それほど難しい行動ではない。ただ、へりをつかみ損ねれば、カメラに写りこむ可能性がある。着地点を設定している暇はないから、壁をつかむ作業はアドリブになるはずで、成功させる自信を強くは持てなかった。第二の選択肢が欲しい。


 壁から外れた視線をさまよわせているうちに、天井に目が留まる。アーチ状の天井は三メートルほどの高さがあり、灯りをとるための天窓が、左の側面にいくつか並んでいた。飛び上がれば、窓枠につかまることができそうだ。とはいえ、数メートル下に人が歩いている中、息を潜めているのはかなりスリリングなシチュエーションと言える。廊下を歩く人物がわざわざ天窓を見上げるとは思えないけれど、私の精神が耐えられるだろうか――

 

 左手でかすかな物音。

 

 全く予期しない方向から訪れた音に、心臓が高鳴る。

 息をのんで体をかがめると、鼓動のバクバクという音がうるさいくらいに聞こえた。


 胸の圧迫感に倒れそうになりながら、何とか左手に熱検知をかける。すぐに、ぼんやりとした反応が返ってきた。先ほど出てきた部屋の隣からだ。ぼんやりとした反応なのは、壁が厚いせいか熱源が遠いせいか。どちらにしろ、人と判断するには弱い。


 かすかに開いた前方の扉に注意を払いつつ、私は左手の扉に近づいていく。

 扉の手前までたどり着き、大きく深呼吸。扉のすぐ向こうには、人の反応がない。

 胸に手を当てながら、できる限りゆっくりとノブをひねり、扉を開けた。

 耳を澄ませると、遠くから人の声らしき音が聞こえる。

 私は、自分を奮い立たせ中に入った。


 部屋の構成は、先ほど訪れた部屋の相似形だった。中央に丸机とソファが配置されており、奥の壁に大きな窓。ただし執務机はなく、代わりにキャンバスが置かれている。左の壁にある扉はかすかに開いていて、そこから声が漏れてきていた。


「しかし私のスーツが――

「だから、知らないって――

 

 声の主は、だいたい見当がつく。

 左手の扉をいったん無視して、部屋の奥に進んだ。大きな窓のカギを外し、わずかに外へ開く。すぐに向こうから風が吹き込んできて、レースのカーテンをはためかせた。窓の外には、左手の奥にガラスのエレベーターが見える。


 いざという時の逃げ道を確保し、声が漏れている扉に向かう。横目に見えるキャンバスには、何も描かれていなかった。寝室の熱反応を探ると、想像通り二人の人影が確認できる。邪魔者はいないらしい。部屋に入る舞台が整ってしまい、一気に緊張が高まった。扉の前で体が制止する。


 数秒の空白。


 行動を先送するための理由を探している自分に気がつき、口角が上がった。いつかは足を踏み入れなければいけないのに、臆病なやつ。


 笑いをかみ殺したことで、不思議と緊張が和らぐ。

 私はか弱い自分の背中を押して、扉を開けた。

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