肆ノ幕 人から肯定されるって嬉しい

 杏果のタブレットの画面の中では、ソ連時代の軍服を着たロシア人の男女が“連合軍の歌”、俗に“ワルシャワ条約機構の歌”とも称される歌曲を合唱していた。

「明照君、これ教えようか?」

今日は対面座位ではなく、隣に座っていた杏果は明照の二の腕を掴んだ。一瞬痙攣はしたが、明照は段々杏果の行動に慣れつつあった。

「良い歌であることは間違い無いけど、僕には未だ難しいかも。修業が足りない所為で、御免よ」

ネガティブな発想はしなくなりつつあったものの、明照は未だ自分の能力を過小評価していた。そんな明照の背中を押したのは祖父母だった。

「気にするな。これは別に試験じゃないんだから」

「実際にやってみると案外簡単かも知れないよ・・・あら、これ何て曲だったかしら」

最後の最後で清美は何時もの忘れっぽさを発揮したものの創業初日からの会員である2人の言葉は明照だけでなく、その場に居た他の会員達にも響いた。自分達は勝手に己の限界を実際よりも遥かに低く見積もっていたのではないだろうか。確実な物証こそ無いものの何故かそんな気がしてならなかった。そうこうしている間に開始の時間となった。


 今日選ばれた歌曲は“嗚呼、マローズ極寒、マローズよ”だった。明照は中学生男子としてはかなり声域が高く、人によっては女性の声と聞き間違える事すら有る程なのでアルトに回された。この日、明照は自分でも驚く程歌うのが楽になっていると気付いた。否、そればかりではない。寧ろ、歌うと脳内麻薬が大量に分泌されていた。今迄何でこんなにも歌うのが苦痛だったんだろう。本当は天にも昇る心地なのに。


 休憩時間を挟み、後半に入ろうかという時、明照は意を決して寛司と英子に自分の欲求を申告した。

「次に歌う時、僕にソプラノやらせて下さいますか? 僕の声はかなり高いですから、自信有ります」

ついこの前までネガティブな事ばかり考えていた弱味噌が自ら難易度の高い事を志願したとあって、2人は目玉が飛び出るかと思った。

「明照君、思い切った決断をしたね」

「如何したの? もしかして、何かに目覚めた?」

二人から問われても、明照は以前と違い冷静だった。

「今日皆で歌った結果、気付きました。皆と一緒に歌うこと・人前で歌うこと。それって、本当は途轍も無く楽しくて堪らない事なんですね。どうしてもっと早く気付けなかったんでしょう。もしもタイムマシンが有るなら数日前の僕に教えてやりたいですよ。“こんな楽しい事なのに悪い様に考えては駄目だ”って」

予期せぬ覚醒は二人を大いに戸惑わせた。しかし、それ以上に教え甲斐が有ると認識させた。この様子を見ていた均と清美も満足そうに頷いた。

「よく言った。それでこそ明照」

「何やるのか知らないけど、やるなら最後迄決して諦めないでね」

相変わらず惚けた所が有る清美だったが、その目は明らかに可愛い孫を応援する祖母の目だった。

「それじゃ、僕、ベストを尽くしてくるから」

最初とは違う所に立った明照は、未だ緊張自体はしていたものの、最早迷いも恐怖も無かった。邪念を完全に薙ぎ払った立派な一人の歌い手となっていた。


歌い終わった時、明照は心地良い緊張感と疲労を覚えていた。自分の席に戻った明照の所に他の会員達が集まってきた。

「明照君、やるやんか。出し惜しみなんてせんで良かったんやで」

「本当。何でもっと早く本気を出さなかったんだよ」

「オーチンハラショーですよ、同志タヴァリシチ明照」

 皆から賞賛され、明照は心がホワホワしていた。

「僕って本気出せばこんなに上手に出来るとは…。自分でも全く自覚していませんでした」

心拍数が上がっているのを感じながらも、明照は人から肯定されるって嬉しいと改めって痛感した。



終了後、帰り支度を始めていた明照は、不意に杏果に呼ばれた。

「明照君、今日はとってもよく頑張ってたね。御褒美に、とても良い所へ案内するよ」

「とても良い所?」

唐突な申し掛けに明照は目が点になった。しかし、別に拒否しなくてはならない理由も無いので杏果に導かれるがままについて行った。


 歌声喫茶の裏口はそのまま自宅へと繋がっていた。廊下を進み、階段を上った先の、一際大きな部屋に入った瞬間明照は言葉を失った。何せそこは明照が今迄一度も見たことがない物で溢れかえっていたからだ。何から注視していけば良いか分からずにいると杏果は得意げに話し始めた。

「驚くなって方が無理だよね。明照君はこの手の物、存在すら知らなかったんじゃないかな」

杏果の部屋には、様々な年代の魔法少女のグッズが所狭しと並んでいた。

「よくこれだけ集められたね。杏果ちゃんの言う通り。魔法少女の事は何一つ分からないよ。だけど、見たところ、今では簡単に手に入らない物が多いよね?」

「それが分かるだけでも大したものだよ。あたしにとって一番許せないのは“全部同じでしょ”と言われる事なんだよね。因みに“違いが分からない”は許す。でもここへ呼んだのは、他にやる事が有るからなんだよ」

何処からかティッシュとゴミ箱を持ってくると、杏果は自身の膝を指差した。

「え……?」

「大丈夫だから、ここに頭乗っけて」

明照はまたも固まった。年齢としてはどちらも子供だ。とは言えまぁまぁ図体のでかい男である自分が、小さい女の子に膝枕して貰うなんて。何故か凄まじい罪悪感を覚えた。

「あ、あの……」

「何やっているの? 誰も見てないんだから大丈夫だよ」

魔法少女グッズに囲まれているだけでも落ち着かないのに、その上更に膝枕までするとは。だが、正当な理由も無く断ったら、折角築き上げてきた信頼が音を立てて崩れ落ちていくのは確実だった。

「えぇいもう如何にでもなれっ……!」

観念した明照が恐る恐る杏果の膝の上に頭を乗せて、目を瞑った数秒後、体を震わせる程の快楽が全身を駆け巡った。見ると、杏果は珍しい玩具を手にした様な顔をしていた。

「ほら、じっとして」

「だ、だってこんな事するなんて聞いてないっ…」

「穴の奥までしっかりやらないと」

「うぅう…怖い……」

「暴れると怪我するよ」

「そ、そんな事言ったって…」

数十秒後、漸く膝から下ろされた明照は、人前で歌うことを恥ずかしがっていた頃とは違う種類の脱力感を覚えていた。

「何で最初に教えて呉れなかったんだよぅ」

「耳掃除でこんな事になるなんて思わなかったんだもの」

呆れながらも杏果は綿棒をティッシュに包み、ゴミ箱に投げ込んだ。

「まぁね、“もう懲り懲り。一生しないで”と言うのなら従うけど」

「あ、いや、其処迄は言わないよ。やる前に教えて呉れたらそれで良いから」

何とも不思議な感触を覚えながらも明照はぼんやり座っていた。

「明照君、あたしの部屋は2つ有るんだけど、どちらも自由に入って良いからね。自分の家に居る時と同じ様に過ごすんだよ」

「杏果ちゃん、自分の部屋が2つも有るの?」

「まぁ、事情が色々有ってね」

この時、杏果の顔は正面を向いてなかったので明照は気付いていなかった。杏果は固い表情を明照の前では見せなかった。否、決して誰にも見せたくなかった。

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