悪役令嬢の召使い ~元の世界に戻りたいので、彼女の出世ためにこき使われてみます~
一柳すこし
1 悪役令嬢・ヴィオレーヌ
桔梗の花と獅子の彫刻がほどこされた黄金色の扉を開くと、漏れ出た白い光の眩しさに、クラリスは思わず目をすがめた。
宰相官邸の謁見の間。いくつも並ぶ大きな窓からカーテンのように光の差し込む広い部屋にたたずむのはしかし、若い女が一人だけだ。
「さあ、もう逃げ場はないですよ。ミス・ポンデュピエリー」
クラリスが声をかけると、その女は彼女を見据え、不敵な笑みをその端正な白い顔に浮かべた。
紫色のドレスがよく似合う、細身の美しい女。ここまで追い詰めたというのに、その態度は堂々としていて、まだ二十歳とは思えない。自慢の黒髪を桔梗の紋章の刻印されたバレッタで結い留めた彼女は、まるで肖像画に描かれている王妃様のような姿勢を動かすこともなく、見下すような視線をクラリスに向けている。
そのエメラルドグリーンの大きな瞳を細めて。
顔の白さの中で目立ちすぎる紅い唇を皮肉そうにゆがめて。
ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー。宰相代理にしてこの国の王太子の元婚約者である彼女は、もうすぐ人生を終えようというこの時にまで高慢でふてぶてしく、そして美しかった。
でも、あなたはもう、終わりよ。
内心の焦りを落ち着けるようにクラリスは自分に言い聞かせる。
あなたはもう終わりよ、ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー。あなたの積み重ねてきた悪事はすべて露見した。あなたは王太子から婚約破棄され、その地位も領土も失い、味方となる者もいない。今やあなたはただの囚人。ただ、処刑の時を待つだけの、ただの囚人……。
クラリスは己を鼓舞するようにいったん右手を握り締め、それからその手を高々と上げる。後ろに控えていた二人の衛士が前に出て剣を抜く。衛士の陰からもう一度、彼女は声を張り上げる。
「さあ、これでおしまいよ。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー」
「逃げる? そんな必要ないわ。クラリス・ド・デュフレーヌ」
ヴィオレーヌは嘲るように言い返す。そしてクラリスを指さして、鋭く命令を発する。陶器をはじいたような、硬質の冷たい声。多くの人を不幸に陥れてきた、その声で。
「親衛隊。この娘をとらえよ!」
ヴィオレーヌの声の余韻が、広い謁見の間に響く。
彼女の声の余韻が消えぬ間に、彼女の背後の左右の扉が開き、数十人の武装した兵士が乱入してきた。親衛隊隊長、アルベルトの姿を筆頭に、白銀の兜と胸甲をつけて紅い軍服をまとった彼らは、ヴィオレーヌを守るように列を組む。彼らは重々しい金属の音を響かせて、一斉にクラリスたちに剣の切っ先を向けた。
クラリスの緊張にこわばった顔が歪んだ。
失策だった。ヴィオレーヌ直属の親衛隊がまだ健在だったなんて。彼らは国境の戦場で壊滅したと知らされていたのに。偽情報だったか。こんなことなら隊長のアルベルトを懐柔しておくべきだった。民衆と国軍と王太子と大臣たちを味方にして、完全にこちらの勝利と思い込んでしまった。
クラリスは今さらに、たった四人の供しか連れずにここまで乗り込んできてしまったことを後悔した。油断していた。彼らは精鋭の四人とはいえ、ヴィオレーヌの親衛隊も精強な部隊として知られている。数十人相手では万に一つも勝ち目はない。
ここはいったん引くか……。
そう考えながら背後をうかがったクラリスは、しかし思わず息をのんだ。いつの間にか廊下も、ヴィオレーヌの親衛隊であふれていた。
「オホホ……。おしまいなのはあなたよ。クラリス」
謁見の間の中心で、ヴィオレーヌは手の甲を口に当てて高笑いをする。
「聖女だなどともてはやされて、みんなをたぶらかしたまではよかったけれど、詰めが甘かったわね。こんなに簡単に罠にかかるなんて。あいつらなんか、あなたがいなければ結局またバラバラ。怖くなんかないわ。ここであなたを殺して、あなたの嘘の噂をばらまいてやる。そして私は、再びこの国を跪かせてやるの。ホホ。オホホ……。オーッホホホ!」
◇ ◇ ◇
笑う女の頬に平手打ちを食らわせるようにパソコンの電源ボタンを長押しすると、女も、謁見の間の景色もかき消えて、画面は黒一色にのまれた。
「くそっ。また、ゲームオーバーだ」
俺はため息をつきながら、仰向けにベッドに横たわる。
見上げる天井は薄暗い。
白い壁には橙色の光が這っている。
もう、夕方だ。しかし朝からやっているゲームは、クリア直前まで行きながらなかなか進まなかった。何度もゲームオーバーになり、あの女の高笑いばかりをきかされて、さすがに疲れ果てた。目を閉じて休んでいても、得意げで蔑むような笑い声が耳の奥で響き続けている。
俺は手を伸ばして枕元に置いたゲームのパッケージをとり、寝たままその辞書ほどの大きさもある箱を頭上にかざして見上げた。
『リヴァージュ伝』
俺が今やっているゲームだ。ヒロインのクラリスという少女が、仲間を増やしながら悪人たちを倒し、彼女らの住むアルフール王国を救うという内容の、シミュレーションゲームである。
このゲームのラスボスにあたるのが、宰相の養女であるヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリーなのだが、この女がなかなか腹が立つ。
ヴィオレーヌは設定では二十歳の若い女なのだが、中身はまるで狸ジジイだ。自分の栄華のみを追い求め、残酷で腹黒く意地が悪い。策謀をめぐらし、罠や嘘で人々をたぶらかし、あらゆる手を尽くしてクラリスたちの邪魔をする。この女の罠にかかってゲームオーバーになった回数は両手では数えきれない。そのたびに彼女はその端正な顔に歪んだ笑みを張り付け、手の甲を口に当てたお決まりのポーズで高笑いをあげるのだ。最初はそのたびに闘志を燃やしたものだが、もう嫌気がさしてきた。ゲームオーバーは自分のせいだが、なんとも嫌なこの笑い声を繰り返しきくうちに、俺はもうすっかりこの女が嫌いになってしまった。
最終的にはクラリスたちにとらえられ、処刑されるはずの女。この女が許しを請うて泣き叫ぶ姿をはやく見たい。それだけがこのゲームを続けるモチベーションだった。
「あーあ。ダメだな、俺は……」
俺はゲームのパッケージに描かれたクラリスを見上げながらもう一度、深くため息をつく。
俺は大学生だ。でも、将来何になりたいという希望があるわけでもなく、今やっている勉学にさして興味があるわけでもない。ただ、何となく進学して、何となく学校に通って、何となく暇な時間を過ごしている。活き活きと学生生活を営んでいる連中が、俺には異世界の生き物のように思える。彼らの活力の源は何だ。何をモチベーションに生きていけばいいんだろう。俺にはさっぱりわからない。勉強することから逃避してゲームをしているのに、そのゲームをクリアすることもなかなかできない。
きゅるると、俺の腹が哀しげになる。
「コンビニに行こうか。でも、面倒癖えなあ」
そうぼやきながら起き上がろうとした時だった。
腕時計を確認しようと右手をパッケージから離したのがいけなかった。
左手から滑り落ちたゲームのパッケージが、俺の頭上に落ちてくる。
スローモーションのようにパッケージのイラストが近づいてきて、それをよけようと顔を背けた俺は思わず目をつむる。
頬に痛みが走る。それはたいした衝撃でも痛みでもなかった。しかし俺の意識は強い力で地の底へと引きずり込まれていく。
そして先ほどシャットダウンしたパソコンの画面のように、俺の思考は真っ暗になって途切れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「もし……。もし、もし?」
しわがれた声に呼びかけられて、俺は目を覚ました。
視界に入ってきたのは木組みの天井と、そこにぶら下がるランプ。薄暗い石造りの壁。
俺の部屋じゃない。
「ここは、どこだ?」
起き上がった俺の目の前で、髭を生やした小太りのおっさんが、人の好さそうな笑みを浮かべて跪いた。
「ようこそブルジヨン村へ。天使様!」
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