第18話  酒はやめた


 反省した。


 少なくともウォレスはそう思っている。以来――五日ほど――酒は口にしていない。収穫はなかったが、王宮からの仕事に精を出している。薄荷茶ミントティーを頼んでも、覇王樹亭サルーン・カクタスの店主が目玉を剥き出すことはなくなった。うさんくさげな目で見てくる。


 その日も探索を終えて幾つかの戦利品を抱え、茶と食事を求めて店へと歩を進めていた。何がいいか、特製のソースに漬け込まれた巨蜥蜴おおとかげ肉のあぶりを厚切りパンに挟んだもの――柔らかな生地に染み込む肉汁がたまらない――、それに生野菜の大盛りか。

 時間はかかるが山羊チーズのとろけるピッツァ、塩の利いたサラミを載せたやつ――クセのある匂いもまたいい、あっさりとこってりが口の中で混ざるのも――、それに生野菜の大盛りか。

シンプルに羊と鶏と猪の串焼き――いやだめだ、さすがに麦酒エールが欲しくなる――ああ、とにかく野菜は大盛りだ、修道僧か山羊のように。酒精アルコールをそうしていたように。


 唾を飲み下しながら店の分厚いドアを開ける。店主に歯を見せて笑いかけ、カウンターにつこうとしたところで。空き樽のテーブルについた客に、見知った顔を見た。知った顔なら他にも見えたが――名前を知らない者も多いが――先日見たばかりの顔、二人で呑むところなど想像したこともない顔だった。


 王女は値の張るハムのような手で、ジェイナスに酌をしていた。


 白髭しろひげの騎士は杯を受け、何も言わず白葡萄酒を呑み乾す。そして席を立ち、カウンターへ財貨の詰まった袋を置く。店主が代金を取るのを鷹揚おうように見守った後、袋を取ってこちらへ歩んだ。

 表情を変えず、目礼だけをウォレスにして、ジェイナスはドアを開けた。


 何度か瞬いた後、ウォレスは店主に食事を――適当なものと薄荷茶ミントティー、それに野菜の大盛り――を頼む。カウンターを過ぎ、ジェイナスのいた席に座った。抱えた荷物は別の椅子に置く。


 王女は表情を変えずに酒瓶をつかみ、らっぱ呑みに呑み乾した。

 ウォレスは樽の上に肘をつく。

「……たかろうってんじゃないんですがね。ただその、珍しい取り合わせだったもんで。何か話されてたんで?」


 王女は胃の奥から音を立てて息を吐き出し、それから喋った。

「……別に。ただ、びられたよ」

「詫びを?」

 聞き返していた。あの人が他人に詫びねばならないことなど何もない。口の臭さ以外はそれこそ何も。


 酔いの回ってきたらしい目を伏せ、王女はつぶやく。その口調はジェイナスを真似たもののようだったが。彼ならきっと詫びるときも、こんなに小声になりはすまい。

「この拙者、力及ばず心は弱く。姫君をすぐにお救い申し上げることができませなんだ。もっと早くお救い申し上げておれば――」

 そこで口を止め、小さくしゃっくりをする。そのまま横を向いて黙った。


「……申し上げておれば?」

 ウォレスが催促すると、王女はまた小さく喋り出す。

「――魔王め、と、さほどに馴れ合うこともありませなんだでしょうに。……されど、そうはなりませなんだ、拙者では魔王も、後に魔王が召喚せし邪神めも、討つこと叶いませなんだ。どうぞ拙者めをお許しなさいますな――、等々、とな」


 ウォレスは樽の上に目を落としていた。

「そんなことを……」

 ずっと思っていたのだろうか、あの人は。仲間をうしない、迷宮を当てもなくさまよいながら、ずっと。


 それに、王女が魔王と馴れ合った、とは。ジェイナスも、王女が魔王を好いていたと考えているのか。確かに当時、救出が成功する前からそうした噂は――ただの下世話な憶測として――あった。だが、ジェイナスまでそれを信じていたのか――まさか、あり得ない。

だったら今日、ウォレスが来るまでに。そうした話もしていた? となると王女がウォレスに言った以上に、二人は深く話をしていたことになる。


 そこまで考えて思う。しかし――今さらだが――本当に王女は魔王を好いていたのか? たとえ七年もの間、二人きりしか人間が――アミタもいるにはいたか――いなかったとはいえ。その仇を十一年も怨むほど、想うようになるものか? 王女をさらい迷宮にこもってまで反逆した、大悪人を? 


「殿下。魔王と、何があった? いや……魔王は何をしていたんだ、そもそも? こんな地の底で?」

 王女の表情が固まる。が、すぐに頬を緩めていた。

「ほう。妬くかね婿殿、今さらか? 男の方が未練がましいというのは――」

 掃きのけるようにウォレスは言う。

「違う。なんで、魔王はここにいた。喪失迷宮なんぞに、何の用があったんだ」


 失われた龍の宝珠。それはそもそも、魔王が所持していたものだった。そして魔王は――反逆の魔導王、メイデル・アンセマスは――元々宮廷魔導師だった。宝珠が何かは分からないが、いつから魔王が持っていた? 迷宮にこもってから手に入れたか、それとも。宮仕えの頃、すでに持っていた? 

 そして、その頃から持っていたとしたなら。反逆のため迷宮へ降りたのではなく、宝珠を持って迷宮へ行ったから――『龍の宝珠は迷宮で使われる』――反逆とみなされたのではないか? 


 考えるように視線をさ迷わせ、王女は答えた。

「さて。私も、詳しくは知らぬが。何やら研究していたようだ、喪失迷宮について」

「そいつは何を……いや。研究ってのは前からで? つまり、魔王と呼ばれる前から。王宮でもその研究を? 殿下は、その頃の奴を知っておいでで?」

 知っているのではないか、魔王の目的も。あるいは以前から親しかった? だからこそ彼を慕い、もしかすれば自ら迷宮へ降り、人質となった? 


 王女は酒瓶を手にし、空なのに気づいたかまた置いて。それから鼻で笑った。

「どうした、急に熱心になるではないか。……ああ、そうよ。これも詳しくは知らぬが、宮廷でもその研究をしていたそうだ。顔ぐらいは合わせたこともあるが」


 何をしようとしていた、魔王は。龍の宝珠で、この迷宮で。


 聞く前に、眼鏡をかけ直すと王女は席を立った。

「さて。私はそろそろ探索に戻る、うぬは適当にしておるがよい」


 ウォレスは離れていく背を見つめ、再び口を開いた。

「もう一度聞く。魔王は、何をしていた」


 王女は足を止めた。顔だけをウォレスの方へ向ける。

「……護っていたよ。何もかもを」

「……何?」


 王女は再び歩き出した。

「彼はそうした、私もそうする。彼に感謝したがよい。『怨みは忘れよ、護ってやれ。何もかもを、誰もかれもを。そうして貴方も生きてゆけ』――常々、言いつかっていたことだ」

 ドアに取りつけられた鐘が鳴り、王女は店を出ていった。


 ウォレスは鼻で笑っていた。どの口が言うことか、そう思った。

彼女はすでに、魔王の言葉を破っている。


 カウンターの奥にいた店主へ尋ねる。

「金は?」

「ご心配なく、先ほどの紳士がすでにお支払いを」

「なるほど、紳士だ。紳士と言やあ――」

 ウォレスは椅子に置いていた荷物の包みを解いた。魔法薬の瓶、宝石のはめ込まれた短剣、融けたまま固まったような貴金属の塊。探索での戦利品を、重い音を立ててカウンターに置く。

「――俺もなかなか紳士でね、いつかのつけはきれいに払おう。つりは必要ない、が――」

 笑みを消し、店主の目をのぞき込む。

「――聞きたいね、紳士と淑女、何を喋ってた?」


 店主はウォレスの目を見返し、それから微笑んだ。

「奇遇ですな、私も紳士で通ってましてね。男女の語らいを盗み聞くほど、野暮天やぼてんじゃあありませんで」

 カウンター上の物を押し返す。


 覇王樹亭サルーン・カクタスは情報屋ではない、それは重々知っているが。それでも聞いておきたかった、聞く必要があった。王女は何を隠している? 


 表情を変えず考える。五度ほど息をする間があれば、店主を充分絶命させられる。手加減すればその手前まで。いかに店主といえど、喋りたくなるだろう状態まで。

が、そうまですればこの店も終いだ。店主とて居座り続けるわけはない、ウォレスがまともなものを食える場所、樽ごとすようなつもりで麦酒エールを呑める店も終いだ。


 店主は微笑みを消して言う。

「先生。もしも良からぬ考えがおありなら、こちらにも考えがありますな。奥で作らせてるトビウオの塩焼き、かりっかりのクルトンと焼きチーズを散らしたサラダ。とろけそうに味の染みたマッシュルームのシチュー、バジルと燻製した木の実スモークドナッツのパスタ。今すぐ床にぶちまけます」


 奥から漂ってきた魚の焼ける匂いに、不様にも腹が鳴る。床で喪失させられていく料理を想像し、かぶりを振った。

 魔法薬だけを代金に残し、後のものを包み直す。なるほど、海のものは久しぶりだ。乾いたものなら時折は口にしたが。焼いたトビウオなら昔はたまに食べた、好物の部類だ。脂の少ない割にしっかりとした味わい、翼のようなヒレも格好いい――そこをかじったからといって味というほどのものもないが――。地上の味、か。

 肩をすくめ、カウンターについた。




 料理を堪能した後でうっかりと葡萄酒を注文しそうになったとき、店主が口を開いた。

「先生、ところで。西風堂ゼファー・トレードから伝言を預かっております。お仲間の方たちからですな、『明日の夕食時前、地下二十八階。ドラゴン像の前にて待つ』と」


 直に報告に来い、ということか。しかし実際のところ、伝えるほどのことはない。伝言も面倒で、毎日しているわけではなかった。

浅い階はもちろん、地下四百五十一階から始めて地下五百九十六階、そこまでの探索はひとまず済んだ――早いものだ。何しろ他にやることはない。この数日間ではなく、九年間の話だ――。全ての部屋と通路を巡って、それらしき物も、宝珠を奪った者が留まっていた痕跡も見つからなかった。


 地下六百十四階と七百二十一階、アレシアが言い残した場所には行っていない。とはいえ、最下層から地下七百二十一階、そこまでは転移魔法が使えない。探索に出る前、必然的に近くを通る。それでもそこには行かなかった。

下半分の階を総ざらいして、ディオンたちの方も探索を終えたなら、それで他に何もなければ、そのときは行こうと思っている。そしてアレシアがまた現れたなら。そのときこそは、全てを問い詰めよう。呑む約束は――するわけがない。


 とにかく、仕事の終わりまでは酒を断つつもりでいた。いや、少なくとも控えるつもりだ。何にせよ、今日までは断っている。


「しっかし……」

 地下二十八階。行くとするなら、地下五十階より上に出るのは何年ぶりか。そもそも本当に行くのか、言うべきこともなしに? それになぜ呼ばれた? 今までろくに伝言していなかったのを、ディオン辺りが怒っているのか。それとも向こうに何か収穫が? またあるいは、先日別に頼んだことへの返答。

だがいずれにしても、直接会う必要があるものだろうか。


「……やっぱり、怒られるのか?」

 結論が出ないままかぶりを振った。呑みながらじっくり考えてみるか、そう思いかけてまたかぶりを振る。


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