第11話  麦酒(エール)は初めて?


 ――戦闘はほどなく済み、通路へ向けて引き返した。手に入れた短剣には前の剣と同じく、一面に青く刻印があった。


 通路へと戻ると。薄く笑ったアレシアが、掌を上に向けて片手を突き出していた。

「ん」

 そう声を出し、催促するようにまた手を突き出す。


 背後で壁が再び閉じていく気配を感じながら、ウォレスは短剣を掲げてみせた。

「一つ聞く。こういうのを引き抜いて、お前以外に蘇った――」

 言いかけて口を閉じた。何を言ってる、信じてでもいるのか? こいつが、アレシアだと。


「……姿を見せた、奴はいるのか。喪失された人間の、姿をした奴は」

 アレシアは両手を腰に当て、勢いよく鼻息をついた。

「ええそうね、姿を見せた、奴はいるよ。喪失された人間とそっくりそのままでねー。会ったの? どうよ、何かおかしかった?」

 答えずウォレスは言う。

「なあ。何だこの武器は。封印って何だ、なぜ喪失された奴が帰って……くる。だいたいお前は何なんだ」

 アレシアはあからさまに顔をしかめた。

「何なんだ、ってね、その質問が何なんだ、よ。わたしはわたしだし、じゃあ君は何なわけ? アレシアの何を知ってるって? 本名だって知らないくせにねー」

「……何?」

 ウォレスの顔を差すように、アレシアは一つ指を立てた。

「アシェル・アヴァンセン。こっちが本名だよ、だいたい言うわけないじゃん。そこそこのお嬢さまがさー、勝手に迷宮へ遊びに来ちゃって? 初対面のお子さまにさあ?」

 ウォレスの鼻を指で押した。その後、皮脂のついた指をウォレスの服で拭う。


 まあ、そうか。それはそうか、とウォレスは思った。素性を明かしたくない者はあるだろうし、どんな身分だって、冒険に憧れる者ぐらいいるだろう。ウォレスとかつての悪友たちもそうだった、身分の低い方としてだが。


「あ」

 と、不意にアレシアが声を上げた。その顔にはもう笑みも怒った様子もなく、哀しげに足元を見ていた。

「ごめん……時間みたい」

 アレシアの背が縮んだ、ように見えた。違った、沈んでいた。床が、アレシアの足元だけがへこみ、床石が砂利のように細かく分かれ、下へ下へと沈んでいた。


「……あ? おい!」

 ウォレスは手を伸ばしたが、かわすようにアレシアの体が後ろへ引かれる。波のように流れる足元の小石の群れによって。

 さらに押し流され、沈みゆくアレシアの背が壁についた。壁からは音もなく積み石がせり出した。幾つも重なり連なって長く、石造りの触手のように。それがアレシアの首を、腰を、腕を脚を絡め取る。


「待て、おい!」

 ウォレスは跳びかかろうとしたが。その足元も砂のように崩れる。踏み込む力が行き場を失い、つんのめった。その一瞬に、アレシアは壁に飲まれていた。

「次はね、地下五百四十階。西側端の壁、南の方」


 言葉の最後は飲み込まれ、壁の向こうからくぐもって聞こえた。最後にひらめく白い手だけが目の端で見えた。そこから放られた、例の欠片が床に残っていた。

 気がつけば、床も壁も元のとおりだった。叩いても揺るぐ気配すらなかった。

 欠片を拾いながら、アレシアの名を思い返していた。アシェル・アヴァンセン。そして、アレシア・ルクレイス。




「顔が赤いね、ぼく。麦酒エールは初めて?」

 無論初めてだった。他の土地ならともかく、この街は水がいい。生水だって喉を鳴らして飲めた、もちろんタダで。水代わりに呑むという習慣はなかった。


 そのときのウォレスは十六だった、目の前にはアレシアがいた。ウォレスは知っていた、顔の赤らみは麦酒エールのせいだけではない。それは当然、十六のウォレスも知っている。


 おいで。そう言われても、もじもじと目配せし合い、はにかむばかりの悪友六人だった。

 アレシアは長椅子の、自分の隣を叩く。

「いーからおいで。初めてでしょ、迷宮は? 先輩の話、聞いといた方がいーと思うよ。ほら、君」


 言われて、それで言い訳がついて。ウォレスはおずおずと、わずかに距離を開けて先輩の横に座った。他の五人も同じく座る。

 満足げにアレシアは笑い、わざとらしくふんぞり返ってみせた。背もたれに両腕を乗せて、脚を組んで。

「よーこそよーこそ、初心者はじめてくんたち。安心しな、怖いことなんてないんだから。迷宮も、このおねーさんもね。じゃあまずは、自己紹介?」


 ウォレスは名乗り、五人も名乗り、アレシアが最後に名乗った。アレシア・ルクレイス。品のある名前だと思った、今でもそう思う。それでいて気取り過ぎてはいない。その辺の花瓶に生けられていそうな名前だ。


 とりあえず乾杯と、ジョッキを突き合わせてそれぞれにした後。アレシアは椅子から身を乗り出す。六人はさりげなく胸元を見る。

「いろいろ聞きたいけど、そうだね、何でまた迷宮に? 何しに行くの?」

「冒険を」

 五人がはにかんで目を見合すうち、ウォレスだけがそう答えた。


 アレシアは小さく目を見開く。それから、細く口笛を吹いた。

「奇遇だね。わたしもさ」


 どうやら彼女の気に入る答えで、ウォレスは頬に熱を感じたが。その答えに作り事はなかった。街の行商人の息子、ロウソクを作っては籠に入れて提げ、広場から広場路地から路地へと売り歩く日々。食うだけは食えた、施しを受けるような極貧ではなく――というのが母の矜持だった――だが中流には決して数えられない暮らし。田舎から上ってきた父と同じく流れてきた母、他に身寄りも当てもない。


 寄る辺といえば近所の悪友たちとの遊びと、安酒場から漏れ聞こえる話。迷宮上がりの酔いどれたちの、虚実混ざった冒険譚。

闇の中でつるぎきらめき、跳び来る魔物はうなりを上げ。宝は妖しく輝いて、けれどもさてさてご用心、罠は静かに息を潜める。喜劇と悲劇がまだらいろどる、酒精しゅせい混じりの冒険譚。


 差し当たってそれだった、ウォレスにないもので、ウォレスが手を伸ばせそうなものは。どうにもこうにも、股ぐらがむずがゆくなるほど、欲しいと思えるものは。


「ほんとう、奇遇だね」

 もう一度言って、にんまりとアレシアは笑う。

 俺も冒険がしたくてさ、まったくこの街には飽き飽きさ。そんな風に五人も声を上げたが、手遅れで。ウォレスは彼女と目を見合わせていた。同じ顔で、にんまりと。


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