幕間①

妖精の小径

「うーん……」


 キャロルが体を動かそうとすると全身の筋肉が痛んだ。


「イタタタ。あれ……生きてる?」


 塔屋の屋根を踏み外して地面に落下したはずのキャロルだったが、運良く一命をとりとめたようだった。

 痛みに軋む体を動かして周囲の状況を確認すると、誰も路地に横たわるキャロルへ目もくれず行き交っていた。


 ――何かがおかしい……?


 少女はすぐに異変に気がついた。そう、周囲の音が聞こえないのである。

 全く無音の世界を行き交う人々。街角では多くの住人が会話をしているそぶりは見えるものの声が全く聞こえない。

 キャロルはふらふらと立ち上がると改めて周囲の状況を確認する。

 彼女が屋根の庇を踏み抜いた礼拝堂の真下。町の人々や荷馬車が行き交う交差点の真ん中だ。

 だが、やはり何も聞こえない。

 不意に脇道から荷馬車が飛び出してきた。

 音なく近づいたそれにキャロルは慌てて飛び退いたものの間に合わなかった。


 ――轢かれる!


 そう思った瞬間、荷馬車が少女の体をすり抜けて行った。

 状況が飲み込めず呆然と荷馬車を見送るキャロル。

 少女が立ち尽くしている間にも、行き交う住人たちがキャロルの存在に気が付かないまま避けもせずにすり抜けていく。


「わたし、死んじゃったの……? 幽鬼なの?」


 キャロルはよろめくと道路の隅に尻餅をついた。

 舞い上がった埃が彼女のすすけた短衣チュニックを更に色濃くした。


 音の無い世界を見つめていると視界の端に白く光る物が見えた。

 キャロルが見上げるとそれはロアンヌの象徴である大風車であった。

 風を受けて回るその羽根の周りには、白い光の群れがまとわり付いていた。

 僅かに羽根の風切り音も聴こえる。


「なに? あの光……。音も聞こえる……」


 よく目を凝らして町中を見渡すと、いたる所に白い光のモヤのようなものが漂い流れていた。

 ロアンヌの街に現れ人々を狂わすという赤い霧かと思い少女は身構えたが、白い光は自由気ままに空中を漂い、消えては現れ、現れては消えを繰り返す。それらは人々の間をすり抜けながらも漂い続けた。


 ふと風の音が聴こえキャロルが左を向くと、白い光のモヤが突風のように通り過ぎていった。

 ロアンヌの名物、最深部の泉から吹き上げる涼気を運ぶ旋風であった。

 光の風は大きく渦を巻きながら上空へと消えていった。


「風が光って見えるの……?」


 キャロルは立ち上がると油を売る店先の木箱に手をついた。木箱は少女の手をすり抜けることもなく、体重をしっかりと支えてくれた。

 油屋の店先には火を灯した展示用の油壺が並んでいる。

 揺らめく炎は赤い光を纏っていた。その赤い光は先程と同じ白い光と合わさり渦を巻きながら揺れている。

 キャロルは思わず手を伸ばしその光の玉を触ろうとした。


「熱っ……くない?」


 反射的に引っ込めてしまった手を伸ばし、もう一度光の玉を触る。

 キャロルの手のひらの中で光の玉は渦を巻いている。

 少女が油壺から光の玉を引き寄せると、小さな弾けるような音とともに消滅してしまった。

 油壺の火が消えてしまっていることに気がついた店主が火種を火口につけると、また炎が赤と白の光の玉に包まれて揺らめいた。


 一連の動作の中で、店主は直ぐそばに立つキャロルに気がつくことはなかった。


 ――やっぱり、わたしのことが見えていないの?


 そうつぶやき、悲しそうな表情を浮かべるキャロルの後ろから甲高い男児と女児の声が響いた。


「久し振りに人間が迷い込んできたと思ったら、こんなガキかぁ……」

「失礼なことを言わないの。でも何十年振りかしらね? 前回は確か先々代の今世の乙女だったから100年近いかしら……」


 驚いて振り返ると、そこには幼い二人の男女が立ってキャロルのことを、ああでもないこうでもないと言い合っていた。

 キャロルよりもいくつか年下であろうか? いっぱしの冒険者のような服に身を包む似た顔の二人。ロアンヌの街では見かけたことがない子どもたちであった。


 キャロルは思わず二人に駆け寄ると一気にまくし立てた。


「私のことが見えるの? それに声も聞こえる! 何なのこれは?」


声を荒げるキャロルをよそに、少女は年齢に合わない冷静な口調で答える。


「ここは人間界と精霊界の狭間。現し世であって、現し世ではない世界。人の世では妖精の小径と呼ばれている場所よ」

「おいらはターン。こっちは双子の妹のエレだよ。君はこの街の子?」


 エレと紹介した少女の言葉を遮るようにターンと名乗った少年が声を上げる。

 キャロルは塔屋から落ちたこと、気がついたら音が聞こえない世界になっていたこと、誰も自分のことに気が付かず、更には体を通り抜けることを説明すると、二人の兄妹は頷きながら相槌を打ち、口を開いた。


「口の聞き方が出来ていない幼稚な兄でごめんなさい。まず、私達の自己紹介からするわね。私達は妖精の小径に迷い込んできた人間を導く者。精霊界と深界の番人エリアルグレイ様の従者よ」

「ちなみにこの狭間では人の世の時が流れないからね。おいらたちがこの狭間に入って、もう数百年は経っているよ。こんな姿だけど、君よりずーと長生きしているんだ」

「貴女は早くみんなに会いたいと思っているでしょうけど、残念ながら簡単に戻ることは出来ないわ」

「このまま精霊界の一部となるか、精霊の力を借りてこの世界を出るか。二つに一つだよ」

「貴女をこの狭間に引き込んだ精霊がいるはずよ。その精霊を見つけて契りを結ぶことが出来たらこの世界から出られるわ」


目まぐるしく入れ替わりながら会話を続ける双子たち。

その姿にめまいを覚えるとキャロルは思わず石畳の路上へ本日何度目かの尻もちついてしまった。


幕間 了



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