終局 4
王宮の最上階。その隅の方にある屋根裏部屋のような小部屋に、クラリオはいた。
使われることがほとんどないこの小部屋は、ほんのたまに侍女が清掃をしにやってくることを除けば、クラリオ以外に入る者のいない場所だ。クラリオ自身滅多に使うことがないので、清掃も週に一度あるかどうかといった程度である。王宮の清掃だと考えると些か問題がある頻度だが、それで良いと言ったのはクラリオ自身だ。
部屋の中に置かれているのは、床を覆う絨毯と、大量のクッションと、薄い上掛け。それから、小さなランプだけだった。大きな窓があるから、昼は随分明るい部屋なのだが、ちょうど今のような夜には、少し暗すぎるくらいだ。
薄暗い部屋の中で、クッションの山に倒れ込むようにして転がったクラリオは、上掛けに包まって目を閉じた。
最後にここに来たのは、三年ほど前だっただろうか。意外と昔のようにも思えるし、つい最近のようにも思える。
自分で刺した腿の傷がじくりと痛んだ気がして、クラリオは僅かに眉根を寄せた。あの傷は、家臣による回復魔法で完治した筈だ。それでもなお痛むのは、きっと心の問題なのだろう。
重く息を吐いたクラリオが、手近なクッションを引き寄せて抱き締め、背を丸めた。
静かな部屋だ。聞こえる音といったら、クラリオ自身の呼吸と、身じろぐ際に鳴る衣擦れの音だけ。
時折、彼を心配するように風の乙女たちが髪を揺らして来たが、今のクラリオはそれに応えようとは思わなかった。
自分の行いに後悔はない。間違っているとも思わない。あれ以上のことができる人間など、絶対に存在しない。だから、クラリオの選択はこの上なく正しいものであった。それはきっと、神だって否定できない。
だから、これ以上考えるのは無駄だ。ただの時間の浪費でしかない。赤の王のことを考えれば状況は未だに芳しくなく、クラリオにはまだまだすべきことが残っている。早く、飲みこまなければ。上辺だけではなく、きちんと飲みこまなければ。
クラリオの唇が引き結ばれ、耐えるように噛み締められた歯がぎしりと音を立てた。
だがそのとき、ふと吹いた風に、クラリオが瞼を開ける。そして風が吹いてくる方へと顔を向けたクラリオは、色々な感情がないまぜになったような顔で、くしゃりと笑った。
「なんだ、お前かよ」
風霊によって静かに開けられた窓の外には、雷の毛並みを持つ王獣が佇んでいた。
静かに部屋に入って来た獣が、そのままゆっくりとクラリオの傍へと向かって来る。クラリオは、ただ寝転がったままそれを眺めていた。
王獣に指示された風霊が窓を閉めてから、ふわりと溶けるようにして消える。きっと、王獣に出て行けと言われたのだろう。かわいい風の乙女に酷いことしやがる、とクラリオは思った。
クッションに埋もれるクラリオの前まで来た王獣は、じっと彼を見つめたあと、おもむろにその襟首を咥えてクラリオを持ち上げた。
「おいぃ!?」
突然のことに間抜けな声を上げたクラリオを無視してその場に伏せた王獣は、咥えたままの彼の身体を器用に振り回し、自分の身体の側面にぶつけるようにして離した。
見事に顔面から王獣の毛並みに突っ込み、固い毛先が鼻に刺さったらしいクラリオが、ぬおおおお、と悶絶するような声を出したが、王獣は我関せずといった様子だ。
「何すんだてめー!」
大きな声を出したクラリオを、今度は王獣が喚んだ小さな雷が襲う。殺傷力を持たせたものではないが、それでもそこそこ痛覚を刺激するそれに、クラリオは再び悲鳴を上げた。
「いってぇ!」
叫んだクラリオの目に痛みによる反射的な涙が滲み、そのままぽとりと目端から零れた。そしてそれを皮切りに、まるで堰を切ったかのように、後から後から雫が溢れ出す。
ぽたぽたと落ちてくるそれに少しの間だけ呆けたような顔をしていたクラリオは、ぺたりと自分の頬に触れてから、濡れた指先を見つめた。その間にも、溢れる雫は止まることを忘れたように落ち続ける。
「…………あー……」
小さな声が、彼の唇から洩れた。
王獣は顔を前に向けたまま、振り返らない。そんな獣の顔を斜め後ろから見たクラリオは、次いで顔を戻して、固い毛並みに額を押し当てた。馬鹿みたいに落ちる涙が王獣の毛を濡らしたが、知ったことではない。
「………………ちょっと、堪えた」
声が震えてしまったのがどうしようもなく情けなかったが、今更だ。
「ちょっと、じゃない。すげぇ、堪えたな」
ぽつり、ぽつり、と。涙に続いて、言葉までもが溢れて来る。
「何が、って言われると、困るんだけどさ。つーか、多分、全部。魔法、きつかったし、苦しかったし。脚もいてーしさ。なんでここまでしなきゃなんねーんだよ、って。挙句、愛した女殺してさ。死体の処理どうしようとか、普通考えねーって。頭、おかしいんだよ。もう、絶対、壊れてんの」
王獣に触れているクラリオの手が、雷の毛並みを強く掴んだ。
「助けたかった、んだ。信じては、貰えなかったけど、でも、信じて、欲しかった。選んで、あげたかった。全部、選びたかった。全部」
引き攣るような息の音が、言葉の合間に喉を震わせる。
「でも、俺は、王だ」
絶望に嘆く悲鳴のような声が、クラリオの喉から絞り出された。
そうだ。クラリオは王だ。王は決して英雄にはなれない。全てを賭けて全てを選ぶことは、絶対に許されない。王が賭すことを許されるのは、己のみだ。ただのひとつも取りこぼさないために、全てを失うかもしれない賭けには出られない。それができるのは、一切の責任を負わない英雄だけだ。その博打に勝てた者だけが英雄なのだ。ならば、クラリオは何がどうあろうと英雄にはなれない。王であるクラリオは、十のための一を、百のための十を、捨てることしかできない。そしてその一が、十が、今回はたまたま自分の愛する人だった。それだけだ。
「……もう、」
それは、飲みこまれるべき言葉なのだろう。けれど、ここには王獣しかいない。唯一国王と対等である獣しか、いない。
「……っ、もう、……王なんて、嫌だ……!」
震える慟哭が、王獣の耳を叩く。
「っ、なんで俺なんだ!? なんで俺が! 俺ばっかり! 俺じゃなくても良いだろ!? いくらでもいるじゃねぇか! なんで、なんで全部、俺が背負わなくちゃいけねぇんだ! 他人の命の価値を決める責任も! 他人を捨てることの責任も! 全部俺のせいなのかよ!? そんなの今すぐやめてぇよ! 今すぐ逃げてぇよ! 全部ぶん投げて大切な人だけ守りてぇよ! なのになんで、俺が我慢して、なんで……!」
クラリオの身体が、獣に縋るようにしてずるずると頽れた。だが、それでも王獣は動かない。振り向くことさえしない。
「…………おれ、そんなに、つよくない、のに……」
小さく落ちた言葉に、王獣は何も言わない。何も言わず、何もせず、ただ、そこにいる。対等な唯一の存在として。国王が人でいるための、最後の楔として。
クラリオ・アラン・リィンセンがリィンスタット王国の国王に戻るまで、ただ、ずっと、傍にいる。
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