第3話 闇に堕ちる

 俺はさあっと顔を青ざめさせる。

 ルシアと俺は、タオル一枚のほとんど裸みたいな状態で密着していて、しかも今にもキスしようとしていた。


 こんなところをクレハに見られるのは……気まずい。

 クレハは銀色の瞳で俺たちを睨んでいる。


「わたしとソフィアさんには一緒にお風呂に入るのは禁止したのに、殿下だけは特別扱いですか?」


「いや、そういうわけではなくて、これは……」


 俺は言い訳しようとするが、口が動かない。ルシアが勝手に入ってきたのが事実なのだけれど、それをルシアの目の前で言うのはためらわれる。


 第一、俺もルシアを受け入れて、キスをしようとしていたのだから。


「殿下がいいなら、わたしも義兄さんと一緒にお風呂に入ります」


「そういうわけには……」


「なら、いますぐ義兄さんか殿下か、どちらかがお風呂から出てください!」


 突然、ルシアがぎゅっと俺の右腕にしがみつく。柔らかい胸の感触があたり、どきっとする。ルシアは顔を赤くして、クレハを睨み返した。


「クレハさんには関係ないことでしょう?」


「関係あります! だって、わたしは義兄さんの妹で――」


「でも、恋人ではないでしょう?」


 ルシアの切り返しに、クレハは言葉に詰まる。

 そう。クレハは俺の血のつながらない妹であって、恋人ではない。


 でも、クレハは胸に手を当て、小声で言う。


「恋人にだって……なれます。義兄さんが望むなら」


「でも、それを決めるのはクリスです」


 ルシアは静かに言い、そして立ち上がってクレハと対峙した。俺ははらはらしながら、二人を見守った。

 クレハは、苦しそうに言う。


「わたしは五年間も義兄さんと一緒にいたんです。同じ家で暮らしていたんです。わたしのほうがずっと義兄さんのことを知っているんだもの!」


「私もクリスと五年間、宮廷魔導師の仲間として戦ってきました。クリスと一緒に、命をかけて戦ってきたのは私です!」


 クレハとルシアの視線が、まるでばちばちと火花が散るかのように、互いを射抜いている。

 ……ソフィアでもマクダフでもいいから、誰かこの場に来てくれないかな。

 けれど、実際には二人ともここに来るわけがなく、俺がなんとか二人をなだめないといけないのだけれど。


「あのー、二人ともさ……」


 俺がおずおずと声をかけるが、そこでクレハとルシアがこちらを振り向く。

 そして、クレアとルシアは顔を見合わせ、うなずきあう。


「クリスに決めてもらいましょう」


「ど、どういうことですか、殿下?」


「呼び方は『ルシア』でしょう?」


「どういうことですか、ルシア様」


 俺が言い直すと、ルシアは「よろしい」と冗談めかして微笑んだ。そのあどけない表情は可愛くてどきりとする。

 ルシアに見とれていると、クレハがつかつかとこちらにやってきて、俺の腕をとる。


 クレハは頬を膨らませて言う。


「義兄さんが、わたしと殿下のどちらと一緒にお風呂に入るか、決めてほしいということです」


 俺は唖然とした。

 そんなこと決められるわけがない。


 ところが、ルシアはいたずらっぽく目を輝かせて、俺に「決めないっていうのはなしですからね」と宣言した。


「そんなふうに逃げたら、今度はソフィアさんも呼んできてしまいます」


 どうやら、ルシアは、逃げることを許すつもりはないらしい。


 そして、次の瞬間、ルシアは俺の唇に、自分の唇を重ねていた。

 俺は一瞬思考停止し、そのあいだにルシアは俺から離れていた。


「私を選んでくれないと、ダメですよ? さっきの続きです」


 ルシアはそう言って、からかうように、そして嬉しそうに俺を見つめる。

 俺は困った。どちらを選んでも角が立つけれど……あえて選ぶのであれば……。


 俺が口を開きかけたとき、クレハが……傷ついたような表情をしていることに気づいた。

 銀色の目にかすかに涙を浮かべている。


「く、クレハ……ええと?」


「やっぱり、答えなくていいです。きっと義兄さんは、ルシア殿下を選ぶでしょうから。わかってるんです。わたしじゃダメだって……義兄さんがわたしを妹としてしか見てくれていないって知っているんです。でも、どうして……わたしじゃダメなんですか」


 そうつぶやくと、クレハは浴場から走り去ってしまった。「クレハ!」と俺が声をかけても、振り返ることもなく、一目散にいなくなったのだ。


 実は、「妹だから」という理由でクレハと一緒にお風呂に入ると答えるつもりだったのだけど、クレハは勘違いしてこの場からいなくなってしまった。


 俺は額に手を当てた。どうフォローしたものか……。

 ルシアが横から言う。


「クレハさんのこと、大事なんですね。クレハさんと一緒にお風呂に入るって言うつもりだったんでしょう?」


「ど、どうしてわかったんですか?」


「クリスの考えていることは、私にもわかります。ずっと一緒にいたんですから。少し悔しいですけど。クレハさんのこと、追いかけなくていいんですか?」


「……そっとしておいてあげた方がいいと思いまして。それに……」


 クレハが俺に向ける感情は複雑なものだと思う。俺を慕ってくれるのは嬉しいし、俺に恋愛感情を持っているのかもしれないと知ってはいる。

 ただ、それを受け入れていいものかどうかは、また別問題だった。


 クレハは14歳で、俺の義理の妹なのだから。


 今、追いかけても、なんて声をかけていいかわからない。

 ルシアはくすっと笑った。


「なら、もう少し私とイチャイチャしましょうか」


「い、イチャイチャ!?」


「キスとかハグしたりとか……もっとすごいことでもいいんですよ?」


「そういうわけには……」


「私とのキスはもう経験済みのくせに」


 ルシアはいたずらっぽくささやき、そしてふとなにか思いついたような顔をした。

 そして、ルシアが首をかしげる。


「そういえば、クレハさんも悪役令嬢なんですよね」


「そのはずですが、それがどうかしましたか?」


「いえ、もし私がクリスとくっついたら、クレハさんが妨害しに来るのかなあ、なんて思いまして」


 




 クレハ・マーロウにとって、義兄のクリスは特別な存在だった。

 九歳で両親を失い、心を閉ざしていたクレハを救ってくれたのは、クリスだった。

 

 たぶん、はじめて会ったときから、クレハはクリスのことを兄だとは思っていなかった。


(わたしは……義兄さんのことが好きだったんだ)


 異性としてクリスのことを意識しているのを自覚したのは、もう少し後だった。けれど、最初に会った時から、クレハにとってクリスは憧れの存在だった。


 若くして宮廷魔導師の幹部になるぐらい強くて、どんなときも優しくて、そして、クレハの話を聞いてくれる。

 そんな理想の存在がクリスだった。


 クリスを独り占めしたい。

 だけど……。


 屋敷の廊下を歩きながら、クレハは考える。

 いまここにクリスの仲間として集まっている人たちは、みんな優秀だ。ルシアは宮廷魔導師団の元団長だし、ソフィアはアストラル魔法の使い手。マクダフは近衛騎士最強の英雄だ。


(でも、わたしは違う……)


 クレハはただの士官学校生で、クリスの役には立てない。少しぐらい、クリスの助けになるかと思ったけれど、今の所、足を引っ張ってばかりだ。


(そんなわたしが……義兄さんの恋人になるなんて、無理だ)


 しかも、ルシアもソフィアも、どちらも美しい少女だ。 


 美貌で知られた第三王女と、王太子の元婚約者の公爵令嬢。容姿端麗で当然だし、身分だってクレハよりずっと上だった。まだ14歳のクレハは、もう女性らしく成長しているルシアやソフィアと比べても、年齢的にもずっと不利だ。


 自分がクリスの立場でも、クレハではなくルシアかソフィアを選ぶだろう。


 現に、クリスはほぼルシアを選んでいるかもしれない。クリスは……ルシアにキスされていた。


 思い出すだけでも胸が苦しくなる。

 このまま反乱が成功すれば、ルシアが女王になる。そのとき、ルシアはクリスを王配、つまり女王の夫として選ぶに違いない。


(でも、それでも……わたしはクリス義兄さんのそばにいたい。特別な存在になりたい)


 胸が動悸で苦しくなる。。

 おかしい。

 疲れているのかもしれない。


 クレハは部屋に戻ったそのとき、頭のなかに声が響いた。


『あなたの願いを叶えてあげましょうか?』


「え?」


『幻聴ではないのでご安心ください。私は聖女アリアです』


「聖女!?」


 ゆらりと部屋の奥の暖炉の火が揺れる。


 クリスたちの敵。この屋敷の一室で監禁されているはずの少女だ。クレハは緊張する。

 こんなふうに聖女が外部の人間と意思疎通できるなら、すぐにクリスに報告しないといけない。


『私はあなたの味方なんですよ。クレハさん』


「味方?」


『あなたの大好きなクリス義兄さんを独り占めする力を差し上げるのですから』


「誰が……あなたなんかに……」


『理不尽だと思いませんか? 最初からクリスさんの味方をしていたのは、ずっとクレハさんだけだったのに。このまま、ルシア殿下やソフィアさんなんかに、クリスさんを奪われていいんですか?』


「やめて。言わないで……」


『大好きな「クリス義兄さん」が宮廷魔導師団から追放されたとき、嬉しかったでしょう? 二人きりになれると思って。今も、あなたは同じことを考えている』


 そう。反乱なんて失敗してしまえばいい。クレハはこころのなかでそう思っていることに気づき、愕然とした。


(……殿下やソフィアさんなんて見捨てていいから、わたしとクリス義兄さんと、二人きりでどこか遠いところへ行きたい。でも、そんなこと言えるわけがない)


 クリスがそんなことを許すはずがないだろう。それに、クレハの望みはクリスが幸せでいることで、そこにルシアが必要なら、それは……。


 頭がくらくらしてきて、目もチカチカとする。

 どこか遠くから響く声に、クレハの意識は完全に支配されていた。


『嫉妬で胸が張り裂けそうなら、我慢する必要はありません。あなたの欲望のままに動けば、あなたの願いは叶います。それを私は手助けしましょう』


「違う。わたしは……」


 それがクレハの最後の抵抗だった。次の瞬間、クレハの意識は遠のいていく。

 聖女の声が、頭のなかに響く。


『クリス・マーロウにとっての悪役令嬢クレハ。あなたがその役割を果たすべきときが来たんです』


 その翌日。

 聖女アリアは監禁された部屋から脱走した。その手助けをしたのは、クリスの義妹のクレハだった。







<あとがき>

クレハは今後もメインヒロインですので、ご安心くださいっ!


「面白い!」

「続きが気になる!」

「クレハに幸せそうになってほしい!」


と思っていただけましたら、


・☆☆☆(↓にあります)

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