第7話 王女の願い
ルシアは混乱した。
悪役令嬢? 何のことか、さっぱりわからない。
王太子エドワードは、ルシアより三つ年上で、疎遠な間柄だった。彼は笑顔を作りながらも、目は笑っていなかった。
兄の言う悪役令嬢というのが何のことかは知らないけれど、少なくとも、もう一つの罪状はでたらめだ。
「私はクリスたちをわざと見逃したりしていません。恥ずかしながら、力及ばず彼らに負けただけで……」
「だが、僕がクリスを殺そうとしているのを、ルシアは知っていた。けれど、彼をかばおうとしただろう?」
「クリスに処刑命令は出ていないのに、殺そうとした兄上の行為の方に問題があります」
ルシアたちの父である国王は、クリスを信用せず、宮廷から追放した。けれど、殺せとは言っていない。大戦での功績を惜しんだとも、国民的人気の高いクリスを殺害することによる批判を恐れたとも考えられる。
ともかく、王太子がクリスに刺客を差し向けた行為は、国王の意向に反している。
エドワードは、赤い目を鋭く光らせた。
「ルシア、君は何か勘違いしていないか。次の王はこの僕だ。君ではない」
ルシアは心の中で、兄の言葉に失笑した。
第一王女フィリアが生きていれば、間違いなく、次期国王は彼女だった。フィリアの力量は、魔導師としても、政治家としても、他の王子王女を圧倒していたはずだ。
エドワードは愚かでもないし悪人でもないが、どちらかといえば凡庸な人間だった。それは彼自身が一番よくわかっているだろう、とルシアは思っている。
なら、最近のエドワードの行動はどう考えればいいのか。クリスを独断で殺害しようとし、ルシアを反逆罪で逮捕する。以前のエドワードなら考えられないことだ。
ルシアは冷ややかに笑った。
「ああ、兄上。私に王位を奪われるのを恐れているんですね?」
ルシアは、十七歳ながら宮廷魔導師団団長となった。王女という身分が有利に働いたのを差し引いても、実力なしには到達できない地位だ。かつてフィリアがついていた役職でもある。
そんな自分を、ひそかに王位に推す声があることも、ルシアは知っていた。
エドワードはかっと顔を赤くすると、ルシアの頬を殴った。衝撃でルシアは倒れる。血の味が口のなかに広がる。
痛みに耐えながら、ルシアは確信した。エドワードは、次の王の座を失うことを恐れて、ルシアを粛清することにしたのだ。
うかつだった。エドワードにそんな勇気はないと思っていた。クリスほどではないとしても、大戦の功労者ルシアを支持する国民は多くいる。
そんなルシアを排除するには、それなりの覚悟が必要だ。兄にその勇気を与えたのは、誰か?
ルシアはエドワードを見上げた。彼の赤い瞳は、虚ろだった。
「ルシア、誤解するな。これはこの国のために必要なことだ」
エドワードの背後から、ルシアと同じ年頃の少女が現れたのはそのときだった。黒髪黒目の美しい少女だ。
まるで夜風を思わせるような、冷たいが凄絶な美しさを持つ少女だった。純白のドレスに身を包んでいて、媚びるように、エドワードの服の裾をつまんだ。
エドワードが振り返ると、彼女は長い黒髪をかき上げ、静かに言う。
「王太子殿下、あとは私にお任せください」
「ああ。頼むよ、アリア。『完全なるフロース』の生成に、この女は必要だからな」
アリア、というのは聖女の名前だったはずだ。ルシアは思い出す。エドワードが思いを寄せる相手であり、平民でありながら教会から聖女として認められた。
エドワードを操っているのは、このアリアだ、ルシアは直感した。けれど、『完全なるフロース』とはなんだろう?
アリアは身をかがめ、にっこりと微笑んだ。その黒い瞳は深く、吸い込まれるようで、恐ろしかった。
エドワードを相手にしたときと違い、ルシアは恐怖を感じた。
「ルシア殿下。宮廷魔導師団団長の地位は、このアリアが引き継ぎます。その上で、あなたは聖女である私の管理下に置かれます。つまり、悪役令嬢……魔女であるあなたを、牢に閉じ込めます」
アリアは淡々と決定事項を読み上げるように言った。
「拷問でもするつもり?」
「いいえ。殿下は、他の悪役令嬢と同様、ある儀式の材料として使わせていただきます。それは国王陛下の、王太子殿下の真の願いを叶えるために必要なことなのです。大丈夫、死にはしません。死にたくなるような目には合うかもしれませんが」
「それは……」
「まあ、魔法は二度と使えなくなるでしょうね。心配しなくても、あなたはこれから一生を王宮の地下牢で過ごすことになります。魔法が使えなくなっても、言葉が話せなくなっても、何も心配はいりませんよ」
背筋が寒くなるのを、ルシアは感じた。このアリアはとてつもなく邪悪なことを企んでいる。
こんなとき、クリスがいてくれたら、きっと助けてくれるのに。でも、クリスはもういない。
それでも、ルシアは祈り、願う他なかった。
(クリス……私を助けて……)
もし。
もう一度クリスに会えるなら。王女の身分も、宮廷魔導師団団長の地位も捨ててもいい。
今度こそ、クリスに自分の素直な気持ちを打ち明けよう。
そんな機会は、もう二度とないかもしれないけれど。
ルシアはぎゅっと目をつぶり、あふれそうになる涙を抑えようとした。
☆
俺はほっと息をついた。
俺、クレハ、ソフィアの三人は、帝都カレンを逃げ出し、王国北部の小さな田舎町キルシウムの宿に泊まっていた。
アルストロメリア共和国とは反対方向になるが、帝都に留まることができない以上、いったん安全そうな地帯まで行くしかない。
そう考えて、マグノリア王国とベルガモット王国の国境沿いまで来たのだ。
宿では、俺とクレハの二人部屋と、ソフィアの一人部屋を借りている。もちろん、クリスという名前は出さず、偽名を使った。
先行きは不透明だけれど、ともかく、今日はゆっくりと寝ることにしよう。
その前に、俺は一つ楽しみにしていることがあった。
キルシウムは、温泉で有名な街なのだ。
「ああ、良い湯だ……」
俺はそんなことをつぶやいて、大浴場の湯を満喫する。質の高い硫黄泉は、独特の匂いがするが、とても心地よかった。
宿には、他の客はいない。つまり、貸し切り状態だ。
俺以外に、誰も人は入ってこない。
しかし、その認識は間違っていた。
「クリス義兄さん……いますか?」
「へ?」
振り返ると、そこには小柄な少女がいた。
クレハだ。クレハは白い布一枚に身を包んで、そこに立っている。膝上から胸元まで一応覆えているけれど、きわどい感じだ。頬も体も真っ赤にして、クレハは俺を見つめる。
「その……お背中をお流ししようかと思って……」
「いや、それはまずいんじゃあ……」
「だって、最近、クリス義兄さんと二人の時間がありませんでしたし……」
そう言って、クレハは恥ずかしそうに、湯船につかった。
<あとがき>
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