第29話 天竜川の対決
勝蔵は甲州という「国を売って」再び東海道へ戻ってきた。
ちょうどその頃、東海道の生麦で「生麦事件」が発生した。薩摩藩の行列に近づき過ぎたイギリス人数名が薩摩藩士から斬りつけられ、三名が死傷した事件である。
この事件によって横浜や保土ヶ谷では一時、
「すわ、日英間で戦争勃発か?」
という程の緊張状態となった。
その日の晩、東海道の保土ヶ谷宿に泊まった薩摩藩一行は、翌日から京都へ向かって東海道を疾走していった。イギリス軍からの攻撃を避けるために急いで西へ向かったのである。
その薩摩藩の東海道における「行軍」を勝蔵は三河の地で目撃した。薩摩藩士たちは殺伐とした雰囲気を漂わせながら忙しく通り過ぎていった。勝蔵が生麦事件などという外交問題のことを関知しているはずもなく、ただ彼らの様子を見るにつけて、
(どうやら武士の世界でも、あわただしい世の中になりつつあるようだぜ)
と、なんとなく感じ取った。
確かにこれ以降、武士の世界、とりわけ幕府にとっては内政外交ともに多事多難がつづくことになる。
ただし社会の最底辺にいる、というより社会の
この時代、庶民は一切政治に関与していないのだから元より政治をどうこうする、といった発想自体ない。ましてや無宿人で博徒の勝蔵にはそんなことを考える資格も能力もない。
が、勝蔵自身が幕府の目明しによって追われている「お尋ね者」であることを考えれば、その幕府の多事多難の一部は勝蔵のせい、とも言えるかもしれない。
このころ勝蔵たちは東海道を東へ西へ、文字通り「旅がらす」のように渡り歩いている。各地の親分の世話になりながら、時には敵対的な博徒に対して賭場荒らしを仕かけるなどして金稼ぎに明け暮れている。
所詮は博徒の渡世だ。黒駒一家を再興するためには少しぐらい荒っぽい手段を使ってもやむを得ない。こうでもしないと、いつまで経っても甲州へ帰れない。この一心で勝蔵は、子分たちと走り回っている。
この年の年末、尾張にいる時に子分たちが「せっかくだから来年の初詣はお伊勢様へ行きましょう」というので、伊勢古市の丹波屋伝兵衛に年末年始のあいさつをするのも兼ねて伊勢神宮で初詣をするのも悪くないな、と勝蔵は考え、皆を連れて伊勢へ向かった。
明けて文久三年(1863年)。
伊勢神宮で初詣を済ませると帰り道で大岩が勝蔵に言った。
「親分。これで今年はきっと良い年になりますぜ。多分、近いうちに甲州へ帰れるんじゃねえかな。黒駒一家の復活も、そう遠くないでしょう」
「ハッハッハ。お前って奴はまったく気楽なもんだなあ。ホント長生きするぜ」
そのあとしばらくは三河、遠州の賭場を渡り歩いていたところ、二月下旬に今度は将軍上洛の軍勢が江戸から東海道を下ってきた。二十三日に掛川、翌日は浜松、次の日は吉田(豊橋)、その次の日が岡崎といった具合の「行軍」だ。
将軍が上洛するのは230年ぶりの事という。
幕府の
(いやはや、やっぱり武士の世界はエライことになっているようだなあ)
という感を強くした。
将軍
とうとう尊王攘夷の時代が来たのだ。
いまや幕府も尊王攘夷の勢いに逆らうことができなくなり、将軍が京都に引っ張り出されてしまったのだった。
ちなみにこの将軍上洛に合わせて、将軍より少し前に清河八郎の浪士組が中山道を通って京都へ向かっている。この浪士組には近藤勇や土方歳三なども一員として加わっており、これがのちの新選組の母体となるのは周知の事であろう。が、実は勝蔵にとっても、この浪士組結成は非常に重要な影響をおよぼすことになる。勝蔵がその事実を知るのはもう少し後のことだ。
それから勝蔵は親友の雲風亀吉のところへ行った。亀吉は勝蔵がしょっちゅう世話になっている三河平井の親分だ。
「最近どうも、黒駒の兄弟のことで変な噂が流れている」
と亀吉が勝蔵に語った。
「変な噂だと?どんな噂だ」
「東海道の親分たちが黒駒の兄弟を捕まえようとしているらしい。名前をあげれば大和田の友蔵親分、清水の次郎長、それに信州の滝蔵も加わっている、って話だ」
「なるほど。どいつもこいつも二足の草鞋の連中だな。しかしなぜ、俺を狙うんだ?」
「実はそれと一緒に、黒駒の兄弟の悪い噂も流れている。いろんなところで
「バカな!俺たちはヤクザだが、そこまで人でなしじゃねえ!まさか平井の兄弟はそんなデタラメを信じちゃいねえだろう?」
「見損なうなよ、兄弟。そんな噂を信じるぐらいなら、最初から兄弟にウチの敷居はまたがせねえ」
「疑ってすまねえ、兄弟……。それにしても、一体誰がそんなデタラメを流しやがったんだ!?」
「さあな。ただ、思い当たるとすれば、次郎長には懇意にしている講談師がいて、奴はその講談師を使って宣伝するのが得意だ。案外、兄弟の悪い噂も、そんなところが出所なんじゃねえのかな。いや、これはただの俺の想像だけどな」
「次郎長か……。大体、あの野郎こそ、久六や吉兵衛を殺してお上に追われていたくせに、ちゃっかりと目明しになりやがって、まったく要領の良い野郎だ。そんな奴が俺を捕まえようとするなんざ、ちゃんちゃらおかしな話だ」
「それとおそらく、江戸の公方様が東海道をお通りになるから、そのせいもあるんじゃねえかな。公方様が江戸へお戻りになる前に、東海道で派手に動いている博徒を一掃しておきたいんだろうよ、お上は」
それはその通りだろう、と勝蔵は思った。
確かに勝蔵はこのところ、各地の賭場で荒稼ぎをしていたため「悪い評判」を高めていた。東海道の博徒たちからすると、よそ(甲州)からやって来て東海道で荒稼ぎする勝蔵は、まさに目の
東海道から勝蔵を追い出す、という一点においては幕府と博徒の意向が見事に一致したのだ。
甲州の役人に追われて「国を売って」出て来たのに、東海道でもお上に追われることになるとは。勝蔵としては天地に身の置きどころがなくなる心地だった。
などと、しょげ返るほど勝蔵はヤワではない。
いっそのこと、これを機に各地に散っている子分たちを呼び集めよう。
それで、この東海道で黒駒一家を再興させよう。
と勝蔵は考えた。そして各地に散っている子分たちに「遠州浜松に集合せよ」と檄を飛ばした。
そして子分たちが集まる前に、今いる戦力で敵の出鼻をくじいておくことにした。
戦さは先手必勝。勝蔵は大岩・小岩、綱五郎、猪之吉など七人の子分を率いて藤枝へ向かった。
藤枝には大和田の友蔵の子分で良助という男が一家を構えている。
勝蔵は良助の家へ乗り込んで宣戦布告した。
「お前の親分の友蔵は、お上の言いなりになって俺を捕まえようとしているらしいな。上等じゃねえか。親分に会ったら言っておけ。黒駒の勝蔵は男だ。貴様らごときに捕まるほど腰抜けじゃねえ。全員、返り討ちにしてやる。首を洗って待っていろ、とな」
そう言い終わると勝蔵は腰の長脇差を抜いた。
「待てっ、早まるなっ、俺を殺しちゃ何にもならねえぞ!」
と良助が叫ぶのを無視して、勝蔵は良助に刀を振り下ろした。
良助はぶっ倒れた。
が、峰打ちだった。それでしばらくすると良助は気を取り戻し、急いで大和田(現在の磐田市の南の辺り)へ行って友蔵にその旨を伝えた。
大和田の友蔵は遠州
そのあと勝蔵は宣戦布告のとおり、子分たちと共に大和田の友蔵の屋敷を襲撃した。五月十日の夜のことである。
(※余談ながら、この五月十日は幕府が朝廷に約束した「攘夷実行」の期日で、この日を境にいろんな事件が集中している。前日(九日)には生麦事件で紛糾したイギリスとの外交問題が決着(賠償金を支払うことが決定)し、翌日(十一日)には長州藩が下関で外国船に対して砲撃を開始し、更に翌日(十二日)には長州藩の伊藤俊輔(博文)たち『長州ファイブ』が横浜から出発してイギリスへ向かっている)
勝蔵たちは表玄関から突然ドカドカと室内へ乱入して、
「友蔵を出せ!」
と叫んだ。が、どうやら座敷の様子からして友蔵は不在のようだった。それからすぐに友蔵の子分たちがわらわらと現れて二十人ぐらいになった。
もし今ここで友蔵の首を取れるのなら一戦交えても構わないのだが、こんな子分たちを何人斬ったところで意味はない。
仕方なく「どけっ!どけっ!」と長脇差を振り回して敵をかきわけながら退却した。友蔵の子分たちは勝蔵の勢いにおされて手を出せなかった。勝蔵たちは友蔵屋敷から脱出すると、そのまま集合場所の浜松へ向かった。
浜松の国領屋という知り合いの店を集合場所にしていたので勝蔵たちがそこへ行ってみると、八十人の手勢が集まっていた。
そのうち前から黒駒一家にいたのは五十人ぐらいで、それ以外はこれを機に黒駒一家に入りたいといって集まってきた男たちだった。ただし戸倉で留守番している玉五郎たちはそのまま留守番をする必要があったので(祐天、三蔵、犬上の動静を調べる必要があったので)呼ばなかった。
(よくぞ、これだけ集まってくれた)
正直、勝蔵はそう思った。
と同時に、彼らのためにも、これから黒駒一家をしっかりと立て直していかねばならぬ、と決意した。
軍資金はこれまで稼いだ金と、あとは次郎長と敵対している大場の久八や赤鬼金平から支援金が送られてきたので、それでなんとか
そしてこのとき集まった子分の一人で玉蔵という古株の男が、次郎長に関する情報を持ってきた。
「実は俺たちが府中(駿府)からこちらへ向かっている途中、袋井でたまたま清水へ向かう友蔵の使者と出会ったんです」
「ほう。そりゃまた珍しいことがあるもんだな。で、どんな奴だったんだ?」
「それがまた、そそっかしい野郎で、俺たちのことを友蔵を助けに行く次郎長一行と勘違いしたらしく、次郎長へ届ける予定だった書状を見せてくれました」
「へっ、おっちょこちょいな野郎だぜ。それで、そいつをどうした?」
「へい。書状はそのまま取り上げて、そのあとそいつを、まあ斬り捨てても良かったんですが斬るまでもないと思って、身ぐるみ
といって懐から書状を差し出した。勝蔵はそれを受け取って読んでみた。
そこには、黒駒の連中が子分をおおぜい集めて攻めて来そうだから至急援軍を頼む、と書いてあった。
(やはり、この戦いには次郎長も出て来るようだな。望むところだ。どうせ友蔵はあらためて次郎長へ援軍依頼の使者を送るだろう。次郎長と友蔵、二人まとめて地獄へ送ってやる)
実際、友蔵はこの失敗を知って驚愕し、あらためて一番足の速い子分を使者に立てて次郎長のところへ送った。
使者から話を聞くと次郎長はニヤリと笑って言い放った。
「勝蔵め。とうとう尻尾を出しやがったか。必ず捕まえてあの世行きにしてやる」
それからすぐに大政、小政、相撲常、仙右衛門ら子分に命じて清水を出発。見附へ向かった。その数およそ五十人。友蔵の手勢百人と合わせて友蔵・次郎長連合は百五十人となった。
そして五月十六日の夜、両者の手勢が天竜川を挟んで対峙した。
川の西側に勝蔵の手勢八十人が陣取り、川の東側に友蔵・次郎長連合の百五十人が陣取った。
両陣営とも
甲州の金川の河原と違って、天竜川は川幅が広く水深も深いので歩いて渡ることはできない。それで両陣営とも渡河するための渡し船を用意している。
まず最初に野次を飛ばし合うのはこういったケンカにおいてはお約束のようなものだが、夜間では相手の顔もよく見えず、お互いそれほど声高に叫んではいない。
「親分。敵さんはなかなかこちらへ渡ってきませんね」
と大岩が勝蔵に言った。
「うーむ。やつら、人数は多いくせに意気地のねえ野郎ばかりそろっているんだろうぜ」
「じゃあ、いっちょうこちらから川を渡って攻めていきますか?」
「そうだなあ。いつまでもこうやって見合っていたんじゃ
そう言って勝蔵は渡し船で対岸へ渡る準備をしようとした。
そこへ偵察に出ていた猪之吉があわてた様子で戻って来た。
「た、大変だ、親分!敵はすでに上流のほうで川を渡って、こちらへ向かっている!」
そうか。それでやつらの野次が少なかったのか。いま対岸にいる連中はおとりで、本隊はすでにこちらへ渡河していたという訳か。
よし、これで戦さができるぞ。と、勝蔵は喜んだ。
「何を泡食ってんだ、猪之吉。敵がわざわざこちらへ来てくれたんなら、迎え撃つ良い機会じゃねえか。これからさっそく迎え撃つ準備をするぞ」
「いや、ダメなんだ親分。奴らは先頭に代官所の紋が入った提灯を掲げている。あの軍勢の中には役人がかなり混ざっている」
「何だと?!」
博徒同士のケンカに役人が出張ってくるとは尋常じゃない。
いや。奴らは最初からケンカをするつもりなどなかったのだ。俺を捕まえるために、ケンカをするフリをしただけだったのだ。
「おい、猪之吉。次郎長はその軍勢の中にいたか?」
「先陣切って、代官所の提灯を持っていたのが次郎長だった!」
くそったれ!
いっそこのまま、役人と次郎長相手に一戦交えるか?!
次郎長さえ討ち取ることができれば、あとはどうにか脱出して……。
隣りにいる大岩には、勝蔵がこのように考えていることなど手に取るように分かる。それで大岩が勝蔵に進言した。
「いや。親分。早まっちゃダメだ。役人相手じゃ分が悪すぎる。せっかく集まった子分たちがむごい目に遭いますぜ。ここは一旦、出直すしかない」
「……分かったよ、大岩。そうしよう……」
自分一人ならともかく、子分たちを巻き添えにはできない。
勝蔵は涙をのんで退却命令を出し、子分たちを率いて一目散に西へ逃げた。
そして浜松、浜名湖を越え、三河へ逃げ込んだ。落ち着き先といえば、やはり平井の亀吉のところしかない。
またもや「大山鳴動して鼠一匹」という結果となった。
勝蔵がせっかく呼び集めた子分たちには、再びそれまで潜伏していた土地へ戻るよう言った。
今のように放浪中の勝蔵がこれだけの人数を食わせていくことはできないのだ。それと、今回新しく勝蔵の子分となるために集まった男たちには、なおさら雇うのは無理なので心ばかりの手間賃を与えて引き取らせた。
これらの出費によって勝蔵がここ一年ほど稼いできた金は完全に消えて無くなった。また一からやり直しである。
一方、次郎長は、勝蔵たちが裏をかいて東へ逃げた可能性もあると見て、掛川へ足をのばしてみた。しかし当然ながら、そんなところに勝蔵がいるわけがなかった。
このとき次郎長は百人を超える博徒たちを率いて掛川の町中を探索した。
それで、その不審な様子を見とがめた掛川藩の下役人が十人ほど次郎長のところへやって来て「一体お前たちはここで何をやっているのだ?」と尋問した。
これに対して次郎長は一喝した。
「お前たち、この俺を誰だと思っている!恐れ多くも中泉代官様の命を奉じて、大悪党の黒駒勝蔵を捕まえに来ているのだぞ!」
次郎長の迫力と幕府の威光に恐れをなした掛川藩の下役人たちは、ひたすら頭を下げて次郎長に謝った。
ついこの前まで幕府の目明しに追われていた前科者が、この変わりようである。
さらに言うと次郎長は十七年前、三河の
中泉代官によって罰せられた前科者の次郎長が、今や逆に中泉代官の威光をかさに掛川藩の下役人を叱りとばしている。
世も末というべきだろう。
幕末。すなわち「幕府も末」というにふさわしい光景である。
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