第9話 黒船来航と新島事件(一)

 千葉定吉の道場に坂本龍馬という男がやって来た。嘉永六年(1853年)四月のことである。


 その男の異貌はなかなか目を見張るものがあった。

 背は高く、髪の毛はちぢれている。歳は二十歳ぐらいの青年だ。細い目をした不愛想な表情は、ちょっと雰囲気的にとらえどころがない。そして羽織も袴もひどく汚れている。

 率直に言って、不潔でむさくるしい野郎だ。

 が、それだけで見切ってしまうことができない、何か不敵な気配を感じさせる男である。

 勝蔵にはそんな風に見えた。


 龍馬が千葉親子や塾生たちの前であいさつを述べ終わると、すぐに重太郎が龍馬に尋ねた。

「坂本君。これからさっそく稽古に加わってもらうが、よろしいか?」

「もとより、望むところです」

「それではまず、君の腕前を見せてもらおう。ただちに防具を付けなさい」

 そう言われると龍馬はおもむろに立ち上がり、試合の準備をするため防具を装着しはじめた。

「それではこちらは……、鈴木君。君が相手をつとめたまえ」

 と言って重太郎は塾生の鈴木という男を指名して呼び出した。


 道場の中央で龍馬と鈴木が向き合った。二人とも防具を付け、竹刀を握っている。

「三本勝負、はじめ!」

 と審判をつとめる重太郎が宣言すると、二人は竹刀を中段に構え、すぐに立ち合いが始まった。

 その周囲では定吉、佐那、それに塾生たちが試合を見守っている。むろん、その中には勝蔵もいる。

 鈴木は勝蔵と同じく道場では比較的若いほうだが、堅実な使い手として中堅級の腕前を持っている。体格は普通で、龍馬よりはやや小さい。

 両者とも「ヤアッ!」「ヤアッ!」と気合いを飛ばしあった後、素早い動きと手数が武器の鈴木が果敢に連続攻撃を試みた。

 龍馬はそれらの打ち込みを払いのけるようにして防ぎ、少しずつ後退する。そしてややお互いの間合いがひらき、鈴木がさらに攻撃をしかけようと前へ出た矢先、龍馬の鋭い片手突きが見事に鈴木の喉へ決まった。

 この出会い頭ぎみに入った突きで喉を傷めた鈴木は、二本目は防戦一方となり、龍馬の力強い攻めを防ぎきれず、最後には面を打たれて敗れた。


「なかなかやるな、坂本君。では、もう一番だけ立ち合ってもらおう。次、小池君!」

 と言って重太郎は勝蔵を指名した。

 勝蔵は、次に指名されることが薄々わかっていたので驚くことなく「おうっ!」と応えて前へ進み出た。

 鈴木と勝蔵は初めて対戦する相手の力量を探るにはうってつけなので、重太郎はこの二人をよく「初物」に当たらせるのだ。

 技巧派の鈴木と、荒っぽい勝蔵の二人とやらせれば、その剣士の実力はだいたい分かるのである。


 龍馬は、自分よりも大きな勝蔵を見て、いくぶん目を丸くしているようであった。

 一方、勝蔵は、

(今の試合を見た感じでは、この坂本とかいう男の剣術は、どうも俺と似ている気がする……)

 と感じていた。


 それから二人は道場の真ん中で向き合って一礼し、すぐに試合が始まった。

 が、案の定、似た者同士の荒っぽさで、似ているがゆえに嚙み合わず、ギクシャクとした試合となった。

 打ち合いがつづくということがなく、数合打ち合うとすぐにつばぜり合いとなり、間合いが離れたと思ったらお互い相手の様子を見て手数が減る、という具合だ。

(こんな大柄同士で立ち合うのは珍しい。それで、二人とも慎重に相手の出方をうかがっているのだろう)

 と周囲の人間が思っているのもつかの間、すぐに試合は動き出し、一本目は今回も龍馬が得意の片手突きを決めて一本を取った。やはり勝蔵が前に出ようとしたところを出会い頭で決めたかたちだった。

 しかし勝蔵はそれで喉を傷めたり、気落ちすることはなかった。逆にもっと強気に前へ出て、龍馬の突きをさらに誘った。

 そこへ勝蔵が狙った通り、ふたたび突きが来た。それを首の皮ぎりぎりでかわすと同時に、お返しとばかりに龍馬へ片手突きをぶち込んだ。これにはさすがに龍馬も顔をしかめ、多少喉を傷めたようであった。

 三本目は乱戦となり、激しく打ち合ったがお互い決め手を欠いた。そして、つばぜり合いになりそうなところで勝蔵が得意のぶちかましで龍馬を体ごと吹っ飛ばすと、龍馬の巨体が道場の端まで転がっていった。

 別にこれは反則ではない。体当たりは相手のたいを崩すための正当な手段なのだ。けれども巨体の龍馬としては、自分がこんなに吹っ飛ばされたのは初めてだったであろう。龍馬はフラフラになりながらも、なんとか立ち上がった。

 が、大事を取って重太郎が試合を止めた。

 今日が稽古の初日で、しかも龍馬の腕前を見るための試合なのだから無理をする必要はない。龍馬の腕前も大体これでわかった。

 と判断して重太郎が止めたのだ。


 勝蔵も龍馬の腕前が大体わかった。

(やはり、この坂本という男の剣術は俺と似ている。技巧派とやるのが不得手な俺からすれば、それほどやりにくい相手ではない。多分こいつにとって俺は、よほどやりにくい相手と思ったろうな)

 そう思いながら勝蔵は龍馬に、試合後のあいさつも兼ねて話しかけた。

「お主、ケガはなかったか?」

「ああ。ちっくと痛かったがのう。おまん、剣術よりも相撲をやったほうが良いぜよ。えーと……、お名前は何と申されたかの?」

「甲州黒駒の産。小池勝蔵と申す」

「ワシは土佐の坂本龍馬じゃ。歳は十九。龍馬は龍に馬と書く。あんたの出身地に駒とあるのは奇遇じゃのう。これも何かの縁かも知れん」

(こやつ。見かけによらず、口の達者な男かも知れん……)

 と勝蔵は思った。龍馬はつづけて言った。

「ところで一つ尋ねるが、なぜ、あそこに女子おなごが座っちょるんかのう?剣術道場にはまっこと不似合いな、ええ娘じゃ」

「ああ。あの娘さんは定吉先生のご息女で、お佐那殿と申される」

「ほお~、先生のお身内にあのようなきれいで凛々しい娘御がおられるとは思わなんだ。これで、ここへ通うのに、まっこと張り合いができたというもんじゃ」

(こやつ。見かけによらず、女好きな男かも知れん……。土佐人と話したのは初めてだが、土佐人とは皆、このような男ばかりなのだろうか?)

 と勝蔵は勝手に思い込んでしまったが、ともかくも、この試合を縁として勝蔵は龍馬と、このあとも時々一緒に行動するようになったのだった。




 そして、それから二ヶ月後のこと。

 六月三日の午後、ペリーの黒船四隻が浦賀に姿を現した。

 いわゆる「黒船来航」である。

 これ以降、この嘉永六年、すなわち干支えとでいう「癸丑きちゅう」の年を一つの転機としてとらえ、人々は「黒船来航」を指して「癸丑きちゅう以来」と言いつのるようになる。言うまでもなく、この事件が「幕末」の出発点となるのである。

 とはいえ「黒船来航」なんぞは、このペリー以外でもここ数年、何度かあったことであり、現代の我々がイメージさせられている「すべての日本人が腰が抜けたように驚いた」などといった狂騒劇がこのとき展開されたわけではない。また幕府も、事前にオランダからアメリカ艦隊の来日計画について情報を知らされていた。


 たまたまこの頃、勝蔵は江戸に滞在中であった。

 今回はやや長めに江戸で剣術修行をしており、龍馬と出会う少し前ぐらいに出府し、千葉道場に隣接する塾生用の宿舎でずっと寝泊まりしていた。

 この日の夜遅く、その勝蔵の部屋へ、築地の土佐藩邸から龍馬がやって来た。勝蔵はそろそろ寝入ろうかと思っていた時分であった。

「こんな夜分に何用だ?龍馬」

「これから浦賀へ行かんかえ?勝蔵さん」

「お主はまた、出しぬけに訳のわからん事を。なにゆえこんな夜分に、わざわざ浦賀くんだりまで行かねばならんのだ?」

「知らんがか?浦賀にアメリカの黒船が来ちょるという話を」

「知らん」

 と勝蔵はぶっきらぼうに答えた。そこで龍馬は、知り合いから入手した黒船来航の話を勝蔵に説明した。

 けれども、それを聞いても勝蔵は、別にそれほど黒船来航に興味を持たなかった。

 なにしろ勝蔵は甲州人なのだ。海にほとんど関心がない。浦賀へ黒船がやって来たからといって、別に甲州には縁のない話である。

 龍馬は、勝蔵の無関心な態度に腹立たしく思った。

 龍馬が愛国者だから勝蔵の無関心さに腹を立てた、という訳ではない。龍馬は勝蔵とは正反対に、海と船が大好きなのだ。

 外国の蒸気船が艦隊でやって来るなんて有史以来はじめての事ではないか!?

 なぜ、これほど珍しい大事件に無関心でいられるのか!?

 と、現代で言えば、サッカーや野球が大好きな人間が、それに興味のない人間にワールドカップの素晴らしさを熱く語るように「これを見ておかないと絶対に損だ!」と、くどくどしく説明した。

「そんなに面白いものが見られるのか?」

「それは絶対にワシがうけおう」

「なぜ俺を誘う?他に見に行きたがる奴はいくらでもいるだろう?」

「何を水臭い。ワシと勝蔵さんの仲じゃないか。それにおまさんは、いざというとき頼りになる。黒船を見に行くゆうのは、夷狄いてきを見に行くゆう事で、いくさ場での敵情視察と変わりない。まっこと危険な行為じゃ。何を隠そうワシら土佐藩士は、実は黒船のために品川で海岸警備をやることになっとるんじゃが、敵情視察という理由で見に行くんなら後で言い訳にもなるきに」

「危険で面白い?」

 それなら行こう。ということで勝蔵は同行することにした。


 このすぐ近くに船宿で有名な日本橋小舟町があり、二人はそこで船に乗り込んだ。この船で神奈川宿まで行き、そこから浦賀まではおよそ八里(約32キロ)。二人は三浦半島の山中を早足で進んだ。この二人はなかなかの健脚を持っているので翌朝、陽がのぼりはじめた頃には浦賀の海岸にたどり着いた。


 浦賀沖の、日本側の大砲が届かない程度の距離に四隻の黒船が浮かんでいる。

 大きな二隻は外輪式の蒸気船で煙突から煙をはいている。他の二隻は帆船で、それほど大きくはないが、それでも和船の千石船と比べれば倍以上大きい。

 海岸沿いには諸藩の兵士がいくらか警備に就きはじめているものの、まだそれほど集まってはいなかった。そして龍馬同様、この事件の噂を聞きつけた物好きな好事家こうずかとおぼしき人々が数人、高台から黒船を眺めている。


「たまるかぁ~。ええのう。ごっつい船じゃのう」

 と龍馬は高台から、初めて見る黒船を見つめながら興奮している。

 しかしその隣りで勝蔵は、やや冷めた表情で漫然と黒船を眺めている。

(思っていたほど、面白いものじゃなかったな……)

 というのが勝蔵の率直な感想であった。

 甲州人なので、そもそも普段から「船」というものをあまり意識したことがなく、黒船の凄さがよく分からないのだ。先ほどのサッカーや野球に例えれば、それに興味のない人間がスタープレーヤーのスーパープレーを見せられても、その凄さが分からないのと同じである。

 その勝蔵の胡乱うろんな表情を見て、龍馬がやや不服ぎみに問いかけた。

「勝蔵さんは、あれを見ても何とも思わんがか?」

「どこをどう、驚くなり感心するなりすればいいのか、よく分からん」

「あの船の側面にある大砲の数を見れば、あれがどれほどごっつい船か分かるじゃろう?」

「いや。あれがそれほど大した代物なら、こっちも同じ物を作れば良いじゃないか」

「そがいに簡単には作れんから、こうしてたまげとるんじゃ!」

「そうなのか?じゃあいっそのこと、あれを分捕ってしまえば良いんじゃないか?」

「それも……、それが出来れば苦労はせんのじゃ。あの四隻が積んでいる強力な大砲は、それだけで幕府のお歴々をおどせるがぜよ。これから江戸は、あのたった四隻のために大騒動になるはずじゃ。どうだ?勝蔵さん。これだけでもえらい事じゃないか?」

「そうかなあ……?大砲の弾には限りがあるだろうし、第一、我が甲州まで届くはずがない」

「そりゃまあ、さすがに甲州までは届かんわなあ。勝蔵さんはまっこと、甲州のことしか頭にないんじゃのう」

「しかし話を聞いていると、あの外国人はずいぶん生意気な連中のようだが、奴らが上陸してきたら……、いや、むしろこちらから小舟で乗りつけて、全員斬り殺してしまえば良いじゃないか」

「ハッハッハ。勝蔵さんは、やはり攘夷家じゃな」

「攘夷?ああ、その言葉は武藤先生から聞いたことがある。そうか。これが攘夷か」

「むろん、ワシも攘夷ぜよ。もしあいつらが上陸してきたら夷狄いてきの首の一つも取って、土佐の家族に自慢したいもんじゃ。けんど、ワシはやっぱり、あの蒸気船に一度乗ってみたいのう……」

 二人はこの日、黒船見物を終えるとすぐに江戸へ戻った。


 なるほど勝蔵は黒船を見て「攘夷」に目覚めはしたが、それほど強い攘夷の念を抱きはしなかった。

 それは「内陸に住む甲州人だから」という理由もある。海外からやって来る夷狄を絶対に打ち払わねばならない、という緊迫感が薄いのだ。

 しかしそれ以前に、勝蔵には「政治思想」という観念的な意識がほとんどない。

 実際に夷狄が攻めてくれば、堂々とそれを打ち払えば良い。まだ戦さになってもいないのに「負けたらどうしよう?」などと外国人を過剰におびえる必要はない。もし戦さになって敵が上陸してくれば、そのとき遠慮なくぶっ殺せばいい。

 「政治思想」などという空想にはいちいち捉われない、至極単純な思考回路である。

 それで勝蔵は今のところ、攘夷という観念にそれほど染まってはいない。

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