幕末任侠伝 甲斐の黒駒勝蔵

海野 次朗

第一章・青雲

第1話 御坂峠

 甲斐国。

 現在の山梨県のことで通称“甲州”という。今も昔もその首府は甲府である。

 甲府盆地は四方を高い山々によって囲まれている。南にあるのは、もちろん富士山だ。ただし、その手前に御坂みさか山地が横たわっている。

 他県民にとっては意外だろうが、山梨県は富士山のある県なのに御坂山地にさえぎられ、甲府盆地からは富士山の頭頂部、いわばご尊顔の部分しか拝めない。富士山のお尻、つまり裾野の部分は御坂山地によって隠されている。

「といっても、霊峰富士が尻丸出しでは霊験もあらたかならず。裾野が隠れるこの甲府からの眺めこそが、真っ当な霊峰富士のお姿なのだ。これを“裏富士”とは、なんとバカげた言い草か」

 と甲州人、特に甲府の人は言いたいであろう。


 その富士とのあいだに横たわる御坂山地の麓に「聖徳太子の黒駒伝説」すなわち、

「聖徳太子が“甲斐の黒駒”に乗って奈良の都から富士山まで飛翔した伝説」

 で有名な黒駒くろこまという土地がある。


 これは、その黒駒の地に生まれ、のちに清水次郎長のライバルとして広く知られることになる幕末の甲州侠客「黒駒勝蔵」にまつわる物語である。


 昭和の前半期に『清水次郎長伝』をラジオなどで語り聞かせ、国民的な人気を博した広沢虎造という浪曲師がいた。

 それではひとつ、その広沢虎造にならって物語を始めましょう。

不弁ふべんながらも~、つとめますぅ」




 時は天保七年。西暦で言えば1836年。

 数年前から続く「天保の大飢饉」は、まだ終わりが見えない。

 どころの話でなく、この年はさらに冷害や洪水の被害によって最悪の状態となった。

 飢饉の最大の被害地は東北である。

 冷害に弱い東北は飢饉のさい、つねに多くの犠牲を払ってきた。


 そしてこの年の八月、飢饉の影響から甲州で大規模な一揆が発生した。

 いわゆる「郡内ぐんない騒動」である。

 この天保飢饉の頃に発生した一揆としては最大規模のもので、幕府はその対応に追われた。


 ここでいう“郡内”とは、甲州の東部および富士五湖地方を指す昔からの呼称で、かつての都留つる郡に該当し、現代でいえば富士吉田、都留、大月、上野原の辺りをいう。

 一方、甲府盆地を中心とした地域(かつての山梨・八代やつしろ巨摩こまの三郡)は“国中くになか”と呼ばれてきた。おおざっぱな言い方をすれば、甲府盆地など甲州の主要地域にあるのが“国中”で、御坂山地と笹子峠を境として東南地域にあるのが“郡内”ということになる。

 この郡内は土地柄からして、飢饉に弱かった。

 気候や土壌が農業に不向きなため、絹織物を作って生活している民が多い。

 ひとたび飢饉が発生すれば人々は米の買い占めに走る、というのが世の常である。買い占めにより品薄となった米の価格は暴騰する。逆に絹織物のような不要不急の品は価格が下落する。

 食料自給率が低く、絹織物に頼って生活している郡内の民はたちまち米の入手が困難となり、飢えた人々が数百人の暴徒となって米屋や代官所を目指した。


 ちなみに甲州は江戸中期以降、大名は置かれず天領、すなわち幕府の直轄領となっている。

 甲府、石和いさわ、市川、谷村やむらに代官所が置かれ、江戸から代官が派遣されている。

 が、この代官がまったく役に立たない。

 江戸の幕臣が甲州へ送られるのは、島流しならぬ「山流し」つまり左遷であり、彼ら役人はやる気も能力も無い。しかも人数も少ない。実力で一揆を抑え込むなど思いもよらない。

 かたや甲州の民も、かつての「武田信玄の遺風」を信奉する気質が強く、こういった「顔の見えない代官ども」に忠節を尽くすつもりはない。

 役人と民衆の関係は最悪である。

 こういった上下関係の不和を指して幕府は甲州を「難治の国」と呼び、いつも腫れ物にさわるような態度で甲州と接してきた。


 さて、その暴徒、というか郡内の窮民たちが甲州街道の笹子峠を越えて甲府盆地すなわち“国中”へ突入すると、国中の窮民や無宿人なども騒ぎを聞きつけてぞくぞくと合流し、その規模は数千人に拡大した。そして人数はその後も増え続け、最終的には三万人にふくれあがった。

 むろん、その頃には当初の決起者たちの思惑を大きく超えて群衆は暴徒化し、彼らは甲州全土を席巻して回った。米屋や富商は次々と襲撃され、時には放火もされた。打ちこわされた家は三百軒を上回る。

 幕府の代官たちは右往左往するばかりで何ら有効な手立てを打てず、結局江戸からの幕命によって近くの沼津藩や諏訪高島藩から兵が派遣され、ようやく一揆勢は鎮圧された。暴動が始まってから四日目のことである。

 一揆の関係者として多くの民衆が捕まり、のちに五百人あまりが処罰された。その一方、幕府側でも代官や役人たちの多くが管理責任を問われて免職となった。


 この事件によって甲州における幕府代官の権威は大きく損なわれ、以後、甲州は博徒たち無頼漢、つまりアウトローが割拠する水滸伝さながらの世界となるのである。


 そして翌天保八年の二月、大坂で「大塩平八郎の乱」が発生。

 周知のとおり、天保飢饉に対する幕府の失政を見かねた大塩が「救民」ののぼり旗を掲げ、私塾の門人や農民など数百名と武装蜂起した事件である。


 江戸からほど近い天領甲州で起きた郡内騒動にも幕府は大きな衝撃をうけた。

 が、この天下の台所である大坂で、幕府直参の大塩によって引き起こされた「反乱」には、いきなり背後から刃物でも突きつけられたように幕府は狼狽うろたえた。

 「反乱」などこの二百年、絶えて無かったのだ。

 ちょうど二百年前に「島原の乱」があり、その少しあとに「由比正雪の乱」があるもこれは未遂に終わった。現代では「戦後七十何年、日本人の平和ボケ」などといった指摘をときどき耳にするが、その比ではない。なにしろ二百年だ。乱の発生直後は、何が起きたのか誰もがにわかに理解できなかった。

 武装蜂起から飛び火した大火災によって天満を中心に大坂の広範囲が焼失。大塩の軍勢はほどなく鎮圧されたが、のちに大塩は火薬を使って自爆したため身元が特定できず、その後も各地で大塩などその一党が潜伏しているといった流言飛語が飛び交った。


 まさにこの頃、世は乱世の入り口、言うなれば「幕末」の入り口にさしかかろうとしていた。


 郡内騒動と大塩平八郎の乱。

 この二つの事件が幕府にあたえた衝撃は大きい。

 これらの「天保騒動」をもって「幕末」に突入した、と言えるかどうか。

 一般的な通念でいえば「幕末」は、この十六年後の「ペリー(黒船)来航」によって始まったとされている。

 しかしながら海と無縁な甲州人からすれば、この郡内騒動をもって「幕末」の起点と見るのが、やはりふさわしいであろう。





 大塩が死んでからまだ一月足らず。季節は初夏である。事件の余熱はいまだ冷めやらず、浮足立った世相はしばらく収まりそうもない。

 甲州晴れとでも言うべき好天のなか、二人組の行商人が鎌倉街道を御坂みさか峠へ向かって歩いている。

 すでに御坂山地の麓まで来ているため見渡す限り山林だらけだ。日差しを浴びた木々の緑がまぶしい。左手に見える渓谷は、この道に沿うように流れている金川かねがわの渓谷だ。二人は御坂峠へ向かって、ゆるやかな坂をのぼりつづけている。

 方向的には富士山へ向かっている形となる。

 実際この先にある御坂峠を越えれば富士五湖、つまり郡内に出る。ただし今歩いているところから富士山はまったく見えない。甲府からだと山頂部だけでも拝めるのだが、御坂山地に近づくにつれて富士山は隠れていき、この辺まで来ると完全に見えなくなるのだ。

 二人のうち一人は風呂敷を背負っており、もう一人は茣蓙ござで包んだ刀を数本、背負っている。どうやら刀の行商人らしい。

 しかし二人とも行商人らしからぬがっしりとした体格をしている。手ぬぐいで頬っかむりをしているため人相は分かりづらい。とはいえ、風呂敷を背負った男は大きな目と鼻をした特徴的な顔つきをしており、ひょっとすると頬っかむりは人相を隠すためかも知れない。が、その目立つ人相では見る人が見れば一目瞭然であろうから、多分それは無駄な努力だろう。


 鎌倉街道というと武州(武蔵国)にある高崎と鎌倉を結ぶ道のほうが有名かもしれない。今度新しい一万円札の顔になる渋沢栄一が若い頃、高崎城を攻め落とし、そこから横浜へ行って外国人を焼き討ちする際に通る予定だったのが、この武州の鎌倉街道である(ただしこの計画は結局未遂に終わった)。

 一方、甲州の鎌倉街道は石和(現、笛吹ふえふき市)から御坂峠を越えて河口湖へ出て、そこから小田原へ向かう道のことを指す。富士吉田までは現在の国道137号線に相当し、別名「御坂みち」と呼ばれており、富士吉田からは国道138号線に変わって山中湖、籠坂かごさか峠(ここまでが甲州領)を経て東海道の小田原へ出る道である。


 その二人組は鎌倉街道の宿駅の一つである黒駒村を過ぎて、さらに坂をのぼりつづけている。

 目と鼻の大きな男が歩きながら、もう一人の男に語りかけた。

「甲州に大塩が潜伏しているという噂は、どうやらただの風聞だったようだな、弥九郎さん」

 その弥九郎と呼ばれる男も、歩きながら答えた。

「当然だ。俺が大坂で調べてきた限りでは、大塩は立派な人格者だ。一味の同志が次々と捕まって処刑されているのを横目に、自分だけ生きのびようとするほど未練がましい男ではあるまい。爆死したのは俺が大坂を離れてからのことだが、やはりあれは間違いなく大塩父子による自爆だったんだよ」

「だが田原の渡辺さんからの書状によると、大塩が密かに西洋船に乗りこんで海外へ逃げたという噂もあるらしい」

「なおさら、ありえん話だ」

「もちろん私だってそんな噂など信じてはおらん。まあ大塩のことはさておき、今回の甲州巡りは実に有益な旅だった。こうやって町民に変装して民情を探るというのは我ながら良い思いつきだったろう?これから武州や相模を回る際も、このやり方でいこうじゃないか」

「やめとくれよ、くにさん。俺はお主と一緒に探索すると、お主に万が一の事がないかと冷や冷やする。探索の仕事などは俺一人に任せて、お主は殿様らしく韮山にらやまと江戸でどっしり構えていれば良いんだよ」

「しかしあなたは今、江戸で売り出し中の道場主だ。そのあなたに道場を放り出させて探索を任せっぱなしでは、私としても心苦しい」

「俺のことを心配してくれるのはありがたいが、だったらそれこそ一人で気楽に探索させてくれ。だいたい水戸黄門様の漫遊記じゃあるまいし、こんな変装をして諸国の民情を探ろうなんて、まったく悪い了見だ」


 幕末史に詳しい方はすでにお気づきのことと思うが、この二人は江川英龍ひでたつ(太郎左衛門)と斎藤弥九郎である。

 この二人の甲州探索については「甲州微行図」という有名な絵が残っている。頬っかむりをした二人が刀の行商人に変装し、探索に出かける様子が描かれている。


 江川英龍は韮山代官である。このとき三十七歳。元の名乗りは江川邦次郎。

 韮山は伊豆半島の北部にある。東海道の三島のちょっと南にあり、現在は市町村合併によって伊豆の国市の一部となっている。

 江川家は「鎌倉以来の名家」と言われ、長年この地を治めてきた。江戸時代になってからは代々韮山代官を勤め、当主は「江川太郎左衛門」を名乗り続けてきた。つまり世襲代官である。代官が腰かけのようにコロコロと変わる甲州の代官とはややおもむきが異なる。

 世襲、という言葉にはあまり良いイメージがない。無能な人間でも血筋だけで要職に就いてしまい、その弊害を目にすることが多々あるからだろう。

 が、逆に素晴らしく有能な人間が現れることも世襲ではまれにある。

 それがこの江川英龍であった。

 のちに「海防の祖」と言わるほど大砲や鉄砲の技術改良につとめ、「農兵制度」にもいち早く取り組み、さらに代官としての行政能力も高いという非の打ち所のない男である。

 韮山代官・江川太郎左衛門を襲名したのは二年前のことで、そういった業績を残すのはこれから先の話だが、幕末の幕府の無能ぶりを絶望的な目で見がちな筆者としても、この江川英龍の能力だけは別格として敬服せざるをえない。ただし、なまじ有能であったために幕府から酷使されることになり、残念ながら安政二年(1855年)五十五歳の働き盛りに過労死同然のかたちで病死する。


 斎藤弥九郎は江川の友人で剣術道場「練兵館」の館長である。このとき四十歳。

 越中・氷見ひみの生まれで、江戸へ出て「撃剣館」の岡田十松に神道無念流を学び、その後、独立して練兵館を開いた。この練兵館はのちに千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館と並ぶ江戸三大道場の一つとして隆盛をきわめることになる。

 江川とは岡田十松の道場で知り合って以来、長年の盟友である。公私ともに無二の相棒といった関係で、この頃は代官となった江川の相談役をつとめ、陰に陽に江川の仕事を支えている。それで大塩の乱が起きた際も江川の要請に応えて大坂へ行き、事件の背景を探索してきたのだった。


 ところが斎藤が大坂へ行っている頃、逆に江川は韮山で、思いもかけない大塩の機密文書を入手した。

 それは大塩が決起直前に江戸の幕閣へ送った「幕府内部の不正を告発する密書」だった。この密書がなぜか伊豆の山中で発見され、韮山代官所に届けられたのである。

 この大塩密書にまつわる話は、その伝達経路や密書の内容も含めてミステリー小説が一つ作れるほど複雑で謎めいた背景があるのだが、それを語るのはこの小説の本旨ではないので深入りは避ける。

 ただ密書の内容について一点だけ指摘すると、この中で大塩は「老中など幕府要人が不正無尽むじんに関与した」と告発している。

 “無尽”とは“無尽講”または“頼母子講たのもしこう”とも言い、大勢から金を集めてクジによって当選者に配当する当時の金融システムの一種である。順番に当選者に金を配当するなど、現代でいうある種の「保険共済」に近い側面もあるのだが、やりようによっては違法な富くじ(宝くじ。この場合は違法なので隠富)といった博打との線引きが難しく、胴元がテラ銭とも言うべき一定の利ザヤを得る場合もあったようだ。大塩が告発したのが、まさにその違法に利ザヤを稼ぐ「不正無尽」であった。

「老中も含めた数名の幕府要人が、大坂で不正な無尽をおこなって巨額の利益(利ザヤ)を得ている」

 というのが大塩の告発で、幕府与力であった彼が詳細に調べた報告書が江戸の幕閣へ発送された。この大塩の告発が事実であれば、それらの幕府要人が改易処分されるほどの不正である。しかし当然のことながら、この告発は幕閣という政治権力によって握り潰された。

 「司法の独立」という概念すら無い時代なのだ。誰が権力者の不正など追及できようか。

 幕府は博打ばくちを罪として博徒たちを取り締まっておきながら、自らが博打さながらの利得行為をやり、権力者たちがその仲間うちの不正を黙認したのである。大塩が義憤にかられて決起するのも無理はない。

 この機密文書がなぜか伊豆の山中にひっそりと捨てられていた。そしてそれを江川が偶然入手したのだが、彼はそれを幕府へ差し出す前にしっかりと写しを取っていた。そのためこの事件は歴史の闇に葬られることなく現代の我々にも伝わったのだった。ちなみにこの史料の全貌が明らかになったのは平成になってからのことである。



 ところで、この二人が甲州へ来たのは大塩の捜索だけが目的ではない。

 実は最大の目的は、

「郡内騒動以降、甲州の民情がどうなっているのか?」

 それを探るために甲州へ潜入したのだ。

 韮山代官の支配地は、伊豆を中心に駿河、相模、武蔵、そして甲斐にも及び、およそ八万石の支配高がある。

 そして前年の郡内騒動によって都留郡の代官が免職となり、その地域を当分のあいだ韮山代官、すなわち江川が預かる形となったのである。

 もとより甲州に多少の支配地をもっていた江川としては、郡内騒動に強い危機感を抱いていた。しかもその郡内を江川自身が預かることになったのだ。そういった訳で、彼はまず直接現地に入って民情を探ろうとしたのだった。

 探索の結果、江川は次のような結論を下した。

「郡内騒動の責任は代官や手付・手代(代官の部下)といった役人連中にある。確かに甲州人は気質が荒く、新任の代官がやって来るとわざと訴訟問題を起こし、その裁き方を見て代官の力量を測ろうとする。また無頼の無宿人や博徒たちがたびたび代官と対立している。しかしもとをただせば代官所の役人たちが賄賂を取ったり民から搾取しているから、このように険悪な関係となったのだ」

 それでこのあと江川は「清廉潔白、質素倹約」という役人のかがみとも言うべき姿勢を率先して実行し、現場で働く役人もほとんど自分が連れてきた部下に入れ替えてその姿勢を徹底させた。さらに貧民救済策として困窮した人々に低利で金融援助をおこない、彼らの生活が立ち行くようにつとめた。

 後の話になるが江川の郡内統治は成功を収め、郡内の人々は神社などに「世直よなおし江川大明神」と書いた幟り旗を立ててほめ称えるほど、江川を慕うようになる。




 二人は坂をのぼり続けている。

 藤野木とうのきで少し休息を取り、そこから最後ののぼり坂へ向かった。

 山の天気は変わりやすく、ときどき雲が出たり陽が差したりをくり返している。

 峠付近では曲がりくねった坂道がつづく。その途中、石で舗装された道があった。石のところどころに濡れた苔がはえており、二人は足を滑らせないように気をつけて歩いた。


 その石の道を歩いていると、道の脇に男の子が一人、うずくまっていた。歳の頃は六、七歳ぐらいの幼児だ。その子は苦しそうな表情で自分の足を押さえている。

「どうした?坊や。こんな所で何をしてるんだ?」

 と斎藤が声をかけた。しかし子どもは何も答えない。

「お父っつぁんかおっ母さんは一緒じゃないのか?まさか坊や一人なのか?」

 子どもは沈黙したまま、やがてコクンと首を縦に振った。

 そして斎藤は、その子の右足の膝から血が流れているのに気がついた。状況から察するに、石の道で足を滑らせて転んだのだろう、と思った。

 それで斎藤は旅道具の中から傷薬と布を取り出し、その子の足の手当を始めた。剣術道場の主だから傷の手当などお手のものだ。そして手当をしながら質問した。

「坊や、歳はいくつだ?」

「六つ」

「名前は?」

「かつぞう」

うちはどこの村だ?」

「黒駒」

「なんでこんな所に一人でいるんだ?何をしていたんだ?」

「……」


「弥九郎さん、どうやらこの子は黒駒村から一人でここまで歩いてきたようだな。よくもまあ、こんな遠くまで歩いてきたもんだ。見たところ身なりはちゃんとしているから名主か組頭あたりの子どもだろう。少なくとも郡内一揆の後に増えた浮浪児ではなさそうだ」

「さて、どうしたもんかな、邦さん」

年端としはのいかない、しかも歩けない子どもをこんな所に放ってはおけんだろう。下手すると人さらいに連れていかれるかも知れん。手間をかけて申し訳ないが、藤野木まで背負って行って、そこの茶店にでも預けてきてくれないか?」

「うむ。まあ、やむを得まい。邦さんは先に郡内へ向かってくれ。この子を藤野木に預けてきたら、すぐに後を追う。……さあ、坊や、背中につかまれ」

 と言って斎藤は子どもに背を向けた。


 が、子どもは沈黙したまま動かない。それで斎藤もさすがに声を荒げて言った。

「何をグズグズしとるか!藤野木まで背負って行ってやると言っとるんだ!早くつかまらんか!」

 なにしろ剣豪・斎藤弥九郎だ。怒らせると怖い。

 この一喝で子どもは一瞬ビクッとなったが、何を思ったか一目散に逃げだした。そして不自由な右足を引きずりながら峠へ向かって駆けて行った。けれども少し行ったところで足を滑らせて転び、再び足をかかえて悶絶した。


 斎藤がすかさず子どものところへ駆け寄って、抱え起こした。

「何をやってんだ、この小僧!……おいっ、足は大丈夫か?」

「……」

「まったく無鉄砲な小僧だ。なぜ峠へ向かおうとする?お前は郡内へ行くつもりか?」

 子どもは首を横に振って否定した。

「ではなぜ、峠へ向かおうとする?」


「富士山が見たい」


 斎藤と江川は驚いてお互いに顔を見合わせた。そして斎藤が再び質問した。

「……まさか富士山を見るために、わざわざ黒駒から歩いてきたのか?」

「うん」

「ひょっとして、今まで一度も富士山を見たことがないのか?」

「うん」

「もし御坂峠へ行っても、雲で隠れて見えないかも知れないんだぞ?」

「でも、見たい」

「まったく、しょうがない奴だ」

 と言って斎藤は子どもに背を向けて「背負ってやる」という仕草を見せた。それでも子どもは、その申し出を受け入れようとはしなかった。

「心配するな。峠まで背負って行ってやる。だが、雲で隠れて見えなかったら諦めろ。すぐに引き返すからな」

 子どもはすぐさま背中に飛びついた。



 二人は再び峠へ向かって歩き出した。斎藤は背中に子どもを背負い、行商用の刀は代わりに江川が背負った。

 晴れと曇りをくり返していた山の天気は、三人が峠に近づくにつれて好天へと向かい、おあつらえ向きの天気となった。

 そして三人はとうとう御坂峠の頂上まで来た。

 この御坂峠から見る富士山の景色は、葛飾北斎や歌川広重の錦絵などで有名だ。


 しかし天気は良いのに、この頂上まで来ても富士山は見えなかった。

 子どもはキョロキョロと必死で周囲を見回すが、富士山はどこにも見えない。

 斎藤は首を後ろへ回し、微笑みながら言った。

「あわてるな。もう少し待て」

 それから斎藤と江川は右手にある小高い丘にのぼり始めた。しばらくのぼるとほこらが一つポツンと立っている高台に出た。

「ホラ、着いたぞ、坊や」


 そこからは、富士山の全貌が見渡せた。

 峠の頂上といえども街道からだと樹木や山肌に隠れて見えなかったのだ。

 子どもは神々こうごうしい富士の姿を見て、

「うわあ!うわあ!」

 と何度も叫び、斎藤の背中から飛び降りた。そして身を乗り出して富士山を見つめた。その目からは涙があふれ出ている。

 子どもの後ろでは、斎藤と江川がにこやかな表情で富士山を眺めている。


 山頂にはまだ冠雪が少し残っている。周囲には綿のような雲がふわふわとたなびいているが山景はハッキリと見える。手前の河口湖は右手にある山にさえぎられて半分だけ顔をのぞかせている。その湖畔に点々と見える家並みは河口村だ。

 ちなみに今三人がいる御坂峠は「太宰治の天下茶屋」で有名な旧御坂トンネルの所にある御坂峠ではない。このトンネルは昭和6年の開通で、ここを通る道は現在山梨県道708号線と呼ばれている。今三人がいるのは、そこから少し西にある新御坂トンネル(昭和42年開通。現在の国道137号線)の山頂あたりにあった御坂峠で、現在そこに道路は通っていない。


 富士山を見つめながら斎藤が江川に語りかけた。

「どうして我々日本人は富士山を見ると、こうも気持ちが晴れ晴れとするのかな」

 これに江川が答えた。

「外国人でもこれを見れば、きっと同じ気持ちになるんじゃないか?」

 この会話は、当時としては異常である。

 富士山に対する感情が、というのではない。この二人が「日本人、外国人」という言葉を使っていることが異常なのである。

 この当時、大多数の日本人はその意識の中に「日本人、外国人」といった感覚を持ってない。意識するのは普段生活している身の回りのことのみ、せいぜい自分の村周辺のことまでで、最大限ひろげても甲州人なら甲州、伊豆人なら豆州、といった州単位までである。日本人、ましてや外国人などといった感覚は、あまりに先進的すぎる。

 江川英龍は、この当時としては異質すぎるほどの先進性を備えていた。

 伊豆には、のちにアメリカのペリーやハリスが、さらにロシアのプチャーチンがやって来る下田がある。そして下田は外国船の寄港地として開港されることになる。その伊豆で、江川は代官を勤めている。地理的な条件からも江川は、外国の事情に敏感にならざるをえない。そのため彼の周囲には幡崎はたさきかなえ、渡辺崋山、高野長英といった蘭学に詳しい人々がいた。江川は彼らから教えをうけて外国の事情に通じていたのである。しかし、そういった蘭学者たちはあまりに先進的であったために、この二年後「蛮社の獄」によって幕府から弾圧されることになる(ただし江川は幕府の代官なので弾圧の対象から除外された)。


「坊や、この富士山のようなでっかい男になれよ」

 と斎藤が子どもの背後から、彼の肩に手をかけて言った。

「うん」

 とは、この子どもは言わない。

 斎藤は「素直じゃないガキだな」と心中で思った。

 一方、子どものほうは、

(言われなくても、そのつもりだ)

 といった心持ちで黙って富士山を見ている。

 そんなことは以前から何度も周囲の大人たちから言われている。でも、その富士山の実体が分からない。黒駒からは見えないし、絵を見たり話を聞いただけではピンと来ない。彼はずっとそういったモヤモヤとした気持ちを抱いていた。それでこの日、つい、ふらっと峠へ向かって歩き出してしまったのだ。

 そして今、初めて実物の富士山を見て、やっとその素晴らしさが分かった。自分はやはり、この富士山のようなでっかい男になるのだ、と決意を新たにした。


 言うまでもなく、この子どもはのちに「黒駒の勝蔵」と呼ばれる小池勝蔵である。


 江川と斎藤は、この勝蔵という小さな子どもからある種のたくましさを感じ、その点では彼の将来に期待を抱くのだが、まるで悍馬かんばのように不羈ふき(繋がれない事)を求める性質がいくぶん見受けられることに一抹の不安を感じた。

「一人でこんなところまでやって来るなんて、まったくムチャなことをする子どもだ。親も心配していることだろう。坊や、親に心配をかけるような人間になっちゃダメだぞ。そして間違っても、お上の手を煩わせるような人間にはなるなよ」

 と斎藤は自分の子どもをしつけるかのように言った。

 これに続けて江川も言った。

「そうだ。お上の手を煩わせるようになれば、怖いお代官様がお前を懲らしめにやって来るぞ」

「ハッハッハ。まったくだ。……そうだ、坊やにだけ内緒の話を教えてやろう。何を隠そうこの人は、恐れ多くもこの甲州のお代官様なんだぞ。お前がもし将来お尋ね者になったら、すぐにこの人が飛んで来て罰をあたえるからな。だからお前は真面目に働いて、善良な農民とならねばいかんぞ。ハッハッハ」

 と斎藤は笑いながら勝蔵に言った。子ども相手だから気軽に江川の正体を明かしたのである。どうせ何も分かるまい、と軽口をたたいただけのことだ。


 後年、二人の不安は現実の物となり、そのころ勝蔵は博徒の大親分となっている。そして、ことあるごとに甲州の代官と敵対することになるのである。

 むろん、そのころ江川代官は、すでにこの世の人ではなくなっている。

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