5章 新たな始まり――この世は舞台、人はみな役者
1 本気になるほど
次の週、果たして、神崎の調子は元に戻ってはいなかった。
改めて考えると、織江さんや日下部について、こんなに悩む理由もなさそうだった。ともあれ、神崎は先週と同じように何かを悩み続けている。
先週と違うのは、明らかに体調が悪そうな点だ。目の下にクマができていて、元気がまったくない。練習はしっかりこなしているとはいえ……。
「なあ神崎。その、やっぱり何か心配事があるんじゃないのか」
「……ごめん」
そう言うや否や、神崎はふいっと背を向けて去って行った。
「――え?」
ただ一言。謝っただけ。
神崎はそれ以上、何も言ってくれなかった。視線も合わせてくれない。
けれど神崎は、川嶋先輩に呼び止められると、楽しそうに会話を交わし始めた。
その様子は、俺と一緒にいるときよりも明るく、生き生きとして見えた。
「何だよ……」
少しは心を開いてくれていたと、そう思っていた。
別に悩みを教えろとか、そういうことじゃない。教えたくないことは教えなくてもいい。
けど、謝られたら、そこから二の句を継げないじゃないか。何も言えないじゃないか。
避けられた。
壁を作られた。
その事実に、悲しさと、悔しさと……そして、怒りを覚えた。
勝手な感情だってわかってる。ただの八つ当たり。
でも――。
もう俺は、神崎には届かないのかもしれない。
次の休憩時間、神崎が席を外したときに、事件が起きた。
「茉莉也、いいね。これは期待できるそうだ」
大講堂を出て行く神崎の背を見ながら楽しそうに言った峰岸先輩を、川嶋先輩がキッと睨みつけた。怒りの感情が、見ているこちらの肌をひりつかせた。
「何を笑ってやがる。これでいいわけねえだろ」
「何がだい」
とぼけて言った峰岸先輩の体操服の胸倉を、川嶋先輩が右手でぐっと掴んだ。
慌てて駆け寄って止めようとすると、峰岸先輩が余裕の表情で手のひらを突き出して制してきた。それを見て、御厨さんも、恵先輩も二宮先輩も、動くことができなくなった。
「わかってんだろ!」
苛立ちを隠さず、川嶋先輩が怒鳴り声を張り上げる。
「戸惑っているだけだよ。そんなに大袈裟なことじゃない」
「積もり積もれば、いつかは爆発する」
「おかげで成長できる」
「楽しくやるのがモットーじゃねえのかよ!」
「好きなことをやる、というのは、すなわちいつでも楽しいわけではない。本気になればなるほどね」
一瞬、川嶋先輩の手が緩んだ。動揺が伝わってくる。
「外的要因にしろ、内的要因にしろ、毎日が晴れた気分で打ち込めるわけじゃない。それでも続けないといけない。いつだって過程は苦しいものだ。楽しい、というのは結果が出てからだよ。つまり、実力がないと楽しくやれないのも事実だ」
「っ……それを一年生に押しつけるんじゃねえよ!」
荒々しく峰岸先輩を押しのけ、川嶋先輩はステージのヘリに腰かけた。
「それでも、続けるんだね」
川嶋先輩は、峰岸先輩を横目で睨みつけ、堪えるように深呼吸しながら首を振った。
「俺が降りたところで、何の解決にもなんねえよ」
「わかってるじゃないか」
「あの、こういうのって、朝倉先生に伝えた方がいいんじゃ」
恵先輩がおずおずと訊ねるが、
「やめといた方がいい」
峰岸先輩は朗らかに言った。誰とも目を合わせず、一人だけ違う景色を見ている。
「私たちで解決できることじゃない。本人が決めなくちゃいけないことだよ」
先輩の態度に少しだけカチンときたが、まるでゲームマスターにでもなったかのようなその口ぶりが気になった。
「何か知ってるんですか」
「ある程度はわかっているつもりだ。信二の方が詳しいだろうけど」
「……何でそう思うんだ」
「相談、されてるんだろう?」
「なっ……お前、余計なこと言うな!」
「え、どういうことですか」
川嶋先輩に相談?
峰岸先輩よりも、二宮先輩よりも、恵先輩よりも、御厨さんよりも。誰よりも先に、川嶋先輩に相談した?
『周りを見られる、気遣いができる人の方が好き』
神崎はそう言った。あれはキャラクター性の話だったけど、それが現実にも当てはまることだってあるかもしれない。
ああ、なんだ。そういうことだったのか。
スーッと冷めていくような感覚。一気に何もかもがどうでもなくなるような。どうしようもない遣る瀬無さに襲われる。
神崎がヤキモチを焼いてくれているんじゃないかとか、勝手に舞い上がって、バカみたいだ。
神崎が仲良くなったのは、何も俺だけじゃない。例えば俺が恵先輩とも喫茶店に行ったように、川嶋先輩とどこかに出かけていても不思議ではない。
神崎が俺と出かけたのも、『練習』だった可能性だってある。俺は友達で、安パイだったから。安全だったから。練習台として最適だったということも。
もちろん、神崎の調子が悪いのは、本当にプライベートな心配事があるのかもしれない。
けどもしかしたら。
川嶋先輩が峰岸先輩のことを好きなのではないかと、そう思い悩んでいるのかもしれない。
だとしたら、納得できることもある。
演技に鬼気迫るものを感じたのは、自分とジュリエットを重ねているからなのだろう。ロミオが街から追放され、最愛の人と会うことができなくなった、そんなジュリエットと。
当時のイタリアの都市は、城壁に囲まれていた。門番もいる。追放は、文字通り、永遠に戻ってくることが叶わないということだ。
きっと近くにいるのに、その想いは二度と届かない。そんなジュリエットと、想いを伝えられない自分とを重ねている。
今だったら俺も、ロミオの気持ちがはっきりとわかる。
こんなことでわかりたくなかった。
後悔ばかりが頭の中を駆け巡った。
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