神崎茉莉也は舞台に上がる
愛宕栄太
プロローグ
プロローグ
「ねえ。
四月の終わりごろ。ゴールデンウイークを目前に控えた、麗らかな陽光が差す土曜日の昼下がり。
俺と神崎は、部活の集合時間より一時間早く部室に集まって、公演に向けた自主練習をしていた。
お互いの役について考察を深め、意識を擦り合わせながら読み合わせをする。
その練習の切れ間に、するりと入り込むかのように、唐突に神崎が切り出した。
「前に、演劇部に入ろうとしたきっかけ、教えてくれたよね。詳しく聞いても、いい?」
神崎は長い前髪で顔を隠すようにしているが、風にあおられて時折その整った顔立ちがちらりと見える。特に、恥ずかしがり屋な性格とは裏腹に、強い意思がこもった瞳は美しいと思えるほどだ。
「詳しくって言うと?」
「中学の学芸会のこと。演劇部のこと。この学校を勧めてくれた人のこと。その辺りを、詳しく」
「よく覚えてるなあ」
そうだな、と少し考え込んでいると、神崎が悲しそうに肩をすぼめて上目遣いをする。
「ダメ……?」
「いや、ダメじゃないけど」
なぜ悲しそうなのかはわからないけれど、こんな風に言われて断れるやつは鬼だと思う。
「ちょっと長くなるぞ」
そう前置きすると、神崎はパッと花開くように破願して、口元をほころばせる。
「長い方が、いい」
酔狂だな、と思いながら、ご期待に沿えるよう綿密に学芸会のことを思い描く。
「それじゃあ、話すぞ。あれは俺が中学三年生のころ――」
☆
俺が中学生三年生のころ。秋の学芸会。
演劇部の発表が、目に焼きついて離れなかった。
演劇部部長の
この一年で日下部は凄く成長したのだと、素人ながらに感心した。
そして、日下部以外の部員たちの熱い演技も、確実に俺の心を揺さぶっていた。
「恥ずかしくないのかね」
隣に座っていた同じクラスの奴が、周囲数人に聞こえるように言った。
何が? 失敗するのがか?
「こんな大勢の前で演技とか、俺には無理だわ」
嘲笑気味なその言葉に、俺は何も言えなかった。日下部はあんなに生き生きと頑張っているのに、何も言うことができなかった。
「よっぽど自分に自信があるんだろうな。ナルシストかよ」
ドッと笑いが起こった。その空気に呑まれてしまって、やっぱり何も言えなかった。悔しかったし、申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
現実に一気に引き戻された俺は、周りの連中のひそひそ声の意味をようやっと理解した。
察するに、ほとんどの生徒が演技そのものにまったく興味を示していなかった。
舞台の出来栄えより、いつ失敗するか粗探しの方に興を向けていたように思う。
考えてみれば、俺自身だって一年生、二年生のとき、日下部以外には一切の興味を持っていなかったように思う。なにせ、他の部員たちのことが記憶にない。そのことが、たまらなく恥ずかしく感じ始めた。
そんな観衆の中でも、何人かは、舞台を熱く見つめる姿も認められた。
舞台を楽しんでいる人がいる。
俺以外にも、確かにいるんだ。
きっとそんな人たちのために、舞台上の彼らは戦って、表現している。
俺も、そんなステージに憧れた。
誰かに笑われても、ひたすらに堂々と演技をしている。そんな演劇部に羨望を覚えた。
多くの連中は恥ずかしいことだと感じていたみたいだけど、俺は格好いいと感じた。
ナルシスト? 上等じゃないか。結果を残してる人なんて、「俺はもっとやれる」っていう自尊心があるからこそ成功するんだろう。
誰にだって自惚れる権利くらいあるはずだ。
日下部にだって。
そして、俺にだって。
俺も、あんな風になれるのかな……?
次第に、周囲の雑音は気にならなくなっていった。舞台に熱中し、あっという間に時間が過ぎていく。発表が終わったときに俺の胸を占めていたのは、大きな充実感だった。
彼らのように、誰かに感動を届けたい。自分を貫いてみたい。そう思った。
だから学芸会の後、日下部に話を聞きに行った。
放課後、夕陽が差し込む部室は、エアコンが利いておらず肌寒かった。校舎の端っこの、とても演技の練習ができるとは思えぬ小さな教室。
帰宅していく生徒たちを窓から眺める日下部。その横顔は哀愁を帯びていて、舞台上の堂々とした空気は消え失せていた。
楽しかったよ、と伝えると、日下部は鈴を転がすような声で笑った。
今まで意識したことがなかったけれど、本当に綺麗な透き通った声で、今でも耳の中で残響するように覚えている。
「よかった。そういう風に言ってくれるのがいて。やった甲斐があったよ」
日下部は、苦笑いしながら軽く肩をすくめた。
「気づいてるよ。大体の人が、私たちに興味がない。男子なんて特にそうだよね」
否定はしなかった。日下部が望まないだろうと思ったから。
「でも、幸村みたいなのがいればモチベーションになるよ。中学ではもう終わりだけれど、よかった。私がやってきたことは無駄じゃなかった」
「中学では、ってことは、高校でも続けるんだよな」
木の椅子にストンと座った日下部は、足を延ばして、ぐっと伸びをする。それから小さく息を吐いて、ちょっとだけ晴れやかな表情を覗かせた。
「高校演劇の、強豪校に行きたいんだ」
「強豪?」
「そう。高校演劇には、全国大会があるんだよ。全国常連校を受験するつもりなんだ」
「……凄いな」
正直な感想を漏らすと、日下部は皮肉げに唇の右端を上げて、首を横に振った。
「凄くなんかないよ」
そう言う日下部は、不意にニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「まだ、何者でもない」
まだ。でも、いつかは。
日下部の野心に、俺も自然と笑みがこぼれた。
「俺も、誰かを楽しませたい」
熱がこもった日下部を見ていると、今の自分を変えたいと、そう思うようになってくるのだ。
バスケ部はそれなりに……いや、かなり頑張ったと言える。必死になって練習した。必死に。全力で。
でも、なんでバスケ部に入ったんだっけ。
観るのが好きで、なんとなく。親に運動部に入れって言われて。男子は運動部が当たり前、みたいな周りの空気に充てられて。気がついたら入っていた。
バスケは好きだ。観るのは。やるのはどうだ。頑張ったけど。辛かった。楽しかったっけ? 覚えていない。辛かったことは覚えている。本当にこれが、俺のしたかったことだったか。観るのとやるのとでは、違う。
「高校演劇。興味あるかも」
初めてだ。何かを自分からやりたいと思ったことは。
だから、自然と口にしていた。自分の気持ちを確かめるように。
日下部ががばっと立ち上がって、ぐいっと距離を詰めてきた。
「ねえ。幸村さ。こないだ、天ヶ崎高校の話してたよね」
「よく覚えてるな」
進路について友人たちと話していたとき。教室を別件で訪れていた日下部が、途中から話に入って来たのだ。
天ヶ崎校は進学校で、今の俺の学力よりもちょっと上。目指すうえではちょうどいい、頑張れば十分に入れる学校だ。現在の志望校の一つ。チラッと言っただけなのに、まさか覚えているとは思わなかった。
「チェックしてた学校だからね」
それを聞いて、なるほど、と得心がいった。
「天ヶ崎も、演劇強いんだ」
「いいや」
思わずズッコケそうになった。どういうことだ。
「演劇部はあるけど、大会にエントリーしていない学校なんだよ。でもね。凄い人がいるんだ。峰岸、って人。今年の文化祭、見に行ってみたんだ。あのレベルの人、高校生じゃあ、なかなかいないと思う」
峰岸さんに対する尊敬の念が、ありありと感じられた。
いつもは飄々としている日下部がこんな風に誰かを褒めるところを初めて見た。当然ながら、俺は興味が湧いた。
「私は高校の大会に出てみたいから、違う高校に行く。浅葱高校ってとこ。でも、演劇は大会だけじゃない。峰岸さんのもとで学べることもたくさんあると思う。天ヶ崎校の大講堂のステージも、高校では桁違いの大きさ。勉強するには最高の環境だよ」
好きなことだからか、やけに饒舌だ。今まで知らなかった日下部の側面が垣間見えた。
「他にも聞きたいことがあったら聞いて。わかる範囲で答えるから」
「ありがとな」
「これくらい、構わないよ」
鼻の頭を掻きながら、日下部は照れたように言った。
「同士が増えるのは嬉しいからさ」
その日から、俺は演劇に対して、漠然とした憧れを抱くようになっていった。
受験があったから、プロの舞台を見に行く機会はあまりなかったけど、ドラマを見る時間はぐんと増えた。
「ドラマの演技と、舞台の演技は、違うものなんだよ」、と日下部は言う。
カメラに向けて演技するのと、客席に向かって演技するのとでは、求められる能力が変わるのだそうだ。
ドラマではアップで映ることも多いし、小道具なども多いから、表情や仕草など動作がよりリアルである方が好まれる。
対して舞台は、演者と客との距離が遠いし、大きく身体を動かさないと何をしているかわからなくなる。ウィンクしたって客からは見えない。気障な表現なら、もっと違った何かで魅せなければならない。
要するに、観客=視聴者と、役者との距離感が違うのだ。
そういった知識だったり心構えだったり、日下部はたくさん語ってくれた。
時には演劇部の練習を見せてくれたりもした。もっとも、日下部は引退しているから、後輩たちの演技を見せてくれただけだけど。
「二年生らも、外部の人に見られるのは刺激になると思うよ」
後輩たちも日下部の意見に然りと納得していたため、俺は勉強の息抜きに何度かお邪魔させてもらった。
その度に、早く演劇部に入りたいと、日増しに想いが強くなっていった。
そうしてあっという間に月日が経って、過去最大級の集中力で、天ヶ崎校の合格をもぎ取った。
「これからはライバルだね」
卒業式の日、日下部は感慨深げに笑った。
宣言通り、日下部は浅葱高校に合格した。これからは、それぞれ違う学校だ。
「大会、出ないぞ」
「友と書いてライバルだ」
「ライバルどれだけいるんだよ」
「中学の同級生では、高校で演劇するのは幸村だけだよ」
ちょっとだけ寂しげに、日下部が目尻を下げた。
「この数か月。楽しかった。もうちょっと早く――いや、きっかけは学芸会だからね。そういう運命だったんだ」
「運命なんて、ロマンティストみたいだな」
そう茶化してから、すぐに心変わりした。
「いや、日下部は俺の運命を変えてくれたのかもな」
「なんだ。幸村もロマンティストだ」
「それでいいよ。俺は」
二人でひとしきり笑ってから、握手を交わした。
「それじゃあ、達者でね」
「チャットアドレス、交換しただろ」
「会う機会は減ってしまうから」
「そうだな……日下部も、元気でな」
それから一か月以上経ったけど、俺たちは時々チャットで連絡を取り合っている。直接会う機会はまだ訪れていない。数か月会わないなんてこと、高校が違うから当たり前なんだろうけど。
日下部はクールと評されることも多いが、熱を胸に秘めていることは知っている。それに、決して無愛想ということもない。とりわけ女子の友人は多い方だ。きっと新天地ではすぐに馴染むはずだ。心配はない。
今頃、仲間たちとともに励んでいるのだろうな、と想いを馳せるのだった。
☆
「――という話でだね」
要望通り詳細に話すと、神崎はぽかんと口を開けていた。
長い前髪でわかりづらいが、確実に呆れた顔をしている。ちらりと見えた目が、もうビックリするくらいの冷たいジト目だった。睨まれているような気さえする。
「それで、その……二人はライバル?」
「ライバルかどうかはわからないけど」
「友達?」
「向こうからそう言ってくれたし、俺も友達だと思ってる」
「……それだけ?」
「他に何があるんだよ」
神崎は肘をついた手で額を覆った。こんな神崎の仕草、俺は初めて見た。
「本当に? 本当に、そう思ってるの、幸村くん」
「だから、何だって」
「信じられない……」
「どうした、神崎。今日はやけに毒があるな。いつもの一割増くらいで」
「むしろ、毒が抜かれてる……」
マジで意味がわからない。頼むからちゃんと説明してくれ。
「わかった。ありがとう。大丈夫。二人は友達。わかった。あと、私を普段どう見てるかも、わかった。ちゃんとわかった。大丈夫」
「いや、俺は大丈夫じゃない。本当に、って何がだよ。あと毒が云々はすまん」
「わからないの?」
「まったく」
「それじゃあ、宿題」
そんな膨れて言われても。どこから取り掛かればいいのか、皆目見当がつかない。
この宿題は、何時間かけても解けそうもなかった。
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