法華経 安楽行品

 その時、法王子とも呼ばれる文殊師利菩薩は、釈迦牟尼仏に言った。


 世尊、釈迦牟尼仏よ、これらの諸々の菩薩達は、とても希有です。

 釈迦牟尼仏を敬い従うので、「後世の悪の世でも、この法華経を破らず護って保持し、読み、説きます」という大いなる誓願を起こしました。

 世尊、釈迦牟尼仏よ、菩薩は、後世の悪の世で、どのようにしたら、この法華経を説くことが可能ですか?


 釈迦牟尼仏は、文殊師利菩薩に告げた。


 もし菩薩が、後世の悪の世でも、この法華経を説きたいと欲するならば、四つの法に安らかに留まるべきである。


 (菩薩は、)第一に、「菩薩の行処」と「菩薩の親近処」に安らかに留まれば、「衆生」、「生者」の為に、この法華経を演説することが可能である。


 文殊師利菩薩よ、どのような物を「菩薩の行処」と名づけるのか? (と言うと、)

 もし菩薩が忍辱の境地に留まっていて、柔和で、善に従っていて、短気ではなく、心を驚かせず、「仏法を行う所が無く」、「(いつまでも)意識して仏法を行おうとせず」、「『諸法』、『全てのもの』は、ありのままの相である」と観察していて、(いつまでも意識して仏法を)行おうとせず、(誤った)分別をしなければ、これを「菩薩の行処」と名づける。


 どのような物を「菩薩の親近処」と名づけるのか? (と言うと、)

 菩薩は、国王、王子、大臣、長官に親しみ近づくなかれ。

 諸々の外道、バラモン、尼犍子という外道など、世俗的な書物の作者、外道の書物をほめたたえて歌う者、路伽耶陀という外道の者、逆路伽耶陀という外道の者に親しみ近づくなかれ。

 諸々の悪い遊戯、腕相撲、相撲や、「那羅」などの種々の変化による遊戯に親しみ近づくなかれ。

 「旃陀羅」、「屠殺人、漁師、猟師」、イノシシ、羊、鶏、犬を屠殺する家畜とする者、猟師、漁師、諸々の悪へおとしいれるものに親しみ近づくなかれ。

 これらの人が、ある時、来れば、これらの人の為に説法するが、(親しみ近づこうと)希望するなかれ。

 声聞の段階(に停滞すること)を求める出家者の男女と在家信者の男女に親しみ近づくなかれ。(声聞の段階に停滞することを求める人に)合掌し低頭し安否を尋ねるなかれ。

 (声聞の段階に停滞することを求める人と、)部屋の中でも、坐禅の合間に歩いた先でも、「講堂」の中でも、共にいるなかれ。

 (声聞の段階に停滞することを求める人が、)ある時、来れば、「随宜に」、「相手に応じて」説法するが、(親しみ近づこうと)希望するなかれ。

 文殊師利菩薩よ、菩薩は、女の人の身に対して「十二因縁」の「取」をして性欲の想いの相を生じるなかれ。

 (性欲無しで、)女の人の為に、説法するべきである。

 (性欲によって、)女の人の身を見たいと願うなかれ。

 (性的な誤解をされないように、)もし他人の家に入っても、少女、処女、未亡人などと話すなかれ。

 (性的な誤解をされないように、)「五種不男の」、「性器に障害が有る」人に近づくなかれ。(「五種不男の」、「性器に障害が有る」人に)親しむなかれ。

 (菩薩は、)独りで他人の家に入るなかれ。

 もし理由が有って、独りで他人の家に入る時は、ただ、一心に、仏について思いなさい。

 もし女の人の為に説法するならば、歯を露出して笑うなかれ。胸中の思いを現すなかれ。仏法の為に、親しむなかれ。その他の事もするなかれ。

 若い弟子、未成年の出家者、子どもを願って養うなかれ。

 若い弟子、未成年の出家者、子どもと、願って師を同じくするなかれ。

 常に坐禅を好み、人里離れた静かな場所にいて、心を正して修行しなさい。

 文殊師利菩薩よ、これを「菩薩の最初の親近処」と名づける。


 次に、菩薩は、「一切の法は、くうである」「一切のものは、くうである」と観察するし、

「一切のものは、ありのままの相である」、

「一切のものは、転倒しない」、

「一切のものは、不動である」、

「一切のものは、不退転である」、

「一切のものは、虚空のように、性質が無い」、

「一切のものは、一切、言い表せない」、

「一切のものは、生じていない」、

「一切のものは、出現していない」、

「一切のものは、引き起こされていない」、

「一切のものは、名づけることができない」、

「一切のものは、相が無い」、

「一切のものは、実は、存在していない」、

「一切のものは、量り知れない」、

「一切のものは、限界が無い」、

「一切のものは、妨げられないし、障害が無い(、自由である)」、

「一切のものは、ある理由によって、存在しているだけである」、

「一切のものは、転倒によって、生じている」と観察する。

 そのため、これらのように、「法」、「もの」の相を常に願って観察するように説くのである。

 これを「菩薩の第二の親近処」と名づける。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 もし菩薩が、後世の悪い世で、恐れる心無く、この法華経を説きたいと欲するならば、まさに、「菩薩の行処」と「菩薩の親近処」に入るべきである。

 国王、王子、大臣、長官、悪い遊戯をしている者、「旃陀羅」、「屠殺人、漁師、猟師」、外道、バラモンから常に離れなさい。

 「増上慢の」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっている」人、「小乗」、「中途半端の仏法」に貪欲に執着している経典の似非えせ学者、戒を破っている出家者、名前だけの(実体が伴わない偽の)阿羅漢、戯れて笑うことを好んでいる女性の出家者、「五欲」、「五感の欲望」に深く執着して現在での「滅度」、「悟り」を求めている諸々の女性の在家信者に親しみ近づくなかれ。

 もし、これらの人達が、好奇心で、菩薩の所に到来して、仏道について聞いたら、菩薩は、恐れる所が無い心で、希望を抱かず、これらの人達の為に、説法しなさい。

 (性的な誤解をされないように、)未亡人、処女、諸々の「不男」、「性器に障害が有る人」に親しみ近づくなかれ。

 「屠児」、「屠殺者」、「魁膾」、「死刑執行人」、猟師、漁師、利益の為に殺害する者、肉の販売で自ら生活する者、遊女といった、これらのような人に親しみ近づくなかれ。

 悪い遊戯をしている者、相撲をしている者、種々の遊戯をしている者、諸々の遊女などに親しみ近づくなかれ。

 (性的な誤解をされないように、)独りで、人目の無い場所で、女の為に、説法するなかれ。

 説法する時は、戯れて笑うなかれ。

 人里へ入って乞食こつじきするならば、一人の比丘を引き連れなさい。

 もし比丘がいなければ、一心に、仏について思いなさい。

 これを「菩薩の行処」と「菩薩の親近処」と名づける。

 この「菩薩の行処」と「菩薩の親近処」という二つの物によって、安楽に、法華経を説くことが可能である。

 「菩薩という上の仏法を行おう」とか「独覚という中間の仏法を行おう」とか「声聞という下の仏法を行おう」とするなかれ。「『有為な』、『作為的な』仏法を行おう」とか「『無為な』、『自然な』仏法を行おう」とするなかれ。「真実のほうの仏法を行おう」とか「真実ではないほうの仏法を行おう」とするなかれ。

 「誰々は、男である」とか「誰々は、女である」と分別するなかれ。

 「諸法」、「全てのもの」を得ようとし過ぎるなかれ。

 全てのものを知ろうとし過ぎるなかれ。

 全てのものを見ようとし過ぎるなかれ。

 これを「菩薩の行処」と名づける。


 一切の「諸法」、「全てのもの」は、くうである。

 全てのものは、存在していない。

 全てのものは、永遠に不変ではない。

 全てのものは、引き起こされていないし、滅びない。

 これを「知者の親近処」(、「菩薩の親近処」)と名づける。


 転倒して(誤って)、

「『諸法』、『全てのもの』は、存在している」とか、

「全てのものは、虚無である」とか、

「全てのものは、真実である」とか、

「全てのものは、真実ではない」とか、

「全てのものは、生じている」とか、

「全てのものは、生じていない」と、分別しているのである。


 人里離れた静かな場所にいなさい。

 その心を正して修行しなさい。

 須弥山のように、不動に安定しなさい。

 「虚空のように、一切の『法』、『もの』は皆、無で、存在していない」と観察しなさい。

 「一切のものは、堅固ではない」、

「一切のものは、生じていない」、

「一切のものは、出現していない」、

「一切のものは、不動である」、

「一切のものは、不退転である」、

「一切のものは、『一相』、『究極的な唯一の相』に常に留まっている」と、観察しなさい。

 これを「(菩薩の親)近処」と名づける。


 出家者が、私、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、この「菩薩の行処」と「菩薩の親近処」に入って、この法華経を説く時、恐れるものは無い。

 菩薩が、ある時、静かな部屋に入って、「正憶念」、「正しく記憶したもの」によって、法華経の意義に従って、「法」、「もの」を観察して、禅定より起きて、諸々の国王、王子、役人、民、バラモン等の為に、「開化して」、「教え導いて」、この法華経を広く説けば、その心は安穏として、恐れるものは無い。

 文殊師利菩薩よ、これを「菩薩が最初の法に安住している」と名づける。


 (このようにすれば、菩薩は、)後世で、法華経を説くことが可能である。


 文殊師利菩薩よ、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、末法の中で、この法華経を説きたいと欲するならば、まさに、「安楽行」に留まるべきである。

 くちで説いたり、読んだりする時、人や経の過ちを願って説くことなかれ。

 (自分以外の)他の諸々の法師を、思い上がって、見下すなかれ。

 他人の好き嫌い、他人の長所や短所を説くなかれ。

 声聞の段階の人について、名前を言って、そのあやまち、悪い所を説くなかれ。

 また、(声聞の段階の人について、)名前を言って、その美点をほめたたえるなかれ。

 怨んだり嫌ったりする心を生じるなかれ。

 このような安楽な心を善く修行すれば、諸々の聴衆は、その意に逆らわない。

 非難されて返答を迫られたら、「小乗法」、「中途半端の仏法」によって答えるなかれ。

 ただ、「大乗」、「法華経」をその人の為に解説して、「一切種智」を得させなさい。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 菩薩は、安穏に仏法を説くことを常に願いなさい。

 清浄な心の境地で、「牀座施しなさい」、「座や立場を他人に譲ってあげなさい」。

 油を身に塗りなさい。

 身のちり、汚れを洗浄しなさい。

 新しい清浄な衣を着なさい。

 内外を共に清浄にして、安らかに法座に処して、質問に応じて、生者の為に、法華経を説きなさい。

 出家者の男女と在家信者の男女がいても、国王、王子、大臣、役人、平民がいても、微細な絶妙な意義について、柔和な顔つきで、人々の為に、法華経を説きなさい。

 非難されて返答を迫られたら、法華経の意義に従って、答えなさい。

 「因縁」、「譬喩」を説明して、「方便」、「便宜的な方法」で分別して、皆に、無上普遍正覚を求める心を起こさせなさい。

 徐々に利益を増やして仏道に入って、怠惰な心と想いを除去して、諸々の憂い悩みから離れて、思いやりの心で、仏法を説きなさい。

 昼も夜も常に、諸々の「因縁」、量り知れないほど無数の「譬喩」で、無上の仏道の教えを説いて、「衆生」、「生者」に仏の知見を開示して、ことごとく、喜ばせなさい。

 衣服、寝具、飲食物、医薬品の中にいても、(衣服、寝具、飲食物、医薬品を)希望することなかれ。

 ただ、一心に、仏法が説かれる「因縁」、「理由」について思って、仏道を成就することを願って、「衆生」、「生者」にも、また、同様に、仏道を成就させなさい。

 これは、大いなる利益であるし、安楽に捧げものを捧げることである。

 私、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、出家者が、この妙法華経を演説できれば、心から嫉妬、怒り、諸々の障害が無くなるし、憂いが無くなるし、悪口を言う者がいなくなるし、刀で斬ってこられたり杖で叩いてこられたりする恐れが無くなるし、追放されることが無くなる。(なぜなら、)

 忍耐に安らかに留まるからである。

 知者は、このように、善く、その心を修行して、安楽に留まることが可能である。

 私、釈迦牟尼仏が今まで説いたような、そのような人の功徳は、幾千、幾万、幾億劫、数えたり、例えたりしても、説き尽くすことが不可能なのである。


 文殊師利菩薩よ、後世の末法の世で、仏法が姿を隠そうとする時、この法華経を受け入れて保持して読む者は、嫉妬、こびへつらい、ごまかす心を懐くなかれ。

 仏道を学ぶ者を見下して悪口を言うなかれ。その者の長所や短所をうかがい求めるなかれ。

 出家者の男女と在家信者の男女、声聞の段階を求める者、「辟支仏」、「独覚」の段階を求める者、菩薩の道を求める者を悩ますなかれ。それらの人達に疑惑や後悔を生じさせるなかれ。それらの人達に、このように言うなかれ。

 「あなたは、仏道を離れ去っていて、仏道から、とても遠くて、終に、『一切種智』を得ることは不可能である。理由は何か? (と言うと、)あなたは、『放逸な人』、『怠け者』である。(なぜなら、)仏道を怠けているからである」と。


 「諸法」、「全てのもの」について議論して戯れるなかれ。議論して争うなかれ。議論して競争するなかれ。


 まさに、一切の「衆生」、「生者」に、大いなる思いやりの想いを起こしなさい。

 「諸々の如来、仏は、思いやり深い父である」という想いを起こしなさい。

 「諸々の菩薩は、大いなる師である」という想いを起こしなさい。

 十方の諸々の大いなる菩薩を、常に、まさに、「深心」、「真心」で、恭しく敬って、礼拝しなさい。

 一切の「衆生」、「生者」に、平等に、仏法を説きなさい。

 「仏法に従っているから」と、(不平等に、)「仏法を多く説こう」とするなかれ。「仏法を少なく説こう」とするなかれ。

 「仏法を深く愛好している者であるから」と、(不平等に、)その者の為に「仏法を多く説こう」とするなかれ。

 文殊師利菩薩よ、このようにしている菩薩が、後世の末法の世で、仏法が姿を隠そうとする時、この第三の「安楽行」を成就すれば、この法華経を説く時、悩まされて心を乱される可能性が無いし、同じく学ぶ好い者を得て共に、この法華経を読むことができる。

 また、来て、法華経を聴いて受け入れる、大衆を得ることができるし、

聴き終わったら、く、保持し、

保持し終わったら、く、読み、

読み終わったら、く、説き、

説き終わったら、く、書いたり、他人に書かせたりして、

この法華経に捧げものを捧げて、恭しく敬って、尊重して、ほめたたえる。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 もし、この法華経を説きたいと欲するならば、まさに、嫉妬、怒り、思い上がり、こびへつらい、ごまかし、邪悪、虚偽の心を捨てなさい。

 常に、正直な行いを修行しなさい。

 他人を軽蔑するなかれ。

 仏法を議論して戯れるなかれ。

 このように言って、他人に疑惑や後悔を生じさせるなかれ。

 「あなたは、仏になることができ得ない」と。


 このようにする仏の弟子は、仏法を説きなさい。

 常に、柔和でありなさい。

 く忍耐しなさい。

 一切の生者を思いやりなさい。

 怠け心を生じるなかれ。


 十方の大いなる菩薩は「衆生」、「生者」をあわれんで仏道を修行しているので、まさに、「十方の大いなる菩薩は、私の大いなる師である」と恭しく敬う心を生じさせなさい。


 「諸仏は、無上の父である」という想いを生じさせなさい。


 思い上がって他人を見下す心を打ち破りなさい。

 妨げ無く自由自在に、仏法を説きなさい。

 第三の法「安楽行」とは、このような物なのである。

 知者は、まさに、守りなさい。

 一心に、安楽に行えば、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」に敬われる。


 文殊師利菩薩よ、後世の末法の世で、仏法が姿を隠そうとする時、法華経を受け入れて保持する者は、在家信者や出家者の中で大いなる思いやりの心を生じさせて、菩薩ではない人々の中で大いなる思いやりの心を生じさせて、このように思いなさい。

 「これらの人々は、仏の『方便』、『便宜的な方法』の『随宜の』、『相手に応じた』説法(である法華経)を大いに失ってしまっているのである。法華経を聞いていないし、知らないし、悟っていないし、たずねないし、信じないし、理解しない。その人々が、この法華経をたずねなくても、信じなくても、理解しなくても、私は、『阿耨多羅三藐三菩提』、『無上普遍正覚』を得て仏に成った時、どの地にいても、応じて、神通力と知力によって、この人々をこの法華経の法の中に引き入れて住まわせよう」と。


 文殊師利菩薩よ、このようにする菩薩は、私、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、この第四の法を成就すれば、この法華経の法を説く時、過失が無い。

 常に、出家者の男女と在家信者の男女、国王、王子、大臣、平民、バラモン、「居士バイシャ」、「商人」などに捧げものを捧げられて、恭しく敬われて、尊重されて、ほめたたえられる。

 虚空の諸々の天人は、説法を聴くために、常に、従って、そばに仕える。

 集落、町、人里離れた静かな林の中にいて、人が来て非難して返答を迫ろうと欲しても、諸々の天人は、昼も夜も常に、仏法のために、この菩薩を護衛して、聴衆を皆、喜ばせる。

 理由は何か? (と言うと、)

 この法華経は、一切の過去、現在、未来の諸仏の神通力で護られているからである。


 文殊師利菩薩よ、この法華経は、量り知れないほど無数の国の中で、名前を聞くことすらでき得ないほどなのである。

 まして、見て、受け入れて保持して、読むことができ得ようか! いいえ! 難しい!


 文殊師利菩薩よ、例えば、このような物なのである。

 強力な転輪聖王が、威力、勢力によって、諸国を降伏させたいと欲する。

 諸々の小国の王が、その転輪聖王の命に従わない時、転輪聖王は種々の兵達を起こして討伐しに行く。

 転輪聖王は、兵達の中で、戦いで功績が有った者を見ると、大いに喜んで、功績に応じて、褒賞を与える。あるいは、田畑と住宅、集落、町を与える。あるいは、衣服、身を荘厳に飾る装身具を与える。あるいは、種々の珍しい宝、金、銀、瑠璃るり硨磲しゃこ碼碯めのう珊瑚さんご琥珀こはくゾウ、馬、乗り物、「奴婢」、民を与える。

 (しかし、)唯一、「髻」、「頭上で束ねた髪」の中の光明に輝く宝玉だけは、与えない。

 理由は何か? (と言うと、)

 王の頂上に有るのは、この唯一の髻の宝玉だけだからである。

 もし、この髻の宝玉を与えたら、王の諸々の眷属は必ず大いに驚き怪しむ。

 文殊師利菩薩よ、如来、仏も、また、同様なのである。

 仏は、禅定と知力によって、仏法、仏国土、三界の王となることを得ている。

 諸々の魔王が従わなければ、如来、仏は、賢者達や聖者達という諸々の将軍と共に戦う。

 仏も、また、魔との戦いで功績が有った者を見ると、心で喜んで、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」の中で、その者の為に、諸々の経を説いて、その者の心を喜ばせて、禅定と、解脱と、「無漏の」、「煩悩の無い」、「五根」と「五力」と、「諸法」、「全てのもの」という財宝と、「涅槃」という城を与えて、「(あなたは、)『滅度』、『悟り』を得た」と言って、その者の心を仏道へ引き入れて導いて、皆、喜ばせる。

 しかし、その者の為に、この法華経を(すぐには)説かない。

 文殊師利菩薩よ、転輪聖王が、諸々の兵達で、大いなる功績が有る者を見ると、心をとても喜ばせて、信じ難いほど貴重な、妄りには与えない、この髻の宝玉を今、与えるような物なのである。

 如来、仏も、また、同様なのである。

 仏は、三界の中で大いなる法の王であり、仏法で一切の「衆生」、「生者」を教化する。

 如来、仏も、また、「五陰魔」、「煩悩魔」、「死魔」と、共に戦った賢者と聖者の軍で、「三毒」を滅ぼし、三界を脱出し、魔の網を打ち破った、大いなる功績が有った者を見た時、大いに喜んで、「衆生」、「生者」を「一切種智」に至らせることが可能である、一切の世間で多くの人が怨んで信じ難いので、以前は説かなかった、この法華経を今、説く。

 文殊師利菩薩よ、この法華経は、諸々の如来、諸仏の第一の説なのである。

 法華経は、諸々の説の中で、最も、とても、深いのである。

 法華経は、最後に与える経なのである。

 例え話の強力な転輪聖王が長い間、護っていた髻の、光明に輝く宝玉を今、与えるような物なのである。

 文殊師利菩薩よ、この法華経は、諸々の如来、諸仏の秘密の蔵なのである。(法華経は諸仏の秘密の宝庫なのである。)

 法華経は、諸々の経の中で、最上の経なのである。

 この法華経を、「長夜」、「輪廻転生」の間、守護していて妄りには説かなかったが、初めて今日、あなた達に与えて、説明しているのである。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。


 常に忍辱を行い、一切の生者をあわれむことで、仏が、ほめたたえる法華経を演説することが可能となるのである。

 後世の末法の世、時代で、この法華経を保持する者は、在家信者と出家者と菩薩ではない人々に対する、このような思いやりを生じさせなさい。

 「これらの人々は、この法華経を聞かないし、信じないで、大いに失ってしまう。私は、仏道を会得したら、諸々の『方便』、『便宜的な方法』で、これらの人々の為に、この法華経の法を説いて、これらの人々を、その法華経の法の中に住まわせよう」と。


 例えば、強力な転輪聖王が、兵で、戦いで、功績が有った者に、諸々の物、ゾウ、馬、乗り物、身を荘厳に飾る装身具、諸々の田畑と住宅、集落、町、衣服、種々の珍しい宝、「奴婢」、財宝を喜んで与えるような物なのである。

 勇ましく健やかに困難な事を成し遂げた者に、転輪聖王は、髻の中から光明に輝く宝玉を外して与える。

 如来、仏も、また、同様なのである。

 仏は、「諸法」、「全てのもの」の王である。

 仏には、忍辱する大いなる力がある。

 仏には、智慧という宝の蔵がある。

 仏は、大いなる思いやりで、仏法の通りに、世を教化する。

 仏は、一切の人が諸々の苦悩を受け、解脱を求めることを欲し、諸々の魔と戦っているのを見ると、これらの「衆生」、「生者」の為に、種々の法を説き、大いなる「方便」、「便宜的な方法」で諸々の経を説く。

 転輪聖王が髻から光明に輝く宝玉を外して与えるように、仏は、「『衆生』、『生者』が力を得終わった」と知ると、最後に、生者の為に、この法華経を説く。

 この法華経は、尊い経なのである。

 この法華経は、諸々の経の中で、最上の経なのである。

 私、釈迦牟尼仏は、法華経を常に守護して妄りには開示しなかった。

 今、まさに、法華経を開示する時なのである。

 あなた達の為に、法華経を説く。

 私、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、仏道を求める者が、安穏に、この法華経を演説したいと欲するならば、まさに、このような四つの法に親しみ近づきなさい。

 この法華経を読む者は、常に憂い悩みが無くなるし、病気が無くなるし、顔色が鮮やかに白くなるし、貧困で困窮する者として生まれないし、身分の低い者として生まれないし、醜い者として生まれない。

 「衆生」、「生者」は、賢者や聖者を慕うように、法華経を読む者を見ようと願う。

 天人の諸々の童子は、給仕と成る。

 刀で斬ってこられたり、杖で叩いてこられたりしない。

 毒で害することは不可能である。

 もし人が法華経を読む者の悪口を言ってしまったら、くちが閉塞してしまう。

 百獣の王である獅子ライオンのように、恐れること無く、巡ることができる。

 智慧の光明は、太陽が照らすかのようになる。

 夢の中では、妙なる事だけを見る。

 諸仏が「獅子の座」、「仏の座」に坐禅して、諸々の出家者達に囲まれて、説法するのを見る。

 龍神、阿修羅などが恭しく敬って合掌するのを見る。

 自身が、龍神や阿修羅などの為に、説法するのを見る。

 諸仏が、身の相が金色で、無量の光を放って一切を照らして、「梵音声」、「清浄な音声」で諸法を演説するのを見る。

 仏が、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」の為に、無上の法を説くのを見る。

 自身を見ると、合掌して仏をほめたたえて、仏法を聞いて喜んで捧げものを捧げて、「陀羅尼」、「真理の保持」を得て、不退転の智慧を証している。

 仏は、その生者の心が「深く仏道に入った」と知ると、その生者の為に、「無上普遍正覚を成就する」と、「授記する」、「仏に成れる予言をする」。

 あなた達、善い男子よ、まさに、来世で、無量の智慧を得て、仏の大いなる「道」、「真理」を会得する。

 仏国土は、荘厳に清浄で、広大で、無比である。

 仏国土には、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」がいて、合掌して、仏法を聴く。


 自身が「山林の中にいて、善い法を修習して、諸法の実の相を証して、禅定に深く入って、十方の仏を見る」のを見る。


 諸仏が、身が金色で、多数の幸福の相で荘厳に飾られていて、仏法を聞き、他人の為に仏法を説く。

 常に、このような好い夢が有る。


 夢で、国王と成ったが、宮殿と眷属と上品な妙なる「五欲」、「五感の欲望」を捨てて、道場である菩提樹の下に行って、「獅子の座」、「仏の座」に処して、仏道を探求して七日を過ぎて、諸仏の智慧を得て、無上の仏道を成就し終わると、起きて、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」の為に「法輪を転じて」、「法を説いて」、幾千、幾万、幾億劫も経ってから、「無漏の」、「煩悩を無くす」妙なる法を説いて、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」を仏土へ渡して、その後、まさに、煙が尽きるように、灯が消えるように、「涅槃に入る」、「肉体が死ぬ」。


 もし後世の悪い世の中で、この法華経という第一の法を説けば、その人は、今まで説いた諸々の功徳のような大いなる利益を得る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る