画家と妖精

陶子

1835年

第一話 画家と不機嫌な少女


 もう少しで夜が明けようとする肌寒い初夏の朝。


 ジョンは窓際の机に置いた木製の虫かごを至近距離で覗き込みながらスケッチしていた。中には一羽のアゲハ蝶がいる。


 僅かでも手元が狂うのが嫌で、無意識に呼吸を浅く、瞬きは少なく一心に描いていく。しかし、それほどの集中力も窓から差し込んだまばゆい光に遮られた。


「会社、面倒くさいなぁ……このまま描いていたい……」

 

 久々の好天に目を細めながら背伸びをする。ジョンのベージュブロンドの髪や長い睫毛が光に透けて輝いた。そこへ、階下から陽気なよく通る声が聞こえて来た。


「ジョーン、朝ごはんできたわよ!」


 彼女はジョンの母親のアンナである。ジョンは素早く出かける準備を済ませると、階段を駆け下りた。食卓には、目玉焼き、ベーコンのかけらと玉ねぎが入ったスープ、固い全粒粉のパンが入ったバスケットが並んでいる。


「挿絵の仕事、間に合いそう?」

「なんとか」


 思春期特有の母親への照れからボソボソとぶっきらぼうに答えると、アンナより一足早く椅子に座って朝食を急いで食べ始める。


「なんとか絵の方で目が出るといいわねぇ。そういえば、今日からバーさんの娘ちゃんが私の読み書きデイムスクールに入るのよ」

「そう」


 ジョンの食事の手は止まることはなかったが、中性的な印象を与える眉がピクリと動いた。バーさんとは近所にあるコーヒーハウスのオーナーだ。数年前に亡くなったジョンの父親と店主は長年の親友だった。


 さて、最後にパンを頬張り水を飲み干すと、机に置かれたブリキのランチボックスを麻のショルダーバッグに突っ込んで「いってきます」と立ち上がった。


「猫背は治しなさいって言ってるでしょ。男前が台無しよ〜! いってらっしゃい!!」

「いってきます」


 テラスハウスを出てすぐに猫背に戻ったジョンの頭上を、先ほどまでは無かったどんよりと暗い雲に覆い、湿気を帯びた風も吹き始めた。天気が急に変わるのはよくあることで、ジョンは小走りに会社へ向かう。


 どこか陰鬱とした空気の中、馬の糞や汚水で溢れる水溜りを避けながら進み、細い路地に座り込む薬物中毒者達を尻目に、ジョンは勤務先である印刷所の建物へ到着した。ここで働き始めて四年の月日が経つ。


 職場に友と呼べる人間はいなかったが、仕事は黙々と活字を組み合わる作業なため、人と話すのが苦手なジョンには向いていた。


 今日もいつもと同じ淡々とした一日を送ると思っていたら、一部の女性社員たちがジョンに気付いてそばにやって来た。


「おはよう、ジョン。あなたどうして出社しているの? 今日はストライキよ」


 目を丸くして、活字が収納された棚の近くにあるカレンダーに目をやる。そういえば数日前にストライキの通知が回っていた。


「すっかり忘れていました……帰ります」


 ペコリと頭を下げて引き返そうとしたところ、一人の若い女性社員に服を掴まれる。


「ねぇ、ジョン。今度の休みの日にディオラマを見に行こうってみんなで話していたんだけど、あなたもどう?」


 彼女たちは顔を見合わせながら「言っちゃった」とはしゃいでいる。


「すみません、仕事があるので……あの、僕は他にも仕事をしていて」


 ジョンは女性と話す気恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、丁寧に言葉を選んで断った。

 

「残念だわ」

「じゃあまた今度行きましょ!」


 愛想笑いを作って頷くと、彼女達は「かわいい」だの「お菓子をあげたい」だの口にし始めたので、そのままそそくさと会釈して帰路に着いた。


 仕事があるのは事実だ。副業である本の挿絵の仕事。


 大した金にならないが、ジョンはいつか専業の画家になることを夢見ており、印刷所経由で任された出版社からの仕事を好んで引き受けていた。次第に足早になる。今朝の作業の続きを早くしたくて仕方なかった。


 家に帰って扉を開けると、応接間から人の声がした。読み書きデイムスクールの生徒の親だろうと察しをつけ、挨拶するのが煩わしくてこっそりと階段へ向かった。しかし、「ジョン!」とアンナに呼び止められた。


「帰って来たの? 仕事は?」

「ストがあった」

「あらそう。最近多いわね〜。あのね、バーさんの奥様とお嬢様がいらっしゃったのよ」


 父の葬儀の際、ジョンは彼女達に会ったことがある。正確には身重のバー夫人とだが。恐らく、その時にお腹にいた子が娘なのだろうと思った。


 一呼吸置いてジョンが応接室に入ると、アンナの前に上品な雰囲気の女性が立っていた。


「こんにちは、ジョン」

「こんにちは、マダム」


 朗らかに微笑む女性のスカートが不自然に揺れる。


「メアリー、挨拶なさい」


 母親が一歩後ろに下がると、垂れた眉毛を持つしかめっ面の幼い少女が現れた。


 三、四歳くらいだろうか。肩で揃えられたダークブラウンの癖毛を触って俯きながら、「こんにちは」と消え入りそうな小さな声を発する。


 彼女の名前はメアリー・アン・バー。この物語の主人公であるジョン・アンスター・フィッツジェラルドの未来の妻だ。


(つづく)


ジョンのイメージ画像

https://kakuyomu.jp/users/mori-leo/news/16818792440201705705

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