第7話 海賊王の娘

 アウラは暗い森の中を歩いている。

 足元の地面さえ黒い、闇の森だ。


 進むにつれて背後から聞こえる潮騒は遠くなっていく。海を離れ、森の奥へと向かっていくアウラとは反対に海へ還っていく男たちの行列は共に戦った仲間たちだ。身体中の傷を誇らしげに、堂々として、誰も苦痛に顔を歪めてはいない。瞳は次なる戦場を見据えて輝いている。


 わたしも一緒に、とアウラは歩みを止めようとした。しかし掴まれた腕を引かれて無理矢理に歩かされる。それはよく見知った手だった。ごつごつして、細かい傷と肌荒れでざらざらの、大きな手――父の手だ。手首の先は太い腕から筋肉の盛り上がった肩へと続き、それに相応しい体躯を青い鱗鎧スケイルメイルが包んでいる。前を向いているので鉄の王冠を頂く色褪せた金髪しか見えない。


 この先に待つものが何か、アウラは知っていた。

 やめて、と抵抗しても力で敵う相手ではない。


 前方の暗闇に一人の男が立っている。父より一回り太い筋肉の塊で、発達した胸筋を見せつけるように胸を張り、ごつい両拳を腰に当ててアウラを待ち構えている。決して醜男ではない。豊かに波打つ金髪は肩まで伸び、綺麗に整えられた髭が力強い顎の輪郭を強調している。無駄に笑みを浮かべたりせず厳めしい表情で、野心に満ちた目をした――父の決めた許嫁だ。


 いつの間にか服装が鎧から青いドレスに変わっていた。助けを求めて周囲を見回すと、黒い木々の向こうから懐かしい声が漂ってくる。目を凝らせば、白い光が見えた。光は徐々にはっきりと、大きくなっていく。助けを求めて手を伸ばす。


『アウラ』


 懐かしい呼び声と共に光の中からほっそりした腕が伸びてきた。その手を掴むと、世界は純白の光に包まれて――。


「フィニの馬鹿」懐かしい声がそう言った。


 応じる男の声には聞き覚えがない。「相手はもう彼女の傷が戦いのものだって気付いてたさ。それに、ああ言えば責任を感じてすぐに退散するかと思ったんだ」


「フィニの馬鹿」


「くそっ……二回も馬鹿って言ったな。コランにも言われたことないのに!」


 アウラはゆっくりと目を開いた。ぼんやりした視界に浮かぶ赤毛の女性は、三年ぶりでもカティヤだと一目で分かる。彼女は「えっ?」と誰かに呼びかけられたようにそっぽを向き、それからアウラを見下ろして、二人は三年ぶりに見つめ合った。


「アウラ……」


「……ひさしぶり、カティヤ」


 彼女は複雑な表情をした。泣き出しそうに眉根を寄せ、怒ったような目で、口元には笑みを浮かべている。


「……うん、ひさしぶり。具合はどう?」


 言われてみれば、意識を失う瞬間まで感じていた苦痛が無くなっている。恐る恐る腕を動かし、上体を支えて起き上がっても痛みは全く無い。


「だいじょうぶみたい。カティヤが助けてくれたんだね」


 カティヤはほっとしたように小さくため息を吐いた。「秘密にしてよ?」


 周囲を見回すと、そこは木の根に覆われた洞穴の中だった。光源を持たない緑がかった不思議な光に満たされているので、全てがのっぺりして非現実的に見える。籠やら棚やら壺やらがあるので誰かの住処だろう。隣にはカティヤがあぐらをかいて座り、奥にいる見知らぬ男二人も同じようにしているが、彼らは何故かアウラを見ないようにして明後日の方向へ顔を背けていた。背後の気配に振り向くと、人間の姿をしたファーンヴァースが純白の長髪を流して見下ろすように立っている。


「ファーンヴァース様」


 アウラは肩越しに頭を下げた。ファーンヴァースは相変わらずの無表情と尊大な態度で僅かにうなずくのみ。しかし、ドラゴンとはそういうものだ。


「アウラ」カティヤに呼ばれて前を向くと、彼女は奥の二人をそれぞれ紹介した。「二人ともドルイドで、こちらの方がコラン老、こっちがフィニね。二人が助けてくれなかったら間に合わなかったかもしれない」


「治療のためとはいえ御身に触れたこと、お許しくだされ」と老ドルイドが頭を下げた。もう一人の、二〇代にも三〇代にも見える灰色の髪をしたドルイドも顔を背けたまま挨拶する。「はじめまして、アウラ姫。俺はフィニアスと言います。俺は見てませんのでご安心下さい。それで……今も見ないように努力しているので、とりあえず隠してもらえると助かります……」


 そこでやっと、アウラは自分が全裸なのに気付いた。上体を起こした時に、掛けられていた織布も腰まで落ちてしまっている。かあっ、と顔が熱くなった。


「ちょっ……ちょっと、カティヤ! 言って!」慌てて織布を持ち上げて、胸に掻き抱く。慌てるアウラを見てカティヤは笑った。


「あはは、まあ別にいいでしょ、減るもんじゃないし」


 睨みつけると、今度は視線を泳がせる。


(いたずらして怒られるとこうやって誤魔化そうとする。子供の頃から変わってない……)


 再び目が合った瞬間に、二人は声を出して笑った。三年という時間の溝が、あっという間に埋まっていく。ひとしきり笑い合ってから、アウラはカティヤに尋ねる。


「ところで、どうしてカティヤが?」


「エイリークが竜笛を使ってファーンヴァースを呼んだ」


 アウラは少なからず驚いた。竜笛はそれを授けたドラゴンにだけ聞こえ、一度だけ呼び出せる魔法の道具である。ドラゴンがこれを授けることはめったになく、北方で語り継がれる物語にもほんの数回しか登場しない。アウラの父エイリークはカティヤを養育した見返りとしてファーンヴァースからそれを授けられていた。


 もう二度と得られる機会はないであろう魔法の力を自分のために使ってくれたと知ってアウラは嬉しかった。しかし次の瞬間には許嫁の姿が脳裏に浮かんで、懐疑心が芽生える。


(わたしのため……とは、限らない)


「それで、あたしとファーンヴァースはファランティアから飛んで来たってわけ。比喩じゃなくてね。で、親父から直接頼まれた。いくさで行方不明になったアウラを探して欲しい、って。それから――」と、カティヤはこれまでの経緯を説明した。手がかりを求めて戦場跡に行き、戦場漁りの無法者に襲われたことや、その後ラーウスたちを見つけて貝殻の首飾りをもらったこと、魔法でアウラを探したこと、ドルイドのフィニとの出会い、そしてエリアスの来訪。


「エリアスがここに!?」


 思わず声が飛び出す。そこへフィニが口を挟んできた。


「でも心配いりませんよ。俺が魔法でアウラ姫の髪の色を変えたんです。もっと準備する時間があれば他にもやりようはあったかもしれないけど……でも、瞳の色まで変えてあったんですよ? もし目を開けられてもいいようにと思って」


「で、そこまで気を回しておきながら、フィニの馬鹿な一言で面倒なことになってね」と今度はカティヤが口を出す。


「三回目」フィニが不機嫌な声でそう言い、二人は睨み合った。


「何があったの?」


 二人に尋ねると、カティヤが先に答えた。「あんたの怪我がいくさに巻き込まれたせいだってフィニが言って、そしたらエリアスが自分にも責任があるから明日も見舞いに来るとか言い出しちゃって。その場限りの言葉って感じじゃなかった。本気だと思う」


「そう、なの……」


「だからまだ本調子じゃないと思うけど、暗くなったらここを離れよう。夜陰に紛れてならファーンヴァースも飛んでくれる。今ならまだ夜の半分くらいは暗く――」


 アウラは考えるのを止めて顔を上げた。「まだ帰れない」


「は?」


「明日エリアスがここに来るのなら、仲間の敵を討つまたと無い機会じゃない。エリアスを討ち取れば、負けを埋め合わせるには充分な働きにもなるし」


 カティヤは眉間に小さく皺を寄せた。「本気で言ってんの?」


 アウラが真剣な顔をしてうなずくと、カティヤは険しい表情に変わった。「確かに、子供の頃のエリアスはひょろくて弱そうだった。でも今は一人前の北方の男って感じになってたよ。動きは鈍かったし、何故かふらふらしてたけど、まともにやり合って簡単に倒せるような相手には見えなかった。それに――」


 カティヤを無視して、アウラはフィニに尋ねる。「ドルイドのフィニ。髪と目の色を変える魔法は明日も使える?」


「まあ、それは難しい魔法じゃないんで、できますけど……」


「それなら怪しまれずに近づける。上手く行けば二人きりになれるかも」


 さっそく計画を立て始めたアウラの肩をカティヤのほっそりした指がきつく掴んだ。「聞いて、アウラ。それは駄目。あんたを助けてくれたドルイドに恩を仇で返すことになる。ドルイドは中立で無害だから無視されてんの。あんたを助けたって知られたら、ドルイドはエイリークに味方したことになってしまう。そのうえエリアスを殺す手助けまでしたとなればどうなるか想像できるでしょ。間違いなくヨルゲンは本気でドルイド狩りを始める。もし逆の立場であんたが殺されたら、親父が何をするか想像してみなよ」


 反射的に「それは……!」と言いかけて、アウラは口をつぐみ、唇を噛んだ。反論の余地はない。確かにアウラは仲間を殺された怒りと、勲功を立てなければという焦りでドルイドの事情など考えていなかった。


 しかし、それとは別に、アウラは悲しかった。


 子供の頃から見知った男たちが目の前で殺され、そのうちの何人かはアウラを守るために死んだのだ。この怒りを、共に育ったカティヤなら分かってくれると思っていた。それとも三年という年月と竜騎士という立場が彼女を変えてしまったのだろうか。先ほどの話でも隠れていたラーウスたちを見捨てたような感じだった。


 それにきっと、カティヤは知らないのだ。スケイトルムの父のもとに戻れば、アウラにはもう結婚という未来しか残されていないことを。戦士として育てられながら、この戦いが最初で最後のものだったということを。いずれ玉座を継いで戦士たちを率いるのだと信じていた未来が、誰あろう、その夢を与えた父の手によって潰えたということを。


 たとえ挑戦権を行使しても、父にも、父の用意した許嫁にも、おそらく勝てない。打ち負かされたうえで従えさせられるという、より屈辱的な結果にしかならないだろう。このまま戻るくらいなら、いっそ討ち死にしたほうがマシだった――怒りの炎がメラメラと燃え上がり、悔しさも悲しみも飲み込んでいく。


(だけどわたしは、魔女に頼ったシーリなんかとは違う。自分の力で運命に立ち向かうんだ)


 決心して、アウラはうなずいた。「……わかった」


 カティヤは安堵したようだった。先走られないようアウラは言葉を急ぐ。「だけど、今夜発つのは止めよう」


「えっ?」


「だって、明日になってわたしだけ居なくなってたら怪しくない? 少なくとも明日はエリアスに会って、〝大丈夫です。もう心配いりません〟って言わないと。もちろん髪と目の色は変えて」


 今度はカティヤが口をつぐむ番だった。少しして、彼女は呟く。「そう、だね。確かに……」


 それで決まりというように、アウラは矢継ぎ早にフィニへ頼む。「そういうわけだから明日は魔法をお願い。それと服も貸してもらえないかな。あとできたら食べ物と飲み物が欲しいんだけど……」


「ああ、はい、もちろん」


 フィニは立ち上がり、なるべくアウラの肌を見ないように気を付けて洞穴から出て行った。きっと善い人なのだろう――良心の痛みはぐっと口を結んで堪える。


(それでも……彼らを犠牲にしてでも、わたしは……)

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