第1話 戦場漁りの人生

 ビョルンは六つの水袋を両肩と両腕に三つずつ下げて、森の中をよたよたしながら歩いていた。九歳――としているが、自分でも定かではない――の少年には重過ぎる荷物だ。固くごわごわした茶色の髪と太い眉、そして黒目がちの瞳が、北方では身近な動物である熊に似ている。しかし今はまだ、やせっぽちの子熊でしかなかった。


 雨上がりの森は水気をたっぷり含んでいて、樹上から落ちてくる水滴はまた雨が降ってきたのかと勘違いするほどだ。しかし見上げれば、鬱蒼とした葉の隙間から青空が見えた。寒い時期なら首筋に忍び込む水滴は不快だろうが、初夏の今はそれほどでもない。それに、どうせ茂みを通り抜ければびしょ濡れだ。


 ビョルンがやっと仲間たちに追いつくと、顔を見せた瞬間に怒鳴られた。「おっせーぞ、ビョルン! のろのろしてんじゃねえ! 他の連中に先を越されちまうだろうがっ!」


「すんません!」


 間髪入れずに謝る。ほんの一瞬でも反抗の意思を示せば、せっかく手に入れたこの居場所を追い出されてしまうかもしれない。


 怒鳴ったのはこの集団のリーダーでセムエルという中年男だ。髪は薄くぼさぼさで、顔は無精髭に覆われ、鼻は折れて曲がったまま、歯を何本も失っていて口臭が酷い。他の仲間も似たり寄ったり。ビョルンから見れば父親ほどの年齢で、ぼろを纏っている。しかし、たとえ拾い物で不揃いだとしても武具を身に着けているだけましだ。


「あ、痛っ」と、古びたナイフの先で爪の間のカスをほじくっていた仲間の一人が言った。手元が狂ったらしい。そこへ、やはり仲間の一人であるイーロが木々の間から姿を現した。一番年が近く、ビョルンは〝兄貴〟と呼んでいる。


「セムエル、浜には誰もいない。今のうちだ」


「よし。野郎ども、行くぞ」


 セムエルの一言で仲間たちはぞろぞろと動き出した。ビョルンは荷物係として置き去りにされた荷物を拾い集めて後を追おうとしたが、少年に持てる荷物の量は限られている。困っていると、イーロを含む二人が戻ってきて荷物持ちを手伝ってくれた。


 セムエルとその仲間たちは無法者だが、たぶんましな部類だ。悪い人達ではない、とビョルンは思っている。優しいわけでもなく、命令口調で怒鳴られてばかりだが、意味も無く殴ったり蹴ったりはしない。今のように時々は手も貸してくれる。


 やがて黒々とした森の地面は白みを増して、木々はまばらになり、前方が明るくなってきた。顔を上げたビョルンは眩しさに目を細める。背の低い木々の間から、強い日差しの照りつける白い砂浜とぼこぼこ突き出る黒い岩がいくつか見えた。青い空と蒼い海、波の音は爽やかで海鳥たちが猫のような声で歌っている。


 思わず駆け出したくなるような初夏の浜辺。しかし潮風に混じる死臭が、そんな気分にはさせてくれない。浜には戦いの跡が生々しく残っていた。破壊され燃やされた船の残骸、割れた盾、折れた矢、曲がった剣、血を吸って黒ずんだ砂、そして死体、死体、死体。


 そこはつい先日、アード地方の王ヨルゲンの従士団と、スケイルズ諸島の王エイリークの従士団とが激突した戦場跡だった。


 テストリア大陸の北方と呼ばれる世界は四つの地域に分かれている。世界の北端〈世界の果て山脈〉にあるスパイク谷。そこから流れ出るゴルダー河によって隔てられた内陸部の北側はアルダー地方、南側はアード地方である。そして、西の〈鉄の海〉に浮かぶ島々と、その沿岸の一部を含むスケイルズ諸島だ。それぞれの地域には、それぞれ王を名乗る権力者がいる。その従士団ともなれば数百人規模の軍隊である。


 イーロの言葉を借りれば、〝つまり、その浜でアードとスケイルズの戦争があったんだよ〟だ。


 セムエルが手で〝荷物を置け〟と合図したので、ビョルンは重荷から解放された。それから仲間たちがそろそろと浜へ出て行くのを見送る。また留守番かと落胆していると、イーロが手招きしたので、思わず小躍りしそうになった。ついに戦場漁りの仲間に加えてくれるつもりになったのか。その期待は半分裏切られた。イーロは浜を見渡せる位置に陣取ると、弓を用意しながら小声で告げる。


「いいか、ビョルン。俺たちの仕事は皆が目ぼしい物を漁っている間、他の戦場漁りとか盗賊とか……最悪の場合、アードかスケイルズの戦士が近付いて来ないか見張っていることだ。もし戦いになったら、皆が逃げ出せるように援護するんだぞ」


 ビョルンはうなずいて弓に手を伸ばしたが、イーロがさっと取り上げる。


「馬鹿、お前には無理だ。まだ引けねぇだろ。そこらへんから投げられそうな石を集めて来い。それから」と、イーロは腰から古びた剣を抜いて柔らかい地面に突き立てる。「いざ、って時はこいつを貸してやるよ」


 ビョルンは目を輝かせた。「すっげー、本物の剣じゃん。俺が使ってもいいの!?」


 ぺちっ、とイーロがビョルンの頭を叩く。「声がでけぇよ。ほら、石集め。それから俺の隣で周囲を警戒。俺は向こう、お前はあっちだ」


 言われたとおりにして、気合十分、周囲を警戒し始めたビョルンだったが、それも長くは続かなかった。敵が現れ、剣を手にした自分が逃げる仲間を救う――という妄想は、はなはだ虚しい。誰も来ないし、何も起こらない。時間がただ過ぎていく。時々、何か良い物を見つけたらしい歓声が小さく聞こえるくらいだ。


 見張りに飽きたビョルンはあくびをかみ殺して青空を見上げ、明後日の方向に視線を泳がせた。それで、戦場跡に近付いてくる気配のない人物にいち早く気付けた。背はあまり高くない。膝下まである外套マントを着て前をしっかり押さえ、フードを目深に被っているため正体不明である。イーロを小突いて知らせると、彼もその人物を観察した。


「他の……偵察かもしれない。仲間がいないか探せ」


 しかし、ビョルンはその人物が斥候とは思わなかった。仮にそうなのだしたら馬鹿だ。全く隠れようともせず、悠々と一人で歩いてくるのだから。目を凝らしても、後続の集団などは見えない。


 ビョルンとイーロが知らせるまでもなく、セムエルたちもその人物に気付いた。手に入れた獲物を足元に置いて、古びた剣や短剣を抜き、斧を構える。手馴れたもので、二人がさっと船の残骸に隠れ、外套マントの人物の不意を突けるようにと待ち構えた。外套マントの人物は、まるでセムエルたちが見えていないかのように歩いてきたが、目の前を立ち塞がれて、やっと足を止める。並び立つと大人の男とは思えない。頭一つぶんは背が低く、まるで女子供のように小柄だ。


 セムエルが外套マントの人物に話しかけた。ビョルンは耳を澄ませたが、波の音もあって聞き取れない。だが、その表情を見れば恫喝しているとわかる。仲間の一人が斧を構えてその隣に立ち、残りの二人はいつでも背後から襲いかかれる態勢。相手は絶体絶命だ。すぐに膝を屈するに違いない。


 しかし外套マントの人物は悠然と立ち続け、両者の雰囲気は剣呑さを増していく。セムエルは苛々した様子で隙間のある歯を剥きだし、ついには古びた剣を相手の胸にぴたりと突き付けた。それは単なる脅しだったろう。だが次の瞬間、ぱん、と外套マントの人物は、まるで木の棒を払うように素手で剣を払った。そしてもう片方の腕を目にも留まらぬ速さで振るうと、首をかしげたようにセムエルの頭がかくんと傾き、膝から崩れ落ちた。その胸倉を掴んで吊り上げる。


 一瞬の早業であった。その場にいる全員が突然の出来事に唖然とするなか、反応したのはイーロだけだった。キリリ、という弓を引く音でビョルンは我に返る。「くそっ、セムエルが邪魔だ」とイーロが漏らす。


 外套マントの人物は足腰の定まらないセムエルを片手で持ち上げているのだが、まるでビョルンたちがそこにいると知っているかのように、その身体の陰にいる。外套マントの中から伸びる腕は女のように細く、とてもそんな怪力があるようには見えない。


 隣にいた仲間が怒声と共に斧を振り上げた。外套マントの人物は驚くべき怪力で、その斧が振り下ろされる前にセムエルの身体を相手に投げつけ、二人の身体が重なった瞬間に剣を抜いてもろともに胸を貫き、引き抜いた。二人はそのまま折り重なって砂浜に倒れる。背後に回り込んでいた仲間が残骸の陰から飛び出し、外套マントの人物がさっと振り向いた。その瞬間を狙っていたのか、イーロは矢を放つ。外套マントの人物はその場で屈み、そのせいで矢は誰にも命中することなく、波打ち際まで飛んでいった。


「避けた!?」


 思わずビョルンが声に出すと、イーロは「運が良かったんだ。偶然、砂に足を取られただけだ」と自分に言い聞かせるように呟いた。


 二人同時に切りかかった仲間の間を、外套マントの人物は砂を蹴って立ち上がりながら、すり抜ける。二人の背後で振り向いた時には、左手にあった剣が右手に移っていた。仲間の一人の腹から桃色のはらわたがでろりと零れ落ち、それを見て初めて自分が斬られたと気付いたように慌ててはらわたをかき集めて腹の中に突っ込んだが、そのまま動かなくなった。もう一人は肘から先が無くなった自分の両腕を見て悲鳴を上げている。外套マントの人物が剣を一閃すると、悲鳴を上げた表情のまま、その首も落ちた。


「ひいっ」イーロが小さく恐怖の悲鳴を漏らす。


 ビョルンはといえば、もちろん恐怖のために身動きできないでいるのだが、同時に何か偉大な奇跡を見ているように魅了されてもいた。セムエルたち全員を難なく片付けた外套マントの人物は、ビョルンたちの潜む茂みに向かって歩き出し、徐々にその足は速まる。


「おい、ビョルン!」イーロが肩を掴んで強引にビョルンを振り向かせ、前後に揺らした。「おい、いいか、おい。この剣を貸してやるから、あいつがあの岩を過ぎた辺りで斬りかかれ!」


「ほ、ほ――」本気で言っているのか、とビョルンは反論したかったが歯の根が合わない。


「お前にやれるとは思ってねぇ。ただ一瞬でも動きを止められればいいんだ! この距離で俺の矢が外れるわけねぇし、避けられる人間なんていねぇ!」イーロは、がくがくとビョルンを揺らしながら捲くし立てる。「おめぇ、いつか王の従士団に入るんだって言ってたじゃねえか! これが初陣だ! やるんだ! やらなきゃ二人とも死ぬんだぞ!」


 されるがまま、ビョルンは無理やり剣を持たされ、立たされた。外套マントの人物は軽やかな足取りで走り始めている。


「行けっ!」


 ばしっ、と背中を叩かれてビョルンは茂みを突き抜けて浜に飛び出した。その勢いのまま、向かってくる外套マントの人物へと駆け出す。


「うあぁぁぁぁ!」悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げて、剣を頭上に振り上げ、外套マントの人物めがけて振り下ろした。


 さくっ、と剣先は柔らかい砂に刺さる。そこに相手の姿はない。

 夏の日差しを遮って、影がビョルンの上に落ちる。

 見上げた瞬間にビョルンは悟った。


(――女だ!)


 軽やかにビョルンを飛び越えて、風をはらんだ外套マントは翼のように広がった。細くてしなやかな手足、細い腰、大きくはないが明らかに男性ではない胸のふくらみ。フードが背中に落ちて、露になった顔にはまだ少女の面影さえある。肩に触れる程度に切った赤毛と、鋭い目つきが印象的だ。


 ビョルンは砂の中から剣先を持ち上げて、回転しながら横に凪いだ。自分を飛び越えた女の背中を狙ったつもりだったが、跳ね上げた砂さえ届かない。外套マントの女は常人離れした速さで、すでに木立の中に入り、逃げていくイーロを追っている。


 ビョルンは愕然とした。逃げるイーロの位置からして、ビョルンを送り出してすぐに脱兎のごとく逃げ出さねば行けるはずの無い距離にいる。最初から自分だけ逃げる算段だったのは間違いない。外套マントの女は繁茂した下草を飛び越えて、たん、たん、たん、と幹を蹴って木々の間を跳ね、二回目と三回目の跳躍の間にイーロと交差してその首を落とした。その動きはもはや凄腕の剣士だとか曲芸師の軽業だとかいう程度のものでは無い。エルフとかそういう、人間以上の生き物のそれだ。


 剣を落とし、へたり込んだまま、ビョルンは呆然と外套マントの女が戻って来るのを見ていた。女がぴゅんと風を切って剣を振ると、血の飛沫が葉を汚す。剣を鞘に収めた女の目つきの鋭さは、戦いが終わったせいか多少和らいでいるようだった。その緑色の瞳に、ビョルンの仲間を殺したという罪悪感は見られない。


「ねぇ」と外套マントの女に声をかけられて、ビョルンはびくんと身体を振るわせた。女は森の中を指差す。「あそこにある荷物、あんたらのでしょ。一目で盗品だと分かるような物以外を見繕ってさっさと行きな。まともな人を見つけて、家人に加えてくれるように頼みなさい。両親の遺品とか何とか適当言って、これは差し上げますって言えば無下にはされないでしょう」


 この恐るべき女は何者なのか――という疑問だけがビョルンを支配していた。外套マントの女は腰を曲げてビョルンの顔を覗き込み、指で彼の額を弾く。


「あいたっ!」


「聞いてる? 見逃してあげるって言ってんの。ただし、もう戦場漁りみたいな稼業からは足を洗って、真っ当な仕事を探すこと。続ければ、どんな大人になって、どんな最後を迎えるか、いま見たでしょ。いい?」


 がくがくとビョルンは首を縦に振った。とにかく今は、この恐ろしい女から逃げ出すのが最優先だ――慌てて立ち上がり、砂を蹴って森に向かう。


「あ、ねぇ!」


 茂みに半分入った所で呼び止められ、振り返る。


「覚えておいて。次に無法者として見かけたら、容赦しないから」


 その微笑にぞっとして、ビョルンは急いで逃げ出した。

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