7輪め


 奥につづく廊下は天井が高く、色彩豊かな壁画も見事だった。高い位置にある窓から差し込む光は回廊全体を照らすように工夫されている。しかし侵入者を防ぐために窓は小さく窮屈で、まるで鳥籠のようだとアキレウスは思った。

 アキレウスに気づいて奥仕えの女官たちが2人出てきた。

「こちらにご用でしょうか」

 女官たちは彼が男だと知らないようだった。しかし男性がいるべきでない場所に自分があらわれて無用な混乱をさせたくない。アキレウスはできるだけやわらかい声で言った。

「ミア様に用があって参りました。以前お住まいだった家の隣に住んでいたのです。その者がお目にかかりにきたとお伝えください」

「ミア様に……」

 女官たちは沈黙した。「わかりました。お会いになるかたずねて参りましょう」

 女官の一人が奥に消え、足音が遠ざかる。残った女官が武器を持っていないことを確認し、待つ間アキレウスをじっと観察していた。

 しばらくして再び足音が近づき、さっきの女官が戻ってきた。お入りくださいと小さく頭を下げる。

「ミア様がお会いになるそうです」

 アキレウスは一礼し、さらに奥へと進んだ。白い大理石が皮靴の足音を反響する。いくつもの部屋の入り口を通り過ぎ、女官たちがぴたりと止まった。アキレウスはにわかに胸がさわぎ立つのを感じた。

 ──1年ぶりか。

 きちんと会話をしたのはもっと前だが、最後にすれ違ったのはほんの1年前だった。ずっと昔のように感じる。ほとんど変わっていないだろうと思う一方で、アキレウスはミアの変貌が怖かった。あどけなかった少女が、今はミア様として王城の奥でかしずかれているのだ。

 部屋の中は廊下とおなじように天井が高かった。急に差し込む光がふえて、アキレウスは目がくらみそうになりながらお辞儀をした。

「どうぞ、お顔を上げてください」

 正面の席で声がした。静かな声だったがはっきりと聞こえた。すこしだけ大人の声にかわっていたが、やはりミアの声だった。

「失礼ながら……」

 アキレウスは顔を上げた。するとミアは想像したような豪華な衣装を羽織ることなく、女官がまとっているような簡素な衣を着ていた。髪飾りの宝石だけが輝いて見える。頬は痩せてすっきりとし、化粧のせいか白い肌はさらに透きとおって見えた。しかしよく見ると丸い目や小さくて形の良い唇はミアのままだった。

 大きく違っていたのはアキレウスを見つめる目だ。すれ違ったときに逸らしていた目が、今はしっかりと彼をとらえている。それがミアの印象を大人びたものに見せていた。

「まあ、どなたかと思いましたが。おひさしゅうございました」

「ミア様も……」

 それ以上はつづかなかった。アキレウスは熱いものがこみ上げてきて、胸がつまるように思いながらつづけた。

「……ご出立の日、挨拶に来てくださったそうですね。あのときは会えずに申し訳ありませんでした」

「いいえ……伺ったときが悪かったのでしょう」

「実はあのとき追ってみたのです。王城に向かう道をさがして、草原にも行きました。あなたがいるのではないかと思って」

 再開した喜びで、アキレウスの心は一年前のそのときに戻っていた。ミアは一瞬なつかしそうに目を細めた。心のなかでどんな思いがめぐっているのだろう。彼女の目はすこしだけ潤み、やがて優しくはっきりと言った。

「いつまでも子供ではありません」

「そうですね」

 ミアの言葉はアキレウスを現実に引きもどした。彼女は堂々として、アキレウスをしっかりと見ている。想像していた王城の奥で身をちいさくして震える少女とはちがった。アキレウスはミアが自分よりも冷静であると感じた。

「お元気そうでなによりです」

「ええ」

 アキレウスは喉のあたりまで出かけていた言葉を言わないことにした。

 ──あのとき、何を言いに来たのか。

 そんな事よりも今のことを考えるべきだと思った。あの臆病だったミアが置かれた立場を受け入れているのだ。奥の女性としてふさわしい振る舞いをしようとしている。その変貌ぶりはうつくしく神秘的ですらあった。

 するとアキレウスのなかで不思議と、身を隠すため女人の姿をしている自分への恥ずかしさが薄れていった。彼女はアキレウスが母親の制約でしばられているのを知っている。今もその目にかれを悼むような優しさがあった。アキレウス自身を見ようとしてくれていた。

「しばらく王城にいます。困ったときはいつでも声をおかけください」

 こうなるまでにどれだけミアは苦心しただろう。以前のミアを知っているからこそ、いじらしく愛おしかった。

「ありがとう存じます」

 ミアはゆっくりと手をまえに差し出した。白くてほっそりとした手だった。草原でひいたころの手と比べると細さが際立っていた。

 ──ミアが幸せならいいが……。

 か細い手をみて女官の言葉を思い出した。あの話が事実なら、ミアの未来は決して楽観できるものではなかった。世継ぎや勢力争いに巻き込まれて安全に過ごせるはずがない。

 アキレウスは手を取ると、そっと手の甲に額を寄せた。触れた柔らかい肌の感触は永遠に忘れないように感じた。


 ふたたびお辞儀して部屋を退出する。あかるい部屋にいたせいか廊下はほんのり影が落ちて見えた。短い時間でアキレウスの心は大きく変わっていた。

 ──同じだ。

 王の側に上ることは女性として幸せなことかもしれない。しかし権力の上に生きる以上、生き方を変えられ、抗えない運命に身を置くしかない。母の制約にしばられたアキレウスのように。

 むかしとは違う堂々とした彼女の姿が、アキレウスの胸をどこまでも焦がした。胸にしまったはずの思いが目覚めていた。それはミアへの思いに気づいた時とはちがう、強い覚悟をともなっていた。

 運命や制約に抗う方法はないのだろうか。アキレウスの脳裏にパトロクルの言葉がよみがえる。

『答えを知らずとも追求することはできる。追求すればするほど〝正しさ〟に近づき、〝強さ〟を手にするのだ』

 ──おれは、どうすればミアを守れるだろう。

 学ばなくてはならない。自分のためだけでなくミアを守るために。アキレウスは廊下を戻りながらも何度も奥をふりかえった。

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