たとえばおれがよわくなっても

 体がシンクロした感覚があった。

 同じタイミングで目をさましたような気がしたのだ。

 偶然にも、世良せらにも美玖みくにも朝寝坊の経験がなくて、彼らは起きようと思う時間にパチッと目が覚め、なおかつ二度寝ができないという体質だった。


(んー……、いいにおい。これ……私の好きなシャンプーのにおいだよぉ……)


 くすぐったい。顔にかかる長い髪を、そっと手ではらう。

 美玖はそのまま寝返りをうって、窓のほうを見た。

 うすいピンクのカーテンごしに届く、朝のやさしい光。


(ふふっ。女の子みたいな色してる。こんなの、あいつの部屋には似合わな―――――!!!!!)


 がばっ、とベッドから飛び起きた。

 一方、


(なんだこのにおい)


 しゃかしゃかと頭をかいて、自分の手を鼻にあてる。


姉貴あねきのだ。たしかバカたけぇ値段のヤツ。っかしいな……)


 のそっ、とベッドの上で上半身を起こす。

 濃いブルーのカーテンのスキマから、キラキラした早朝の陽光ようこう

 世良はあくびをした。


「ふわぁぁぁ~~~~あ、と。ん?」


 ベッドサイドに足をおろしたとき、かすかな違和感があった。

 パジャマのズボンの両足のつなぎめあたりに、つっぱる感じが。


「おい、これって……」


 世良の目がかがやいた。好奇心いっぱいの瞳。小学校高学年あたりで失ってしまった、あのなつかしいドキドキ。


ってるっ! おれ、ってるぞ!!! おっしゃー!!」


 急いでスタンドミラーの前に立つ。

 両手を腰にあてて、少し股間を前につきだしてみる。

 ちょっと手でさわってみる。かたい。カッチカチだ。最高。男らしいぜ。

 が、世良はため息をついた。

 くちびるを斜めにあげる。


「はは……っていう、夢なんだろ? わかってんだよ。ぬか喜びの夢は、何回もみてるから……」


 カタカタカタとテーブルの上のスマホがバイブした。

 相手は、新名あらな美玖。


「え、永次えいじ!? 起きてるっ!!?」


 その電話で、世良はこれが正真正銘の現実であることを確認できた。

 あわただしい確認のあとで通話を終え、二人は朝のルーティンをすまして――


「よう」

「……おはよ」


 タワーマンションを出たところで挨拶を交わした。


「これ……元どおりになったの?」

「知らねーよ」

「知らねーじゃなくて。自分の体のことじゃない。ちょっとは真剣に考えてよ」

「考えたってわからねー。おれぁバカだからな。おまえにまかせるわ」


 さらっと「おまえ」とか言うし……と、美玖はゆるふわの髪を耳にかき上げた。

 さわやかな秋の風が太ももの間を吹き抜けてゆく。この制服のスカートの着心地も、美玖にはなつかしい。

 細い指をあごにあてる。

 世良にまかされずとも、もともと美玖は〈考える〉タイプの女子だった。成績は優秀で、一時期は推理小説にハマっていたことだってあるのだ。


(えーと、昨日のお昼ごろにも、私たち元にもどってたよね……あのときは、すぐ元に――つまり私が永次の体に――もどった。そこに〈きっかけ〉があったとは思えない。自動的にそうなった感じだった)


 バス停までの並木道を歩きながら、さらに考える。


(じゃ、〈きっかけ〉って何? はじまりは……)


 私が幼なじみの悠馬ゆうまに告白した日。

 待ち合わせの〈ハートマークができる橋の下〉に行こうとして、反対側から橋をわたってて……

 あれ?

 思い出せない。

 モヤがかかったように、学校からそこに移動するまでの記憶がボヤけてる。

 気がつけば、私は〈世良永次〉の姿で、自分の体がそうなっていることにも気づかずに悠馬に告白を――――


(そうだ)


 たちまち、その二文字で美玖の頭はいっぱいになった。


(体が元にもどったってことは、今日にだって思いを伝えられるじゃないっ!) 


 ささっ、と急に前髪を気にしはじめる美玖。あからさまに、足取りも軽くなっている。

 その様子を少しうしろからみていた世良は、すぐにピンときた。


(ちっ。さっそく悠馬のヤローのことを考えてやがんな)


 二人で歩く、バス停までのイチョウの並木道。

 黄色い葉っぱが世良の視界を横切って落ちた。

 世良は自分の手をみつめた。


(うまく言えねーが、もう元にはもどらねー気がするぜ……)


 何度もグー、パー、とする。

 昨日までの、肌理きめのこまかい白魚のような手ではない。ごつごつしているし、指毛も生えている。


(いやいやいやいや! こっちが〈元〉だろっ! おれはもともとこうだったし、このおとこの体こそがおれなんだ!)


 ぶんぶんと頭をふる。

 遠心力で、前髪にいれた一筋の金メッシュがゆれる。

 世良は立ち止まった。


(これでまた、ケンカもできらぁ。はは……。おヒナのヤツには怒られるだろうがな)


 停留所につくと、ちょうどバスがやってきた。

 そしてバスに乗っている間に、世良は決心した。



 新名美玖とは、これっきりだ。



 おれは不良だしケンカもする。停学もくらうだろうし退学にもなるかもしれねぇ。外には敵も多い。まわりに危険がおよぶ可能性がある。

 おれなんかと関係があるのは、あいつにとっていいわけがない。

 いいわけがないんだ。

 げんに美玖は、おれのせいで不良たちにつけ狙われてる。

 そこをきっっっちりと清算してから、ぜんぶ終わりにしよう。清算っつーのは、一人残らずぶっとばすってことだ。


(でも、ま……、なかなか楽しい女だったな) 


 にっ、と世良は口元に笑みを浮かべる。

 美玖につづいてバスからおりるとすぐ、


「おっはよ~~ぅございまぁ~~~~す!」

「え、えーっ⁉」


 長身でガタイのいい、アフロの男がこっちに突進してくる。

 両手を思いっきり広げ、目を線のように細くした笑顔で。

 美玖が美玖せらなら、この突進をいなすのはたやすいだろう。しかし今、美玖は美玖。ただのか弱い女子だ。

 このままだと、抱きつかれるのはほぼかく


「美玖さんオブ美っ玖さあぁぁぁ~~~~ん!!!!」

「……おう」


 すっと両者の間に入り、両手をズボンのポケットにいれた姿勢でニラミをきかせる。


「むっ」ききき、と急ブレーキ。「世良か。人の恋路を邪魔しやがるとは、どういうつも……」じろじろと顔をながめる。「なんかおまえ、雰囲気が……」

「なんだよ」


 いやべつに、と倉敷くらしきはお茶をにごす。

 正直に言えば、


(顔つきに迫力がねー。つーか、強いヤツのオーラを感じねー。ここ最近、ギラついてエモノをあさるような目つきじゃなくなった気はしてたが、それとはまたベツなような……)


 はっ、と倉敷は気がついた。

 そういえばこいつは――世良は美玖さんの義理のお兄さま――だったはず。


「ちっ、だまってんじゃねーよ」世良は倉敷の肩を押した。「よぉ、もう二度とこいつにつきまとうな。いいな?」

「お兄さま! そんな!」


 あん? と首をかしげた世良の袖を美玖がひいた。小声でささやく。


「……前に私たちのこと、義理のきょうだいって説明してたでしょ」

「あー、そういやそうだったな」

「ねぇ、そもそも、〈私〉ってなんでこの人にこんな好かれてるわけ? アンタ、ヘンなことしたんじゃないでしょうね?」


 カッ、とみじかい映像がフラッシュバックした。

 あの橋の下の不良のたまり場で、美玖の体で倉敷をノックアウトした光景が。


「してねーよ」数年前を思い出すようなまなざしで、世良は遠くを見つめた。「何もな」

「ところでっ!」にゅっ、と世良と美玖の間に真っ黒なキノコが割り込んだ。「不肖ふしょうクラシキ、ただあなたをお待ちしていたわけではありません」

「ちっ、うっぜーな、この髪型」アフロをつかんで、横によける。

「美玖さん! はっきり言いましょう。あなたの身にキ――――――」


 ごっほん、と世良は特大の咳ばらいをした。

 あまりにその音が大きくて、周囲の登校中の生徒が何事かとこっちを見てくる。


「美玖」

「ん? 何?」

「ちょっとこいつと男同士の話がある。先に行ってくれ」


 美玖の表情がかがやいた。

 彼女は、親友のモカとまたおしゃべりできることや、悠馬にふたたびこの姿で会えることなどで、かなり浮かれていた。多少、彼が何を言いかけたのかは気になったが、それよりも一刻もはやく教室へ行きたかった。


「うん!」


 ニコニコの笑顔で世良に元気よく手をふる。

 世良のとなりで、ぽわ~ん、という表情の倉敷。だいぶ距離が遠くなったところで、「やっぱ美玖さんはいいな~!」とこぶしをにぎりしめる。

 世良は、少しさびしかった。

 胸にぽっかり穴があいたような。

 スマホに連絡先はあるが、おれからはもうあいつに連絡することはない。学年もちがう。住むところが同じだからといって、彼女と顔を合わせる機会はぐっとすくなくなるだろう。

 そんな彼の気持ちを、美玖は知らない。

 世良との関係は、ずっと続くと思っているのだ。


「なるほどな。なるほどなるほど」

「一人で納得するんじゃねー。気っ持ちわりぃ」

「美玖さんに危険を知らせずに、あくまで日常を守ってやろうってわけか」ぱちっと倉敷はウィンクして、世良はくしゃっと眉間にシワを寄せた。「だがな世良。ま・じ・であぶねーぞ。知ってるか?」


 ウワサぐらいはな……と世良はつぶやく。

 繁華街にたむろする、不良少年のチーム。

 彼らは〈リンクズ〉と呼ばれていた。最初は英語のLinkの複数形でLinksだったのだが、いつしか〈ス〉の音がにごってそう呼ばれるようになったという。おそらく〈くず〉とかけたのだろう。

 正体は、いろいろな高校のヤンキーの集まり。在校生のみならず卒業生も複数いる。

 これだけなら、ただの暴走族や半グレのたぐいなのだが、


「あいつらには〈頭〉がねぇ。世良よ。いちばん厄介なのはそこだ」


 そう。

〈リンクズ〉のトップの人間は、正体不明なのだ。


「おい倉敷。さっさと教えろや。いつ、どこで美玖は狙われるんだ?」

「今日」


 倉敷は手のひらを世良に向ける。


「それしかわからん。ほれ、美玖さんの弟が殴られるってことがあったろ? その件で犯人を追いかけてて、たまたまつかめた情報なんだ。だがシンピョーセーはあってな。ほぼほぼ実行されるってよ」

「それだけわかりゃじゅうぶん」

「まてって世良」

「ついてくんじゃねー」

「さすがのおまえでも、今回は人手がいんだろ? 最強のトニー・バレント様の出番だ」しゅっしゅっ、と軽快にシャドーボクシングをしてみせる。「な?」

「倉敷」横を通り抜けて、世良はいう。「おまえの手はかりねーよ。あいつはおれが守る」


(さぁて)


 教室でイスにすわって、世良は腕を組んだ。


(こうなりゃ、放課後はあいつにベタづきするしかねーな。三……いや五人までなら、おれ一人でなんとかなる)


 目をつぶって迎撃のシミュレーションをしていると、背中に感触。

 ゆっくり、〈の〉の字を書かれている。

 ふりかえる。


「グッドモーニング。世良氏」


 世良の席のうしろに陣取るこの女子は宇堂うどう璃々亜りりあ

 目の下まで垂らした髪で視線をシャットアウトする、ダーク系のメカクレの女の子だ。


「宇堂……あのな」

「ほうほう」

「おれと絶交してくれ」


 フリーズした。

 その声が耳に入ったそばの生徒たちも止まった。

 教室に緊張感が走った。


「そういうことで、たのむ」


 世良は前に向きなおった。で、頬杖をつく。わかってる。こんな冷たいセリフは、おれだって口にしたくねえ。こいつには、おれの体に入ってた美玖が世話になった恩もある。ちょぃと苦手なタイプだが、きゃぴきゃぴしたオンナよりはこういうほうが好感がもてるし、けっして嫌いとかじゃない。だがな、やっぱり、おれみたいなヤツとツルむのはリスクがありすぎ――――――


「こ・と・わ・る」

「あぁ?」


 ふりかえった世良と、ピンクの髪の女の子の目が合った。

 ラノベの表紙だ。


「これ、そなたに貸そうと思ってもってきた。読むがいい。ヒロインに悶絶必至」

「え……? いや、宇堂。おれは」

「言葉は不要じゃ」宇堂は目元の髪をかきあげた。うっ、と世良は息をのむ。その目のきれいさにではなく、その目の真剣さに。「世良氏……やはりおぬしは〈青鬼〉だったな」

「なんの話だよ」

「いやいや、こっちの」


 ちっ、と舌打ちする。

 そして、奪いとるように宇堂から本をとりあげた。


「つまらなかったら、タダじゃおかねーぞ……」

「むふ。〈本好き〉という世にもめずらしい番長の爆誕ばくたんである」


 ん?

 と、世良に何かひっかかった。


(番長…………! それだっ!!!)


「宇堂! 礼を言うぜ! 絶交は取り消しだ。つまんねーこと言ってわるかったな!」


 教室をでた。

 もう授業どころではない。

 ひらめいたのだ。


(ナンさんだ。この学校の元番長。あの人ならきっと〈リンクズ〉のことも知ってる)


 ――その30分後。



「あ……」



 世良は、地べたに横たわっていた。

 まぶたが半分ほど落ちて、いまにも意識が飛びそうなほどに弱々しい。


「く、くそったれ…………!」

「ずいぶんケンカが弱くなったもんだな、世良」ソフトリーゼントを、細いクシでととのえる。「まるで別人のようだぞ」

「まて……まだ、負けて、ねー……」

「おまえの推測どおりさ。たしかにおれは〈リンクズ〉のメンバーだ」


 ずどっ、と鋭いキックが世良の脇腹わきばらに入る。


「おまえの女――新名美玖とかいったな――は、今日の学校帰りにラチられる。そのあとは、おまえの想像の斜め上をいくメにあわされるはずだ。くくっ……くく……」


 だんだん笑い声が遠ざかってゆく。

 そこで世良は、気を失った。


 

「あ~、しんど~、カロリー使うわぁ~~~」



 ツインテールの女子が美玖の顔をのぞきこむ。「よくいうよ、みくぴ。まるで人が変わったみたいにおしゃべりになっちゃって、朝からめっちゃマシンガントークするし」

「だって、久しぶりにモカと……」

「久しぶり? 毎日会ってるじゃん」


 学校の近く。

 ならんで歩いている二人の女子。片方は美玖。片方は親友のモカ。

 その背後から、すーっと低速で近づく黒いワンボックスカー。


「おかしなみくぴ」モカはくすっと笑った。「ところでさ、ほんとに私でよかったの? 昼休みに悠馬クンが『いっしょに帰ろう』って誘ってきてたじゃない」

「あ。それは、その」


 美玖にも意外な出来事だった。

 とつぜん下校デートに誘われたことも、そして、自分の反応も。

 オッケーしようと決める寸前で、自分の中の自分が「だめ!」ってストップをかけたのだ。


「ま……まあ、悠馬にはいつでも会えるからね」

「ふーん」

「あのさ、モカ。ちょっと……言いにくいんだけど」

「ん?」

「忘れ物したみたい。とってきても、いいかな?」


 ピコーン、と電球がモカの頭上で光った。

 なんだなんだ、や~っぱりみくぴってば悠馬クンと帰りたいんじゃないの。

 それでいいのよみくぴっ。自分に正直に生きないと。


「いってこい。このうっかりさんめ」

「ごめんね」


 モカに背中を見送られて、美玖は学校のほうへもどっていく。

 その心に浮かんでいるのは――


(まだあいつ、学校にいるかな)


 一人の男の姿だった。つい昨日まで〈自分〉だった、あの男。

 私……悠馬よりも、もしかしたら……



「みくぴ!!!」



 一瞬だった。

 徐行する車から男たちがでてきて、両サイドから美玖を拘束して車内にほうりこむ。



「いやーーーっ!!!! 誰かーーーーーーーーっ!!!!!」



 静かな住宅街に、モカの悲鳴がひびいた。

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