おれとわたしはウチにかえった

 その一言で、美玖みくの目の前はまっくらになった。

 文字どおり。

 橋の手すりにカラスがとまっている。

 ばささっ、とそのカラスが夕焼け空に飛び立った音で、美玖はようやく我にかえった。


(退学……? 私が? 遅刻もズル休みもせずに、赤点だってとったことないのに?)


 ちがう。

 そうじゃなくて、退学になるのはこの体の持ち主のほうだ。

 じゃあいいか……って、よくないよ!


「ちょっと待ってくださいっ!」


 メガネの女子が「何?」と顔をななめに傾けた。


「卑怯ですっ!」


 それは思わぬ角度からの反論だった。

 メガネの女子は傾きを元にもどす。


「面白いことを言うわね。卑怯ですって?」


 ふたたび〈勝訴〉の紙を、美玖(体は世良せら)につきつけてきた。

 そこには【誓約書】と書かれていた。

 一方を【甲】、もう一方を【乙】と記した、本格的な書式のものだ。

 これはメガネの彼女――宮入みやいり雛子ひなこがパソコンで作成して印刷したものの、写しコピーである。


「よく読んでくれる?」

「むむむ……」


 言われたとおり、その紙を受け取って美玖はしっかり読んだ。

 本人(世良)の殴り書きの署名と捺印なついんもある【誓約書】。

 細かく表記されているが、まるっといえば、ケンカしたら退学という内容である。

 数秒前のやりとりを思い出す。


「あれ、どうなったの?」→「大・成・功!」


 つまり「あれ」ってケンカのことだったんだ。

 いけない。

 ノリで言っちゃったのがいけなかった。

 まずい。

 私のせいで彼を退学にするわけには……でも実際に彼がケンカをしたんだったら、【誓約書】にしたがうしかないけど。

 美玖は自分の体をチェックした。


「なーに? ヘンなタイミングで身だしなみを気にするのね」

「がはは」と、せいいっぱい強気に笑う美玖。「みろ」

「え?」

「これがケンカしてきたふうにみえるか? 返り血どころか、汚れすらねーぞ」

「そう言われてみれば……」じろじろと世良をチェックする宮入。彼女は風紀委員長をしており、この手のボディチェックはすばやく、かつ正確。「やけにきれいね。でも、大成功ってさっき自分で言ってたじゃない」

「それはその……ケンカを回避するのに成功したってことよ。男の話し合いで解決したからな」

「話し合いねぇ」宮入がジト目で美玖をみつめる。「ケンカっぱやいで有名な永次えいじくんがねぇ」

「と、とにかくっ、証拠がねーだろ証拠が!」

「もう、上からツバとばさないでよ」宮入がハンカチで顔をぬぐう。美玖はここで、自分が彼女を高い位置から見下ろしていることに気がついた。ちなみに美玖(本体)は158、世良は178、宮入は162という背の高さだ。 

「すまん」

「じゃあ、いったん保留にするから、その紙かえして?」


 おうよ、と美玖は差し出す。と同時に、ホッと胸をなでおろした。


(あっぶ~~~、もうちょっとで退学になるところだったじゃん! でもさすが私ね。いぇい!)


 美玖は心の中でピースした。

 そのとき、手の力がゆるんで、紙がスルリと落ちてしまった。

 長い髪を耳にかきあげながら、メガネ女子の宮入がしゃがむ。

 片膝をたてるような座り方。おっ、という目線を車道を走るドライバーが何人か、彼女に向けた。

 ――瞬間。


「きゃっ」


 風のイタズラが。

 車道からはスカートのひらひらに邪魔されてきわどいところは見えなかったが、美玖の視点からはモロにみえた。

 黒のレース下着。美玖も世良も、どっちも裸眼で視力がよかった。バラのししゅうまで、はっきりみえた。


「……いやな風。これでも標準の長さなんだけど、ほんとはもっと丈を長くしたいのよね」

「お、おうさ」

「ん? どうしたの、顔あかくして……あっ、なるほどね。みえちゃったんだ。でもよかった~」宮入は胸に片手をあてて、安心した。「みられた男子が永次えいじくんで、ラッキーだったかな。私の下着なんかみえても、なーんとも思わないんだもんね?」

「あた、あた」美玖は下半身に意識がいかないよう、必死でたたかっていた。心にモンゴルの大草原をイメージしていた。「あたぼうよ。へっ! 誰がおまえのパンツなんかで、コーフンするかっつーの」

「いつもの憎まれ口ね。やっと調子がもどったみたい」

「はは……」

「ところで永次くん」ふたたび宮入はしゃがんだ。「これは何?」


 彼女が指さしたのは、股間。

 世良の体の、オスのシンボルがある部位。


「見まちがえかと思ったけど……大きくなってない?」

「なっ⁉ なるわけねーだろ!」


 なっていた。

 美玖、いや世良のアレは、はやくも70%ほど大きくなっている。ちゅう勃起といえる状態。


 両ひざをそろえてしゃがむ宮入の、ブレザーの中、真っ赤なリボンタイの真下のブラウスのボタンが一つはずれていて、そのスリットから胸がみえた。胸の谷間が。


(あっ、やばっ……)


 どくどくとそこへ血が集まっているのがわかる。

 本日二回目の、この独特の感覚。女子の体では味わえなかった、奇妙な高揚感こうようかん


「大事なことだから!」きっ、と宮入が強いまなざしで見上げる。「ずっと悩んでたじゃない。たたないって。大きくなるのは、べつに恥ずかしいことじゃないのよ? それに、あなたが女の子に興味をもったら、きっとケンカだってしなくなるんだか――――」ちょん、と彼女の指先がソレの先端にふれた。「ら?」


(~~~~~~‼)


 なんと、これは。

 やばすぎ。

 やばすぎったらやばすぎなの。

 予感がある。

 もう一触ひとさわりされたら、自分の体に〈大きな変化〉が起こる予感が。

 自分の体から何かが発射されるみたいな…………


「かたい」


 どこかうれしそうに、宮入は言った。

 そして、子どものような無邪気さで、再確認の指をのばしてくる。


「ちょっ! それ、ストップぅぅぅッ‼」


 必死の懇願こんがん

 だが、指はとまらない。

 宮入の口元にうかぶ微笑。

 この人、バリバリのSだーーーっ! と美玖が気づいたときには、指先とズボンのスキマ一ミリ。


「どけよ」


 その声で、どSモードの彼女とギンギンの美玖は同時に正常にもどった。

 おもえば、ここは橋の歩道。

 往来の邪魔になるのもかまわず、少しはしゃぎすぎたみたいね……と宮入が声の主をみた。


「……ッ! あなたは!」

「んだよ。邪魔だっつーの。どけ」


 おどろく宮入の肩に手をおき、横へ押した男。

 夕陽が、橋の上に〈長いマッチ棒〉みたいな影をつくっていた。

 倉敷くらしき

 橋の下で世良(体は美玖)と決闘した男だ。工業高校のグレーのブレザーを着ていて、頭はアフロヘア―。


 その男が今、美玖(体は世良)に視線を向けている。

 しかし、にらみつけるという感じではない。おだやかな、風景をみるような目だった。


「今までわるかったな、世良せら

「えっ」

不肖ふしょうクラシキ、今日からは恋に生きる。もう、おめーの相手はしてやれねー」

「はあ……」

「じゃあな」


 後ろ姿で片手をあげ、倉敷は立ち去った。


「なにもせずに行ったの? 信じられない。あいつ、永次くんと犬猿の仲じゃなかった?」

「えっと、そうでしたっけ……」


 ぶぉん


 そこでバイクの音がした。

 やばい。

 家に帰る手がかり、あの人だけなのに。


 ぶぉーん


 と遠ざかってゆくのがわかる。

 終わった。

 いや待って。スマホがあるから。ここに、世良って人の現住所のってない? いや……スマホに住所なんか、ふつう入れないっけ?


「じゃ、私も帰るから」

「待って!」

「なに……? 小犬みたいに心細そうな目しちゃって……」


 きゅん、と宮入のハートが高鳴った。

 ギャップ萌え、というヤツである。


「おれ……おれの家にこないか? 知ってるだろ、おれの家!」 

「サカってんの?」と視線を下半身におとす。「行かないから」

「じゃあ教えてくれ、おれの家!」もはや美玖はナリフリかまわなかった。野宿だけはごめんだ。「なっ?」

「はぁ……なんの冗談だか」スッ、と先ほど股間にふれた指がのびた。「あそこでしょ、あなたの家は」

 

 美玖は指さすその先をみた。

 そこには、


(あのタワマンなの⁉)


 周囲の建物よりも高くそそり立つ、高層マンションがあった。


 ◆


「ふー、食ったなー」

「いやいや食べすぎでしょ、みくぴ」


 すっかり日が暮れている。空は暗い。

 トンカツ定食にはじまり、ミートソースのパスタ、カレーとハシゴして食べた世良。

 おなかはパンパンである。


「家まで、つれてってくれ」

「はいー?」


 ツインテールの女子が眉間にシワをよせる。


「ムチャいわないでよぉ」

「じゃ、おれ……じゃなくて、わたしの家、どこにあるか教えてくれよ」


 美玖の親友、モカこと井川いがわ友香ともかは首をかしげる。


「なんで?」

「忘れたから」


 あはは、とモカは明るく笑った。冗談だと思ったのだ。

 その声が、ファミレスのそばの駐車場にたむろしていた男たちの注目をひいた。

 ゆっくり美玖(心は世良)たちのほうに歩いてくる。

 連動するように、すーっと徐行して前進する黒いワゴン車。


(あやしいな)


「ちょっとモカよ、あっち行こうぜ。人通りのあるほうに」

「あー、やだー、みくぴがエッチなところさわるー」

「さわってねーだろ」


 その男っぽい口調がおかしかったのか、モカはまた笑った。「さわってねーだろ」と、さっそくモノマネする。

 このように、モカは夜になるとテンションがハイになるがあった。


「もう一軒いこうよ、今日はみくぴの告白成功記念日なのじゃあ~~~」

「バカいえ。もうハラいっぱいだよ」

「ねー彼女」


(来やがった)


 世良はケンカ百戦錬磨。

 なので、危険にも敏感だ。相手がヤバイかどうか、もっといえば〈そのすじ〉かどうか、一発でわかる。

 声をかけてきた若い男を半グレとみた。

 髪、服装はふつうっぽいが、奥の暗いほうにもっとヤバいのが何人かいる。

 逃げるのが一番か。


「モカ、こっち」

「へ?」


 建物と建物の間に、ぬるっと入りこんだ。


「そこほら、一万円おちてる」

「うそっ!」


 モカがかがむ。

 声をかけてきた男があとを追ってくる。

 ぱーん、と視界の下から掌底で男のあごをつきあげた。

 秒で気絶。

 世良は倒れてきた体をかかえ、よっ、と暗がりに寝かせた。


「ないじゃん」

「あー、わるかった。気のせいだったわ。いこうぜ」


 モカの手をひき、通りに出た。

 仲間が倒れている男に気づいて追いかけてくるまで、しばらく余裕があるだろう。その間に、人ごみに溶けこめばいい。

 こうして、モカはあぶない目にあった自覚もなく、超ご機嫌をキープすることができた。

 にぎった手をはなさず、うれしそうに世良の手をぶんぶんふる。


「今日はいい日だよぉ」

「でさ、モカちゃん。私のおうちはどこだっけ」

「ん」


 モカはくちびるをつきだした。


「じゃーねー、チューしたら教えてあげるのだー!」


 まじか。

 おれのファーストキス……こんなタイミングでやって来るとはな。

 まあいい。

 据え膳食わぬはおとこの恥だし、相手にとって不足なしだ。

 こいつは友だちのために泣ける、気のいい女だからな。


「こうか?」

「―――ッ‼」


 どん、と両手で世良を押し返す。


「やだ。はげしすぎ……舌いれてくるとか」

「キスってこういうもんだろ?」


 さらっという世良。

 そして彼は今、ピクリとも興奮していなかった。


「約束だ。教えてくれ」

「しょうがないなぁ……」


 モカは指さした。

 夜景の中、てっぺんあたりに赤い光が点滅する巨大な建造物を。


「じゃあ、私は駅のほうに行くからっ! また明日ね、みくぴ!」

「ああ。気をつけて帰れよー」  


 モカを見送って、世良は視線をそっちに向けた。


(ははっ。なんだよ。おれと美玖あいつって同じタワマンだったのか)


 世良は気が楽になって、口笛を吹きながら悠々ゆうゆうと帰宅の道についた。



 ぱしゃっ



 と、ふいにシャッター音がして密かに自分の姿が撮られたことに、このとき世良は気がつかなかった。

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