第10話 ユナ(2) カッターナイフ
自分の手を離れたアツシが車道に出て、ワゴン車に跳ね飛ばされ、バイクに
先日のようなブレーキ音は聞こえなかった。なんの音もしなかった。
聴力が正常に戻ったのは、
歩道で立ち尽くすユナの場所からも、アツシの足の異常さは見てとれた。足が足首と
車道の車は手前で全て停まっており、スーツ姿の女がアツシに駆け寄って行った。誰かが「救急車!」「一一九番!」と叫んでいる。アツシに向かってスマホを
そこにきて、ようやくユナの体が動いた。
「どいて! どいて下さい! アツシ! アツシ!」
アツシの周りを取り囲む
「アツシ! 死なないで! アツシ!」
「あつし君って言うのね!?」
「そう!」
最初に駆け寄った女に聞かれ、ユナは
「あつし君、大丈夫? あつし君!」
女はアツシの肩の辺りを叩きながら、声を掛けていた。そして耳を近づけて呼吸を確かめ、アツシの脈を取る。どうやら医療関係者のようだ。
ユナがアツシの体を揺すろうとすると止められた。どこを怪我しているかわからないから、揺らさない方がいいらしい。
「止血しないと」
そう言った女がアツシの下半身で何かをしていたが、ユナはアツシの名を呼ぶので精一杯だった。
「アツシ! アツシ!」
嫌だ。死なないで欲しい。ごめんなさい。ごめんなさい。手を放したりしてごめんなさい。
やがて救急車がやってくる。
女が救急隊員の一人に何やら説明している横で、ユナはアツシと一緒に救急車に乗り込んだ。カノジョだと言うと乗せてくれたのだ。
救急車の中で、隊員にアツシの家族に連絡が取れないかと聞かれた。ユナは直接の連絡先を知らず、担任に電話をかけた。泣きじゃくりながら説明すると、担任はすでに事故の事を知っているようだった。クラスのチャットでもう流れているらしい。親にもすぐに行き先の病院を伝えると約束してくれた。
病院に運び込まれると、アツシはすぐに手術室に連れて行かれた。ユナは扉の前でシャットアウトされた。
しばらくしてアツシの父親が駆けつけた。ユナは状況を聞かれ、事故に
遅れて母親も来た。アツシの家で何度か会って
看護師から説明を受けた二人から、命には別状がないことと、手術は長時間になるから一度帰るようにと言われ、母親と連絡先を交換して、ユナは病院を後にした。
家の玄関にたどり着いたところで、ユナは我に返った。どういう経路で帰ってきたのか記憶がない。
その全身を震えが襲った。音が出そうな程ガタガタと震えている。心臓が痛いほど拍動していた。
怖かった。アツシが死ぬのではないかと思って。とても怖かった。
自分の部屋に駆け込み、ベッドの上に体育座りをして布団を
もう訳がわからない。
ミツルが死んで、ジュンコが死んで、アツシが事故に遭って。
ユナの世界はあっという間に壊れてしまった。
スマホを見ると、メッセージ着信の通知がどんどん入ってきていた。ほとんどがクラスのチャットだ。
ぽつぽつと
いっそ電源を切ってしまいたかったが、いつアツシの母親からの連絡が来るかわからない。ユナはじっと画面を見つめて静かに連絡が来るのを待った。
結局、アツシが目を覚ましたと連絡が来た時には、数時間がたっていた。ユナはすぐにでも駆けつけたかったが、病院の面会時間が終わっていると聞けば、引き下がるしかなかった。
祈るような気持ちで連絡を待ち続けていたユナは、心身ともに
次の日、ユナは朝一番で病院に行った。学校なんてどうでもよかった。
昨日母親から聞いていた番号の個室まで行くと、「
「はい」
母親の声がした。
「あの、
「……」
返事が返ってこない。
「あの、瀬戸です」
突然、すっとドアが開いた。
出てきたのは母親だ。
迎え入れてもらえると思いきや、後ろ手にピタリとドアを閉められる。
「ユナちゃん、悪いんだけど、今日は帰ってくれない?」
「どうしてですか?」
「
「
アツシが生きていることを確かめたい。
「でも、今は寝ているし……」
「顔を見るだけでもいいんです」
「ごめんなさいね」
謝る母親と目が合わない。どころか、母親はユナの顔を見ようとしていなかった。
さっとユナの顔から血の気が引いた。手が冷たくなっていく。どきどきと心臓の音が聞こえてきた。さっきまで夢中で感じていなかった消毒液の匂いがする。
知っているのだ。ユナが何をしたのか。あの事故がユナのせいだということを。
もうアツシに会わせてもらえないかもしれない。
「すみません」
ユナは母親を押しやって、無理矢理ドアを開けた。
「ユナちゃん!」
母親がユナの腕をつかんだが、それを振り切って個室に飛び込んだ。
広くはない個室はほぼ白いベッドが占領していて、その上にアツシがいた。母親は眠っていると言っていたが、体を起こして座っていた。腕には点滴が繋がっていて、右足が
ユナの姿を見て驚いたように見開かれたアツシの目は、しかし次の瞬間、きつく吊り上がった。
「帰れ!」
「アツシ、わたし――」
「帰れ! もう来るな!」
アツシが枕を投げつけてきた。それが傷に
「お前のせいだぞ!」
ぱっとアツシが布団をめくった。
水色の寝間着が左
足がない。
その事実に
視線を感じて横を見ると、母親がじっとユナを見つめていた。その顔は怒っても、笑ってもいない。感情の抜け落ちた完全な無表情だった。表情を作っていないからなのか、目尻のシワやほうれい線がやけにくっきりと見えた。
「お前のせいだ!」
再び叫んだアツシの方に視線を戻すと、怒りで顔が
「ごめんなさい。わたし――」
「お前のせいだ! 帰れ!」
正面からは自分を責めるアツシの声。横を見れば無表情の母親。
たまらずユナは病室を飛び出した。
足が。足が。アツシの足が――。
早足で廊下を抜け、エレベーターのボタンを連打する。後ろから責める声が追いかけて来るような気がした。
なんで。なんで。なんでアツシが。
なんでわたしが。
無意識にポケットの中のスマホを握り締めて、ユナははっとした。
メッセージアプリを立ち上げる。複数のチャットに着信メッセージ数を示す数字が着いていたが、アツシたちのグループのチャットにはそれがなかった。
最後のメッセージを確認する。
ミツルの葬儀の前、三人で待ち合わせをした時の物が最後だった。
アツシの事故の時、マキはあれから一つもメッセージを送ってきていない。あんなに大変なことが起こったのに、なんの心配も
ユナの中で怒りが
自分たちがこんなにつらい思いをしているのに、マキだけは何の痛みを感じることもなく、のうのうとしている。ミツルの葬儀でも涙一つこぼしていなかった。今もアツシの元に駆けつけようとせず、どこの病院かすらも聞いてこない。いつも通り平気で学校にいるのだ。
許せない。許せない。
ユナはその足で私服のまま高校に向かった。
途中でコンビニに寄り、必要な物を買う。
高校に着くと、下駄箱の前で上履きに履き替えて、階段を駆け上がった。今は授業中だ。廊下には誰もいない。
早足で進んで行くと、途中で校舎内を見回っている教師に見つかった。
「お前――なんだ、瀬名か。制服はどうした」
その横を無視して通り過ぎる。
「ちょ、おい、瀬名っ」
腕をつかまれそうになり、ユナは走った。目指す場所はすぐそこだ。
教室の前のドアをがらりと開けた。
黒板の前に立っていた教師がチョークを握る手を止め、突然の
机に体がぶつかるのも気にも留めずに、ユナはマキの元へと足早に向かった。
標的になっていると気づいたマキがガタンと椅子を引き、ユナから逃げようとした。だが、立ち上がる前に、ユナがその胸ぐらを両手でつかんで引き上げる。ブラウスのボタンが一つ飛んだ。
「あんたのせいだ! 何もかも!」
しんっと静まり返った教室に、ユナの怒鳴り声が響いた。
マキは恐怖で顔を
「ミツルが死んだのも、ジュンコが死んだのも、アツシが事故に遭ったのも、全部あんたのせいだ! 二人はあんたが殺したし、アツシを突き飛ばしたのもあんた!」
「ちが……っ」
否定しようとしたマキに、ユナはさらに逆上した。
「お、おい、やめなさいっ」
何事かと体を硬直させていた教師が、後ろからユナの右の二の腕をつかんだ。
マキの
ユナは力尽くで教師の手を振りほどき、カバンの中に手を入れた。
引き抜いたその手には、カッターナイフが握られていた。
親指でギギッと一気に刃を繰り出して、マキに振りかぶる。
周りからキャーッと悲鳴が上がる。
マキがぎゅっと目をつぶった。
その顔に向かって、思いっきりカッターを振り下ろす。
「やめろっ!」
刃がマキに到達する前に、ユナの手首が教師につかまれた。もう片方の手も別の教師につかまれて、床へと引き倒される。
「放せっ! 放せぇっ!」
マキは力の限り暴れた。だが、大の男二人が押さえつける力には
暴れながら、手を胸の辺りで握り締めて真っ青な顔で
「放せっ! お前のせいだ! お前が殺したんだ!」
騒ぎを聞きつけた他の教師がやってきて、暴れるユナを教室から引きずり出した。
親を呼び出され、家に連れて帰らされたユナは、部屋に閉じこもった。昨日と同様に、ベッドの上に座って布団を頭から被る。
マキのせい。マキのせい。何もかもマキのせい。
ユナの中では、ミツルの車にぶつかったトラックの運転手はマキだったし、ジュンコを
マキが全てを壊した。
三人のために、ユナが
それには、部屋から出る必要がある。
だが、残念ながら、部屋のドアの外には見張りのように父親が立っていて、ユナはそこからは出られそうにない。
しかし、ユナは超能力者ではないのだ。念じるだけではマキを殺せない。
どうにかしてここを出なければ。
そう思ったユナは、カーテンが閉められたままの窓に目を留めた。
立ち上がり、シャッとカーテンを開ける。その向こうは外だ。
そうだ。ここから出ればいいじゃないか。
ユナは窓を開け放った。風に
勉強机の上によじ登る。
マキのせい。マキのせい。
そう
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます