心霊カメラ
藤浪保
第1話 ミツル(1) 始まり
週末の夜の首都高速は渋滞する。いや、いつもそうなのかもしれない。ミツルの記憶の中では、首都高を通るのはいつも金曜夜だった。
目の前の急なカーブの向こうまで、赤いテールランプが連なっている。先ほどから
右隣の十トントラックと左隣の壁に挟まれて、ただでさえ広くはないレンタルの軽自動車がなおさら狭く感じる。
ミツルは常々もっと性能のいい車にしろと主張しているのだが、運転席に座る母親は、これ以上大きな車を乗りこなす自信がないらしい。確かに車線の左右どちらかに寄りがちだし、駐車スペースの中央に停められた試しがない。
接触事故を起こされるよりはマシだ。自分が免許を取るまでの我慢だった。
ミツルは靴を脱ぎ、靴下の足をダッシュボードに乗せた。
「やめてよね、汚い」
「うっせーな。オレの勝手だろ」
母親は何かにつけて小言を言ってくる。高校に入ってからさらに増えた。年寄りになると文句が増えるというのは本当らしい。
「だいたい、なんでオレがオヤジんちに行かなきゃなんねーんだよ」
「お父さんの誕生日だからって言ってるでしょ。お父さん、あんたに会えるの楽しみにしてるんだから」
「こっちはミリも楽しくねーんだよ」
父親の誕生日を祝うなんてガキじゃあるまいし。小さいときならまだしも、今や何も嬉しくない。向こうだって、自分の背丈を越える程に成長した息子に会いたいとは思っていないだろう。たとえ単身赴任で年に数回しか顔を合わせないのだとしても。
夫に会うからと化粧が普段よりも濃いのも、母親から女の匂いを感じてしまって気に
だだ、家計を支えているのは共働きをしている両親で、自分が日々暮らしているのも高校に通えているのも、二人のお陰だということは重々承知している。絶対に口には出さないが。
普段は反抗ばかりしていても、越えてはいけない一線というものは理解していて、以前父親の事で母親の
それでも一向に動かない車列にはイライラしてくる。ここは公共Wi-Fiが飛んでおらず、これ以上
右の車列が動き始めて、トラックが斜め前に出た。なぜこちらの車線は動かないのかと余計にイライラが
窓の外を眺めても、首都高の壁とその上から
むしろ、柔らかい明かりを放ちそびえ立つタワマンを見ては、自分の家庭が中流階級であることを痛感するし、
「ったく、早くしろよ」
「しょうがないでしょ、混んでるんだから」
「ババアに言ったんじゃねーよ」
「またそんな口を
家にいれば自分の部屋に引きこもれるが、狭い車内に逃げ場はなかった。後部座席に移動したところでたかが知れている。
うぜぇ。
うんざりしたミツルは、腕を組み、目をつぶって寝たふりをすることにした。
「ちょっと、聞いてるの!?」
母親が身を乗り出してきたが、ちょうど前の車が動き始めたので、前方に注意が戻った。
だが、車が止まると、
こういうの、四字熟語でなんつーんだっけ? 馬の耳に念仏は熟語じゃねーしな。
そんなことを考えているうちに、ようやく車列はスムーズに動き始めた。渋滞の原因は事故だったらしく、そこを抜けると嘘のように視界が開けた。
ずっと一人で
制限速度で走るペーパードライバーは、周りの乗用車にどんどん抜かされていく。
今どきのトラックもみな制限速度を厳守するから、自然と左車線はトラックが連なることになり、ミツルの車は前後をトラックに挟まれた。
目の前のトラックは、工事の足場に使うような細い金属パイプをたくさん積んでいた。端をこちらに向けてピラミッドのように三角形に積んだものをオレンジ色のバンドで止めてあり、それが四列、荷台にワイヤーで固定されていた。
背面右隅には、「制限速度を守っています。お先にどうぞ」と書いてある。
速度を守っている車両を追い抜けということは、速度オーバーを助長しているわけで、おかしな文章だ、とミツルはいつも思う。
小さなランプで照らされたナンバープレートには岡山と書いてあって、どこからどこへ行くのかは知らないが、ここからまた長い道のりなのだと察せられた。
後ろを走るトラックをバックミラーで見れば、運転手は手元をちらちらと見ていた。どうやらスマホを見ているらしい。すぐ後ろでやめてくれよ、と思った。
ミツルが運転していれば、ブレーキランプのパッシングで抗議するところだが、食い入るようにフロントガラスの向こうを見ている母親は、バックミラーなど見てはいないのだろう。
仕返しという訳ではないが、スマホで最近仲間内で
画面は暗転し、中央に処理中を示す白い円がくるくると回る。
たっぷり三秒ほど掛けて、静止画が表示された。運転手は手元ではなく前方に目を向けたタイミングで、脇見運転の瞬間は撮れなかった。
だが、ミツルはその画像を見てほくそ笑んだ。なかなかいい写真が撮れた。
それをすぐさまグループチャットに共有する。タイトルは「目隠し運転注意」。すぐに既読数が四になり、「笑」といった書き込みが立て続けに入る。
チャット画面に表示されている自分で送った画像をタップして、もう一度写真を確かめた。
前方を向いている運転手、その隣、座席と座席の間に位置する部分に、長い髪をした
写真の右下には、オレンジ色のデジタル数字で今日の日付が入っていて、昭和の時代のプリント写真のようだ。年の表記がアポストロフィと下二桁になっているのが雰囲気を出している。
気分を良くしたミツルは、その後も周囲にレンズを向けて複数の静止画を撮った。
流れてブレた壁の上、前のパイプの手前、出口を示す案内板の下。様々な所に白い人物は写り込んだ。
「うるさい。あと
横の母親の不機嫌な声に、ミツルの上がっていた口角が下がる。チッと舌打ちをしてスマホの画面を切った。
夜間モードになって白黒反転させたカーナビによれば、到着まではあと二時間以上かかるらしい。この運転であれば、あと一時間は追加されるだろう。
マジで寝よ。
ずっとダッシュボードに上げていた足を下げて
横を向いてシートに頭を預けると、先ほどよりも横のポールが流れていくのが速い気がした。体を起こしてちらりと速度メーターを見れば、速度をわずかに超過していた。
前のトラックについていく事に必死になっている母親は、全く気づいていない。
早く着くならまあいいか、とミツルは黙っていることにした。
道路は緩い上り坂に差し掛かった。視界の上方に「速度低下注意」の看板が見えた。
前のトラックが
トラックにぐんぐんと近づいていく。
と、目の前の三角形の一つがぶるっと振動した。
そして聞こえてきたのは、プツンという小さな音。
いや、実際には聞こえていなかったのだろう。ただミツルがそう感じただけだ。
張力を失ったワイヤーはひゅんっと飛んで、四つの三角形が左右に揺れた。だが、固定しているワイヤーは一本ではなく、残った三本でまだ固定されていた。
荷台に異変を感じたのか、前方のトラックが減速した。
突然
「バッ」
バカと言いかけたミツルの上半身と腹部がシートベルトに食い込む。
と同時に、後ろから凄まじい衝撃が襲った。前後左右にシャッフルされる脳
そして次に感じたのは、前方下からの追撃だった。視界が白に塗りつぶされ、顔が何かに当たって跳ね返った。エアバッグだ。
しばらく慣性に
目を覚まして真っ先に確認したのは隣の母親の姿だ。
細かく割れたフロントガラスの破片を浴び、がっくりと頭を落としている。ぴくりとも動かない。
母親が死んだかもしれない、とミツルはパニックになりかけた。
しかし、すぐに母親は声を漏らすと、
「
母親が我に返って最初に確認したのは、ミツルと同じく息子の安否だった。
ミツルをの姿を確かめた母親の目が大きく見開かれる。顔が真っ白だった。
「充っ!」
母親が両手で口を覆った。
そこでようやくミツルは気がついた。
前方、フロントガラスフレームを、一本のパイプが
その手前の一端が、ミツルの腹部から
「わあああっ! ああああああああっ!」
ミツルは悲鳴を上げた。パイプが刺さっている部分の周り、長袖のTシャツが血で染まっていく。
そして、今まで感じたことのない痛みが襲ってきた。体を引き裂かれるような痛みだ。
「痛い痛い痛いぃぃぃ!」
「充っ!」
とっさにパイプをつかんで引き抜こうとした。
だが、パイプを握った瞬間にちぎれた腹筋が痛んで力が入らなかった。
「痛いぃぃ! お母さん! 痛いぃぃっ! 助けてぇぇっ!」
ミツルは大声で叫んだ。涙が止めどなくあふれてくる。
声を出せばそれだけ痛みが増したが、叫ばずにはいられなかった。
母親はどうすることもできず、ただミツルの名前を呼ぶだけだ。
パイプを握って引き抜こうともしたが、余計にミツルが痛がるだけだった。そもそも抜いてはいけないのだ。抜いた途端に出血死してしまう。
そして、抜くことも不可能だった。ミツルの腹部を貫いたパイプは、背中のシートをも貫き、後ろの座席にがっちりと刺さっていた。
痛みに気絶してしまえば楽だっただろう。いっそ死んでしまった方がよかったかもしれない。だが、そうはならなかった。
どくどくと心臓の
気が遠くなるような時間を掛けて、救急車がやってきた。わんわんと何かがこだましている耳は、サイレンの音がくぐもって聞こえた。ほとんど見えていない視界が明滅している。
救急救命士はミツルの様子を見て絶句した。
状況が伝わっていたのか、すぐにパイプの切断機が取り出され、パイプの前後の切断が始まる。
振動がミツルの傷ついた内臓を刺激して、その度に悲鳴を上げた。声帯は潰れ、腹筋も傷ついているためかすれた声しか出ないが、振り絞るようにして叫び続けた。
母親も息子以上に泣きながら名前を呼んでいた。
そうしているうちに、だんだんとミツルの声が弱っていった。次第に痛みを感じなくなっていき、痛みよりも寒さの方が強くなった。
救急車に乗せられる頃には、母親に向かって微笑むことができるほど、気分は楽になっていた。
母親がしっかりとミツルの手を握りしめている。
「お母さん、ごめん」
「いいのよ、いいのよ」
母親に看取られながら、ミツルは救急車の中で息を引き取った。
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