第二章 あの子

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 より多くの人の命を救うため、多くの命が犠牲となった。

 頭では理解しているものの、薬を一つ作るにしても、なんども実験を繰り返し、安全性を確かめ、失敗して、また失敗して……


 私は専門家でもなんでもなく、ただの助手。

 それも大した知識も持たない、ただの雇われのアルバイト。

 薬品の匂いと、よくわからない言葉が飛び交うこの製薬会社で、実験に使われるマウスの飼育を手伝っている。

 掃除をして、マニュアル通りに環境を整えて、研究者たちが命を救う薬の開発のために、殺される生物の世話をしている。


 自分が手を下すわけではないし、直接的にその死の瞬間を見たことはあまりない。

 けれど、この部屋から運ばれていくあの子たちは、二度とここへ戻ってくることはない。

 実験で使われたあの小さくても尊い命の最後を、私は知らない。

 それでも、これは未来のため、私たち人間が、病気やウイルスから身を守るために必要なことなのだと言い聞かせるようにして、やり過ごしていた。

 それに私は、その手伝いをしているだけ。

 ただのアルバイトだけど、これも人の命を救うために必要な仕事なのだと自分に言い聞かせて、精神状態を保っていた。


 だけど、突然私はそのアルバイトをクビになった。

 飼育していたマウスが数匹、逃げ出したからだ。

 誰かが、ケージの鍵をかけ忘れたらしい。

 その誰かは、私に指示を出していた正社員のうちの一人なのだけれど、その人は全てを私のせいにした。

 逃げ出したマウスは見つからず、詳しいことはわからないけど、どこかの研究員の実験がダメになったらしい。


 私になすすべはなく、仕方がなく生活のために近所のスーパーでレジ打ちの仕事をはじめた。

 接客は初めてだったけど、慣れればそれなりに楽しかった。

 気さくに話しかけてくれるお客さんもいたし、店長も同僚のスタッフにもいい人がたくさんいる。


 それでもふとした瞬間に思い出してしまう。

 ワクチンが開発されたとか、薬物のニュースなんかを見ると、あの子たちのことを思い出してしまう。


「またどっか見てたでしょ?」

「えっ……?」

「もう、今はお客さん誰もいないからいいけどさぁ……たまにどこか遠くを見てぼーっとしてるじゃないですか。いつも何を見てるんですか?」


 私よりも半年以上前からこのスーパーで働いている社員の最上さんは、年下だけどよくいろいろなことに気がつく明るい女の子だ。

 大学にはいかず、高校を卒業してすぐに就職し、双子の弟と一緒に暮らしているのだと言っていた。

 私なんかよりよっぽどしっかりしている。


「いや、ちょっと……その、昔のことを思い出しちゃってね。それより最上さん、お惣菜の半額シールってもう貼り終わったの?」

「今日は雨ですからねぇ、もうとっくに貼ってあります。あぁ、見にいくなら私レジ入ってますよ? まだお寿司とかお弁当もたくさん残ってますからね……コロッケは売り切れてますけど」

「ありがとう、助かるわ」


 本当に、しっかりしているし、よくまわりを見ている。

 いい子だなぁ……


「いらっしゃいませー!」

「あら最上ちゃん! 今日も元気ねぇ……外は暗くて嫌な天気だっていうのに」


 他のスタッフとも、常連のお客さんとにも慕われていて、若いのに本当にいい子。

 きっと私のように、ふと思い出して辛くなるような過去もないのだろう。


 そして何より羨ましかった。

 どうせなら、私もこの子のように、最初からここで働けばよかった。

 私の人生は、本当に失敗続きだな……

 なんて……ね




 ▽ ▽ ▽



「一人で車に?」

「はい……思い出しただけでも、本当に恐ろしいのですが……」


 二件目の目撃者、佐藤の妻に案内されて、友野は車の状態を確認しつつ、当日の状況を確認した。


「よく行く、近所のスーパーなんですが……あの日は買い忘れたものがあったので、すぐに戻るつもりで私だけスーパーの中に入ったんです。外は雨が降ったり止んだりを繰り返している不安定な天気でしたし、傘も一本しか用意していなかったもので……」


 店内には客はほととんどいなくて、レジもスムーズに終わり、十五分後くらいに車へ戻ると、運転席で夫が気を失っていたのだという。

 妻は駐車場で車から降りる直前にいつものようにスマホをいじっている夫の姿を見ているし、それまでなんの異常もなかった。

 すぐに救急車を呼んだが、一瞬目が覚めた時に夫が言ったのだ。


「“鼠が降ってきて、フロントガラスを埋め尽くした”と————」


 東の指示で友野たちに同行し、聞いた話をメモしていた南川は、想像しただけで吐き気がしてきた。


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