自分の死生観をここに記す。何故生きるのか…。異世界転生系物語に問う。
このところ、諸々と死生観について考えることがあり、この文章を書き記したいと思います。
先日の愛猫が虹の橋へ渡ったいう内容の文にもある通り、2021年12月23日は母方の祖母が他界、25日は18年間共にした愛猫の末蔵が虹の橋へ渡りました。
いつの頃かか分かりませんが、元来、身体が弱く死に目にも何度か経験した事もあり、私は死ぬ事を非常に恐れています。
死んだらどうなるのか、輪廻転生はあるのか、もしかしたら、この世界は幻想や夢であり、死んでしまえば自分もろともなくなってしまうのか…急に考えてしまうと枚挙に遑がありません。
私は介護を10代の後半から祖父、そして、9年前から父の介護をしてきました(一昨年他界)。そして、今でも現在進行形で祖母(はたまた伯父の介護)をしています。
主夫も小さいながらも零細企業の社長業もしており、子供も3人おり、それこそ、先日他界した愛猫や愛犬のお世話もせねばならず、それはそれは負担で、どれも中途半端な状態でしかすることができません。書くと諸々と愚痴にしかならないので、今回は割愛します…。
では、私も皆さんも何故、何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか?
家畜となる動物をみてください。彼らは死んで食べられる為に生まれてきた…。それは何の為…。それでは植物ならいいのか?という事になりますが、極論でいえば植物も生き物なわけです。動物であろうと植物であろうと生き物の命を得ることによって、今の自分は存在しているといっても、おかしくはないでしょう…。死ぬために生まれてきた…それは人も同じです。生まれたと同時に死という不治の病に侵されるのです。
それを考えると更に何の為に生まれ、今を生きているのか本当にキリがありません…。
何度も何度も、前の問いかけに戻る訳です。何のためにこの世に生まれてきたのかと…。
私個人的な考え方や思想になるので、これが正解とも言えませんが、神話の世界を舞台とした物語を書いている人間である以上、最低限、世界中の宗教や神話などを見たり聞いたり読んだりしてきました。
どれも、大概、信じるものだけが救われるという内容で終わります。それはある意味で本当である意味虚構であるとも言えるのです。
1つの過程ですが、転生物の物語作品は数多存在しているので、読まれていることがある方の中には、そこまで深く考えない方もいらっしゃるかも知れませんが、何かしらの輪廻転生があったとしても、それはかつての自分ではありません。その記憶がある別人です。その記憶があってもそれは別の人間の人生…。チート能力がある、前世の記憶がある、それはそれで役に立つこともあるでしょう。
転生物ものの主人公たちは、そうやって活躍しているのですから…。ただ、もし、自分が亡くなり異世界転生して生まれ変わったと考えて、いわゆるチートなる力を持っていたとして、その異世界で何をするでしょうか…。
人の為に力を尽くすのか…。ただ、自分の欲求を満たす為に力を使うのか…。本当に異世界転生やチートなる力がある世界へ転生できるのであれば回答もわかるのでしょうが、私が思うのは自分の存在は決して特別ではないという事です。
輪廻転生があっても過去の記憶を忘れるという話も聞きます。それもやはり、そうかなと思います。自分が死んだ世界が、死んで直ぐの世界とは限りません。数十年後、数百年後の世界かも知れません。紛争巻き起こる別の国で生まれ変わるかも知れません。そう考えると過去の記憶がある方が逆に生きていくことが辛くなる要因になると思うのです。だからこそ、輪廻転生があるとしても私は記憶を失う方を選ぶでしょう…。
自分を中心に世界が動いている方もいらっしゃいます。それはそれで羨ましい…。ですが、どんなに栄華を極めても、権力や地位、世界で1番、お金持ちになったとしても…。生まれた時点で患ってしまった死という病をどうすることもできません。
全てを手に入れたとしても死ねば全て自分の元にはありません。死ねば、どんなものでも全てが宇宙の塵以下の存在にしかならないのですから…。『色即是空』この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空(くう)であり、不変のものではないという意味です。『般若心経』の言葉です。全ては空であり、全ては存在しない。人間の人生もこの世にある全ての万物は全て空であると思っています。空であるがゆえに喜怒哀楽も生も死も老いも病も自体もない…。何もない世界…。考えることすら空であるが故にないのですから、人の解釈の違いで天国でもあり地獄にもなる訳です。
では、空であるのなら何もしないでいいのかという今度は別の疑問が起こります。
元々、自分達は存在していないのなら…、やはり何故、空であるはずの自分が今、ここにいて、しょうもない悩みを考えを抱えながらいきているのかと…。
私が創作したり仕事をしている部屋には2つの言葉を印刷した物を大きく壁に貼っています。どちらも幕末に明治維新の礎を作り上げた志士と呼ばれる方々に多大な影響を与えた吉田松陰という偉人の言葉です。1つ目言葉は…。
立志尚特異 (立志は特異をとうとぶ)
俗流與議難 (俗流はともに議し難し)
不思身後業 (身後の業を思はず)
且偸目前安 (且つ目前の安きをぬすむ)
百年一瞬耳 (百年は一瞬のみ)
君子勿素餐 (君子素餐するなかれ)
という言葉。
最初の文はそのまま、「志を立てるためには人と異なることを畏れてはならない」という意味。
2番目の文は、「志をたてたのなら、それが世の中の常識や正論と違う場合でも、その人の言葉に惑わされず貫け」という意味。
3番目の言葉は「死んだあとは、正しく前述の空の存在になるのだから、別に死んだ後の事まで考える必要はない。」という意味。
4番目の言葉は、「楽をしたいと、逃げたりしてもしなくても、結局はいずれはいつか、そのツケは自分に戻るだから、それは一時しのぎである。」という意味。
5番目のの言葉は人がどうあがいて長生きしようとしても百年あるかないか。その時間は、この宇宙が生まれてきた時と比べれば、瞬きの一瞬でさえもない一瞬な出来事にすぎない。」という意味。
6番目の言葉は「自分の身の丈に合わない地位や名誉や権力を実分の力以外の手段で手に入れても、元々身の丈に合わないのだから、どうしてもボロがでてしまい、これもツケをはらう事になるから、身の丈にあう生き方をしなさい」という意味です。
この文の解釈は諸説ありますが、私はそういう意味で捉えています。特に仕事上では2番目の言葉は私は良く言われます。無理やり論破しようとされる方がいらっしゃいますが、私的には余計なお世話なのですし変わることもありません。それは最初の1番目の言葉の考えで行動しているからです。
加えて、3番目の言葉も死んだら空になると思ってますので、異世界転生してチート能力でウハウハが待ってるとも期待していない訳です。4番目の言葉も5番目の言葉も本当に良く分かります。6番目の言葉は、かなり周りで見かけます。私自身は主夫から叩きあげしてきた人間です。ですが、2代目社長とか、生まれた時から良い家系の方は甘やかされ過ぎて身の丈に合う能力をもっている方は少ないです。それどころか、ごく潰しな人ばかりを見てきました。その1円を稼ぐのに、その今のあなたの生まれた環境を作った人がどれだけ苦労して頑張ってきたのかを知らない人…。私自身の子供にはそういう人間にはなって欲しくないと常々思っています。
そして、締めになりますが、前述の言葉と同じく、私が創作したり仕事をしている部屋には2つの言葉のもう1つは…。
『学は人たる所以を学ぶなり』という言葉です。これは特に学問や特定に勉強に関して言われた言葉ではなく、学ぶこと(生きる)という事は、何故、自分がここに居て存在するのかを知る唯一の方法であるという言葉になります。その答えは自分が死ぬその時を迎える時まで答えはでないでしょう…。もしかしたら、死んでも分からなかったと思うかも知れません…。
ですが、この言葉を見て思うのは、1日1日を後悔しないで生きられるかという事です。今、この瞬間に生が失われたとしても、その自分が歩んできた生に対して後悔せずに生きていけるかという問いが、この短い言葉に込められていると思います。
1日1日、朝起きて、まだ生きて存在している事、意外とそんな普通と思う事が本当の幸福なのかも知れません。
[2021年12月27日 自分の死生観をここに記す。かたしよ]
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