第8話 妖怪『場岳 キヌ』の日常生活

 カーテンの閉じられた部屋の中、酒瓶を手にした天音。いつものように酒を飲み、店仕舞い、閉まっているのか開いているのかそれすらも知らせるつもりのない事務所の本日の営業を終了しようとしていた。

――はぁ、今日は来なかったねぇ、お持ち帰りからのやり取りが楽しみだっていうのに

 天音は心を突き破って今すぐにも外へと出てしまいそうな勢いで膨らみ続ける寂しさを酒と共に奥底へと流し込む。晴香のいない一日、晴香がいないことで少しばかり広く感じられる狭い部屋の中に漂う壮大な寂しさはどれだけの仕事をこなして紛らわそうとしても吹き飛ばない。たったひとりの少女がいないだけで心に深い穴が口を大きく開いてしまったように思えた。

 孤独、心の虚空に溺れかけた天音を呼び出す音が響いた。

「出たな、妖怪」

 そう言いながら嬉々とした表情でドアを開ける天音だったが、そこに立つ人物を目にして顔をしかめた。

「なんだアンタかい。化け狸」

「美しさで人を魅了する大妖怪、キヌちゃん参上!」

 ピースサインをきめるキヌに対して、険しい表情と扇子を向けた。

「妖怪がウチに来るなんて、余程この世がイヤにでもなったのね。アタシが三途の川の向こうまで連れてってあげるから安心しな」

 目を見開き大袈裟な手振りで慌てを表して声を張り上げる。

「違う違う死にたくない。せっかく会いに来てあげたのになんて酷い対応」

「アンタみたいなのをもてなすものなんかありゃしないよ、で、何の用?」

 天音の質問を耳にして葉っぱのついたヘアピンをつけた明るい茶髪の美人は夜の闇を照らす笑顔を見せて答える。

「冷やかし」

「アタシのとこに冷やかしだなんてアンタよっぽど冷やされたいそうね。果たして妖怪は絶対零度でも生きていられることやら」

「ちょっと待ってそれはめっ、だよ。ほらほら多様性多様性。人と妖怪も仲良く手を取りご一緒に」

 その言葉を受けてしばらく無言で見つめ合うふたり。近い顔、その空気の中にはどのような感情が流れていたであろうか。少しの沈黙の中、キヌは気まずさを感じていた。まだかまだか、時間の流れはあまりにも遅く感じられた。ただ目を合わせて黙っていた白い和服の女はようやく口を開いた。

「キヌ、アンタにひとつ訊きたいのだけれども」

「……なに?」

 キヌの頬は赤く、熱を帯びて頭が一瞬ふらついた。天音は続きを言の葉に乗せた。

「狸の肉ってどの酒に合うと思う?」

「いや食べないで、違う意味でならまぁ」

「……消えな」

 そのひと言だけを残してドアは閉じられた。



  ☆



爽やかな風が心地よく晴香の髪を揺らす。日差しは晴香の心を穏やかに、晴香の嬉々とした気持ちに滲んで優しい色合いへと変えていく。

――会えるよ会えるよ天音に会えるよるんるんるん

 跳ねるように歩く。心が跳ねているのかたんに身体が跳ねているのか、晴香の顔に焼き付いた輝かしい雰囲気を目にすれば一瞬にして分かること。

 晴香はドアを開けて天音の元へと飛び込んだ。

「会いたかったよ」

 話によるとどうやら学年末テストの平均点の低さに教師たちが怒りの感情を抱いて居残り勉強を強いてきたそうだ。天音はただ頷いて話を聞いていたが、やがて話を聞く耳を投げ捨てて晴香を抱きしめる。

「やっぱアンタの抱き心地はいいね。アタシをかっさらう為につくったみたいなちょうどいいほわほわ感がたまんないものね」

 まるで何年もの間会うことが叶わなかった恋人のような深い愛を分かち合っていたふたり。そんなふたりの甘い想いに水を差す呼び鈴の音が部屋を満たした。

「イケナイねぇ、アタシったらまだ営業時間だのに」

 ほのかな熱を帯びた頬に手を当てながら玄関へと向かう。平静を装い無表情を飾りながらドアを開いた。

「はいいらっしゃい、ウチは……ええと、晴香を愛でる会、退魔課です」

「事務所の名前考えてなかったのね天音」

 勝手に名前を使われたことには言及しないものの、事務所の名前を決めていなかったことには呆れていた。ドアの向こうに立っている男は退魔師事務所の名前など一切興味がないようで早速本題へと身を放り込む。

「実は貧乏神に取り憑かれているのです」

 天音は男をじっと見つめてやがて目を細めて睨みつけ、そしてため息をついて言葉を男に向けて送り出す。

「……まあいいや、で、貧乏神だっけ、アタシに詳しく話しな」

「実は最近彼女ができたのですが普通になにかを買ってあげる度に倍近く飛んでいくのです」

 天音は目を閉じて顎に手を当てながら頷いて聞き、すぐに答えた。

「アンタには貧乏神は憑いてないよ、彼女の方に憑いていて巻き込まれてるかも分からないねぇ。もしそうなら大層強力な霊だろうね、彼女の名前は歳は特徴は」

 男は額に手を当てて記憶から懸命に絞り出すような仕草を見せていた。

「どうしたのかい?」

「わ……分からない。どんな名前だっただろう。見た目は確か茶髪に葉っぱのヘアピン」

「大変結構。アンタ、タチの悪いのに誑かされたようだね。霊祓うから金払え」

 男は散々搾り取られた残りカスのような中身の財布からなけなしの財産を重い心の圧に耐えながらどうにか天音に手渡した。

 天音は悪い笑みを浮かべながら満足げに小躍りしながら事務所を後にした。



  ☆



 暗闇の中、手に持った札束を眺め一枚ずつ数えている怪しい女の姿があった。一枚、二枚、三枚……十枚……二十枚。数える毎にニヤけが強く酷く、夜に似合う怪しさと闇に似合う妖しさをますます深めて蠢かせる。葉っぱのヘアピンをつけることで明るい茶髪をかき分け露わにした白い額は可愛らしく、唇は艶やかで現実離れした美しさをしていた。

「儲けた儲けた、いい金づるだったよ」

 綺麗な声で汚い心を露わにして美貌を台無しにするイヤらしいニヤけを浮かべたスーツ姿の女。そんな女、場岳 キヌのもとに扇子を向ける女がいた。外側の隅は限りなく黒に近い紺色に染まっていて内側に向かうとともに蒼く青く、水色に、そして白へと薄くなっていく色合いの扇子。その扇子の持ち主はキヌに剣を思わせる鋭い目つきによる睨みを向けていた。

「ついに悪事に手を染めてしまったか、妖怪め」

 扇子の持ち主は黒い帯を巻いた白い和服を着た女、天音だった。

「げ、退魔師に見つかっちゃったよ」

「人様を騙すような悪い妖怪はアタシが祓う」

 キヌは慌ててしゃがみ込んで頭を下げる。

「ごめんなさい、命だけは」

 キヌの必死の命乞いをさぞ愉快そうな目で見つめ、満足気な笑みを浮かべて選択肢を突き付ける。

「アタシがアンタのことを祓うか、アンタがアタシに金を払うか、ふたつにひとつ、さあどうぞお好きな方を選びなさいな」

 それから数分後、暗闇の中で天音は札束を手に妖しい笑みを浮かべて事務所に戻っていった。

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