第4話 女子高生『川海 晴香』の記憶力

 酒瓶が床に並べられた部屋の中、くたびれたソファに座り、ある女がテーブルに乗っている瓶を見て手を天井へと伸ばして天を仰ぐ。

「今からアタシは初めてこれに手を出すのだ」

 その女、雨空 天音は瓶の中のものを閉じ込めるコルクの留め金を捻り緩める。途端、豪快な音を立てながらコルクは勢い良く飛ばされ天井にぶつかる。

 微かな湯気の漂う冷たいそれを優しいピンクのリボンのような模様を持つ白く上品なティーカップに注いで眺める。澄んだ黄色の液体は微量の泡を立てていた。

「シードル、リンゴのワイン! それもスパークリングワインを選んだのさ……ふふふ、美味しくないわけがないものよ。見た目ひとつでこのアタシの心に大層染みてくる程の魅力」

 しばらく眺めていたそれを一気に飲み干した。

「アルコール度数はそんなに高くないから食前酒だか食中酒に向いてると店員が言ってはいたものの……確かに物足りないものだねぇ、でも美味しい! もういっぱい口にしようかねぇ」

 シードルを再びカップに注いだその時、呼び鈴は鳴り響く。

「はいはい、この時間は妖怪ていくあうとのお出ましみたいね、すぐ開けるから待ってな」

 窓の向こうにて激しい笑顔を見せていたはずの太陽はいつの間にやら殆ど沈んでしまっていた。白く安っぽい着物の袖を揺らめかせながら歩き、ドアを開けた。

「やはり……出たな! 妖怪ていくあうと!」

 目の前の少女、黒い髪を紫色のリボンで結って制服を纏って訪れる少女、川海 晴香。そんな少女は返事もせずに笑顔で中へと入っていく。狭く短い廊下を歩いた先にあるティーカップ、その中に注がれたものを見て目を輝かせた。

「リンゴジュース? 美味しそう」

 その言葉を耳にしてうるさい足音を立てながら駆け寄る天音、その表情には余裕の欠片すらも見て取れなかった。

「ダメだい、ダメだから。未成年飲酒はイケナイ事だから、アタシはお縄にかけられてもいいけど……お巡りさんはアンタのことも許しちゃくれないよ!」

 社会的死を回避させるため、晴香を社会に生きたまま潜む妖怪にさせないために天音は決死の奮闘に励むのであった。



  ☆



 日は沈み切って空の輝きに隠れていた月が顔を出す。天音は電気を点けて晴香に問う。

「何を持ち帰って来たのか……このアタシにもてんで分からないのだけれども何を潜ませてんのかねぇ、この妖怪ていくあうと」

 晴香はばつが悪そうに視線を下に逸らす。

「安心しな、アタシがいるんだ。アンタ最近何か変わったことない? 悩みとか、さ」

 晴香は顔を上げて目を潤わせて語る。

「記憶力……落ちちゃって」

 顎に手を当てて天音は考える。

「記憶力ねぇ……何処に落としてきてしまったのかい?」

「どこかに落とすものじゃないと思う」

「そうねぇ、敢えて言うなれば過去か……記憶ねぇ。アタシも意外と記憶残らないことあるよ、例えば泥酔した時とか……もしや、アンタ未成年飲酒は公の飼い犬の世話になるからやめときな」

「してないよ!」

 天音は笑い手を軽く振りながら言葉を紡ぐ。

「冗談。それにしても高二で実感するほど記憶力が落ちるだなんてねぇ。ストレス溜まってる?」

 晴香は懸命に首を横に振った。

「そこまで必死になって……取り敢えずテストと行こうか」

 そこからのテスト。明らかに高校の勉強とは関係の無いオカルト用語が列をなした用紙。それを15分ほど眺めて覚えろという事らしい。そして晴香はそれをこなして天音に提出した。

「なるほどなるほど、別に悪い点数でもないけどアンタこれでも満足出来ないくらい頭良かったのかい? その制服なのに? 普通に普通の高校入って頑張ったって事かね」

 晴香は言った。

「すぐにはいいの。そこで覚えたものも。でも、家に帰って勉強したこととか全然身につかなくなって」

 それを聞いて豪快に笑い出す天音。そして晴香の肩に手を置いて、イヤらしいニヤけを浮かべて言うのであった。

「なるほど。今日はウチに泊まって行きな」

 そうして決まったお泊まり会。晴香の作る料理の香りに強く惹かれながら欲を必死に押さえ付けるように抑え込む。まだかまだかと料理をする晴香を見つめていたが、鍋で魚を煮付ける晴香の姿に目を離せなくなってニヤける天音。ただあの子を堪能して心に現れた綿のような感情は食卓に並べられるであろう料理の想像よりも遥かに美味かも知れなかった。

 食卓にご飯が並べられた時、天音はつい言ってしまっていた。

「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさま……ってえぇ!? まだひと口も食べてないのに?」

「あっ、ゴメンよ。いただきます」

 その感情は夜の闇に隠す事にした。

 そして楽しい時は過ぎ、晴香は天音のベッドに入る。

「天音、本当に私が使ってもいいの?」

「いいの、アタシはガサツだからいつもソファで寝てるくらいだし」

「それベッドがあっても意味ないじゃん」

 それだけ残して晴香は眠りの世界へと旅立って行く。天音は考えていた。テストの結果は問題無し、家に帰った後の勉強が身につかない。そして潜む気配。それはきっとこのような結論だろう。

「寝ている間に動くやつ、かな」

 寝ている間に記憶を整理する、それが夢として流れる、それは脳の構造として普通のこと。帰った後の勉強が身につかないと言うのなら想定されるのは夜の勉強からの夢での記憶整理の異常。その怪異の正体は恐らく夢を食う存在。

 晴香の内より影が現れ晴香に鼻を伸ばしていた。天音は鋭い笑みを浮かべていた。

「出たね、夢喰いバク」

 現れたバクは晴香の夢を覗き込み食べて行く。バクは時々ニヤけながら顔を赤くして鼻の下を伸ばしていた。

「朝と夜が堪らねぇなぁ。せっかくだし良いもの食ってかなきゃな」

「この変態め」

 天音は変態バクの独り言を耳にして呆れ切っていた。しばらく冷めた目で見つめているとバクは次に甲高い声で歓喜を示した。

「いいないいな晴香と天音。良い百合だぜ」

 途端、天音の目付きは鬼のように恐ろしいものへと変貌を遂げていた。

「許さない、許さない! アタシと晴香の関係は誰にも邪魔させない! 例え神さまでもこの関係には静観以外の選択肢はない!」

 それからの行動は素早かった。バクの頭をつかみ壁に叩きつけ、それから日が昇るまでの間制裁を加え続けたのだという。

 カーテンから細い日差しが漏れ込んでいる朝、晴香は目を開いた。目の前にいる和服の女の顔はなに故か不自然な程に明るかった。

「おはよう天音。何か嬉しそう」

 天音は晴香の言葉に対していつもより晴れやかな声で答えるのであった。

「そうね、楽しい夜だったもの。それはもうとても」

 晴香は顔を赤く染めて自身の身体を抱きしめて辺りを見回す。その様子を見た天音は高らかに笑って言った。

「安心しな、許可のひとつもなけりゃアタシは誰も取って食いやしないから」

 それを聞いてもなお、恥ずかしそうに縮こまっている晴香であった。

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