退魔師『雨空 天音』の業務録

焼魚圭

第1話 女子高生『川海 晴香』の肩こり(初回文字数拡大スペシャル)

 太陽は傾き、心に響く茜色の空へと染まる。それに心を打たれる人々もいるであろう。校門を通り抜け、川海 晴香は空を見上げる。暗くなる少し前の赤い空。ブレザーを着て髪を紫色のリボンでひとつに纏めた少女の歩く姿は少しばかり頼りない。

「くる……時間がくる」

 その少女、晴香は空を見上げて他の人々とは違った意味で心を打たれていた。

 普段ならばもうとっくに帰ってしまっているであろう。しかし、最近の悩みを解決する為にはもうそこに頼るしかないのだ。晴香は肩こりに悩まされている。母からのマッサージやデパートの休憩スペースに置いてあるマッサージチェアなどを試したものの全く効果が出なかったのだった。それだけならばこれから向かう場所に用などなかっただろう。しかし、問題はそれだけではなかった。もうひとつ、太陽が沈み切った後の暗闇、その闇の中から常に何かの視線を感じるのだ。背中に張り付く視線は首に纏わりくような感触すらも晴香に与え、湿り気のある気持ち悪さと粘り気のある恐怖を与えてくるのだ。


 川海 晴香は陽が隠れる事で露わになる恐怖に心を打たれていた。


 メモ用紙に書かれた住所の元へ、隅に埃やカビの溜まった古びたアパートへと、2階を目指して階段を上る。所々欠けた階段、風雨によって削られ砕かれかけた壁、妙に暗く湿った空気を感じさせるそれは最早幽霊屋敷の一歩手前であった。階段を踏む度に溜まった砂と靴が音もない空気を破り不気味な調べを奏でる。晴香は髪を結んでいる紫色のリボンを触る。祖母が昔くれたリボン、今は亡き優しい祖母のことを思い出して勇気をもらう。

 そうして上り詰めた先、その中でも黒ずんだ御札がドアに大量に貼り付けられた部屋のインターホンを押す。するとすぐに返事が来るのであった。

「ちょっと待っていたまえ……うおっ」

 余裕の無い張り詰めた感情がインターホン越しにも伝わって来た。

「待て待て開くなよ、ちょっと、そこなんで崩れるの!」

 物が落ちるような音が聞こえて来た。待とうとしていた晴香だったが、辺りを見回して余裕を闇の中に落としてしまった。

 湿った感触、粘り気のある視線、妙に生々しい重さ、我慢など出来ずにドアを開いて逃げ込むように入り込んだ。

 そこにいたのは和服を着た明るい茶髪の女。なんと、女は焦り慌てて物を押し入れに無理やり詰め込んでいたのであった。

-ただの片付け!?-

 期待外れ、それが正直な感想。床に並べられた大量の酒瓶は一体何に使うのだろう、明らかに女の飲み物だろう。

「すみません、失礼しました」

 踵をめぐらし立ち去ろうとした晴香を和服姿の女は鋭い声で射抜く。

「アンタ、ツイてるね。運とかじゃなくてトンデモないモノが」

 そんなことは本人が分かっていた。その指摘だけで信用するにはあまりにも部屋が汚すぎた。

「良いのかい? ソイツ、アンタの事喰おうとしてるよ、毎晩毎晩寝静まった時にアンタの身ぐるみ剥がそうと必死さ、お盛んだねぇ」

「いや、変態の霊なの!?」

 ついつい反応してしまった晴香、女は「冗談」と発しながら笑って晴香の後ろから首に腕を巻き付けるように抱きついて右肩に頭を乗せる。

「こんな感じで憑いてる。肩が重い、湿ったような感触、アンタへの生々しい愛を込めた生きた感情を向ける死霊の視線。アタシに会わなければ今夜にでも死線の向こうにいちにのさんで踏み込んでたかもね」

 女は訊ねた。

「アンタ、名前は?」

 重く思える口をどうにか開く。束の間の沈黙は永遠の閉口のように感じられる程に長く感じられた。

「川海 晴香、高校2年生です」

「アタシは雨空 天音。野良ネコのように自由な退魔師さ、将来は有望な化け猫だったりして」

 いつまでも離れない天音に晴香は顔を赤くしながら言葉をかける。

「いつまで抱きついてるんですか」

「アンタに憑いてる霊と一体化したからアタシも離れらんないワケよ」

 その言葉は誰が聞いても分かるほどに感情の籠らぬ素晴らしき棒読みだった。

「嘘つかないで」

「じゃあまずはお焚き上げといきますか」

「無視しないで」

 天音は晴香からようやく離れてテーブルから小さな紙の箱を取って中から棒を取り出す。その棒にライターで火を点ける。天音はタバコを吸い始めたのであった。

「お焚き上げってもしかして……」

「そう、これ。退魔師の気が混じった優秀な煙だろう?」

「そんなので祓えてたまるものですか!」

 煙は晴香に纏わりついて、人のような姿を取って晴香を包み込み始める。

「ちょっと、どこ触ってるの」

「申し訳ない、アタシの邪念が入ってしまった!」

「エロ退魔師さん酷い」

「いいかい? 霊は不浄なものを嫌うのさ」

「言い訳うるさい」

 やがて煙は晴香に取り憑いた霊を引き剥がしていく。晴香から引き離される霊は低いうめき声を上げながら目の前の少女のポニーテールを作り上げる紫色のリボンに手を伸ばす。

 晴香は後ろを向いて呻く霊、その姿を見て驚きの声を上げた。

「おばあちゃん!?」

 その姿は今は亡き祖母、晴香に取り憑いていた幽霊の正体は大好きなおばあちゃんだったのだ。

 晴香は祖母の優しい目を見て、死霊という存在に成り果てて粘り気を持った雰囲気の中に潜んでしまった暖かさに触れて手を伸ばす。

「おばあちゃん、ずっと一緒にいたかったんだね」

 祖母は微笑み、煙に包まれて消えて行った。

「ふぅ、おしまいっと」

 そう呟いて煙を吐く天音に晴香は頭を下げる。

「天音さん、ありがとうございました」

 天音は気だるげにタバコを吸いながら目を逸らした。

「どうして礼なんか言うのさ、アンタの大切な祖母の霊を祓ったのは他でもないアタシなのに」

「だって……」

 一瞬口を噤み、溢れ出そうな感情を飲み込んで言葉を紡ぐ。

「幽霊だからって怖がってた私に大切な人だって教えてくれたから。苦しそうなおばあちゃんを助けてくれたから」

 その表情は太陽のように眩しく花のように美しく咲き誇っていた。



  ☆



 その後、天音は高そうな濃い水色の扇子を広げて晴香を追い出すように煽り扇ぐ。

「ほらほらもうこんなとこ来るんじゃないよ、ここには霊に取り憑かれるか霊的な能力を持った人かアタシに許された人しか立ち入ることなど出来ないものだから」

「一緒にいたいよ、寂しい」

「問、人に取り憑いた霊を取り除け、ただしアフターケアはしないものとする! だからさ、もし必要なら家族の大切さを噛み締めながらスネでも齧っていな」

「それニート」

 それから問答無用で追い出すことで晴香を日常生活に戻し、天音もまた、退魔師としての仕事の待機時間、つまり彼女もまた日常生活へと戻ってから数日が経った。あの少女から金も品も取らずに霊を祓ってしまったこと、それを後悔しながら暑くもないのに扇子を広げて扇ぎ、昆布を噛み締めて酒を飲みながらソファに寝転がっていた。

「はあぁ、ひもじい……ここ数日水と酒とつまみしか摂ってない」

 数日前のことを思い出していた。

「金をたんまり頂いときゃ良かったな……あぁ、誰かエビスか座敷わらしでも引き連れて来ないかなぁ、そしたらソイツからひっぺがして富を独り占め。妖怪にも独占禁止法とか適用されるのかねぇ」

 そうして過ごすこと10分程が経過して、周りと比べてこもったような音の呼び鈴が鳴り響く。

「来た来た来た来たキタキツネ! アタシの大切な金づ……お客様!」

 ドアを開いた天音が目にした人物はつい先日前に家を訪ねていたあの少女。

「お客様は神さまですが、疫病神の方はお引き取り願います」

 そう言ってドアを閉じようとするも、目の前の少女はドアを掴んで入り込んで来る。酒に酔った身体では踏ん張りが効かずに勝つことなど出来なかった。

「誰が疫病神よ」

 丁寧語ですらなくなっていた。天音は顔を顰めながら訊ねた。

「何をどうすれば祓った数日後に動物霊に取り憑かれるのさ」

「落ちてたスズメの死体を公園に埋めたらなんだか身体が重くなっちゃって。祓って」

「くっ、余計なことを」

 小声で毒づく天音。当然聞き取ることも出来なかった。

「何? どうしたの」

「うるさい! ドライブスルー感覚で霊をお持ち帰りなんかして。この『妖怪ていくあうと』め!」

 晴香に払える金も何もないことを確かめた天音は渋々晴香を手伝い役として雇うことで再び霊を祓ったのであった。

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