第9話 母に似た女
目を閉じていたのは三十分ほどだった。
『タリアはあのなんとかという側仕えに引き渡して城から逃がした。あの者ならば大丈夫だろうと護衛も監視も付けておらぬ。故に城から出た先は知らぬ』
トルアにベッドに寝かしつけられ、もう一度目が覚めたサトルはそのままサングィスの元へ向かった。
今度はトルアも一緒だ。対面してすぐ挨拶を終えた彼女は、いまはサトルの背後に控えている。
サングィスは目だけを出した、蛇腹のホースが付いた大型のマスクを付けられ、ライトグリーンに輝く薬液が満たされた筒状の水槽に浮かんでいた。
水槽は白で統一された医務室に合計十基が並び、それを支える土台からはケーブルが何本も伸び、すぐ脇に置かれたコンソールにそれぞれ繋がっている。
サトルも剣術の稽古で大怪我をした時などはよくこれに入れられ、薬液が傷を癒やすまでのまどろみを経験している。
サングィスが浮かぶ水槽の前でサトルは、彼に事情を訊いていた。
「タリアとはなにか話をしていたんですか?」
タリアに恩義を感じている、というのは方便ではない。
『あのときも言ったが、我には仕事があった。母上が教鞭を持って控えていたためにうかつに厠へ行くこともままならず難儀したがな』
サングィスは冗談を言う時も表情を崩さない。
いまは顔の半分以上をチューブが繋がったマスクに覆われているので余計に分かりづらくて困る。
『タリアはおとなしくしていた。持参していた銃の手入れをしたり、母上やこちらの側仕えたちと談笑していた。なにを話していたかまでは覚えておらぬ』
そうですか、と答え、次の質問を考える。
思い浮かぶのはやはり、あの爆発のことだ。
「あの爆発はどこで起こったかわかりますか?」
『我の執務室だ』
え、と驚くサトルの耳を、ベスの警報が打ち据える。
『サトル、敵襲です! 数、ひとつ! ……おそらく、オゥマ・サョリと思われます!』
『ベス殿、いまなんと申した』
さらなる報告にすっかり混乱したサトルに代わってサングィスが問う。
『オゥマ・サョリと思われるサヴロスがこの船へ向かっています。観測された状況から、襲撃と判断しました』
うむ、と冷静に頷き、
『ベス殿。これは、あとどのぐらいかかる』
『あと一〇分と二十三秒です』
『そんなには待てぬ。どうにかならぬか』
『ここへいらっしゃった時に受けていた傷の治療はもうまもなく終わりますが、陛下はそれ以前から全身に根深い損傷をお持ちです。そのポッドが行う治療は、そういう損傷も自動で発見して治療を行います。
一度始めた治療を中断することは、御身に多大な負荷と負担を強います故、どうかご辛抱なさってください』
静かな、だが真摯なベスの説明に、サングィスはゆっくりと頷く。
『……わかった。すまぬが頼む』
サトルに視線を合わせ、サングィスは強く言う。
『逃げろ。おそらくサョリは我を』
そこまで言ったところで、船全体を激しい揺れが襲った。サトルもバランスを崩し、サングィスのカプセルに手をついてしまう。
『本船直上で法術による爆発。損傷は軽微』
ベスとは少し違う女声が事務的に報告する。むしろその声で冷静さを取り戻したサトルが、覚悟をもって言う。
「ベス、外の状況をモニターに出して」
はい、と返事のあと、サトルとサングィスの間に一枚のホロ・モニターが浮かび上がり、外の状況を映し出す。
船体の外郭部にはツタが絡みつき、金属製で無骨な外観を柔らかくしている。地上を進む船だからと何代か前の船長がそうさせたのだが、砂漠や荒野を走っている船の姿はある種異様でもある。
船の上部にある、元はヘリポートとして使われていた箇所に生い茂るツタが、焼け焦げている。
その少し上にはサヴロス特有の長い爪を持つ足。カメラが少し引いてその主の全貌を映す。やはり、サョリだった。
『サングィス、出てこい。我が姫を弑した罪、その命で償わせる』
なにを言っているのか、分からなかった。
「なにを言ってるの、母さん」
サョリを撮影するカメラにこちらからの映像と音声を繋ぎ、サトルは困惑しながらも問いかけた。
『サトル、そんな乱暴なオスの前にいては危険よ。はやく逃げなさい』
にっこりと、傍目には柔らかな母の笑みにしか見えないその表情に、サトルは背筋が凍った。
「あなたこそ、誰ですか。いきなり、ひとの船に攻撃してくるなんて、ひどいじゃないですか」
声がうわずっていることぐらい自分でも分かっている。
『あら。さっき母さん、って呼んでおいてその言い草はなにかしら』
違う。
母は、ナリヤ・フウコはいくら怒っていてもこんなことは言わない。
だからこのサヴロスはオゥマ・サョリでもナリヤ・フウコでもない。
「ぼくの見間違いだったようです。母は近衞のひとたちと一緒に無事だと聞いています。なのに、サングィスさまを悪く言うようなひとは、サョリさんなんかじゃないです」
『そう。ならあなたもそのオスの味方をするのね?』
「サングィスさまは母さんの大切なひとです。だから守ります。あなたがどういう理由で命を狙うのかは分かりませんが、ぼくの母さんもサョリさんも、ぼくが守ります』
あの日母は「義母の娘として育った記憶を植え付けた」と言っていた。
ならいまの母は、サングィスを仇として狙うような記憶を植え付けられているのだ。
そうでなければこの変容は説明が付かない。
『サトル、彼女は』
ベスが言いかけた報告を、サトルは制する。
「言わなくていいよ。ぼくだってそれぐらい分かる。タリアのことは心配だけど、いまはあのひとをどうにかしないと、サングィスさまが危ない」
『治癒が終わり次第、我も加勢する。母子で戦うなぞ、あってはならぬ』
言って視線でトルアにも加勢を命じ、彼女も恭しく頭を垂れる。
「夫婦で戦うことだって駄目ですよ。……ぼくは、母にもサョリさんからも捨てられたんです。だからぼくが、どうにかします」
『そのようなことを、』
「お気を悪くしたのなら謝ります。でも、そう思わないと、あのひとに殺意を向けられないんです」
サトルの決意を、画面越しのサョリは一笑に付す。
『は、殺意を向けた程度でわたしに勝てるなんて、甘く見られたものね!』
挑発しながら掲げた右掌の上に炎が集まり、一瞬でひと抱えもある火球へと変わる。そしてそれを躊躇無く、足下へ投げつけた。
先ほどとは比較にならないほどの爆発と揺れが船を襲う。
『船体右舷部に破損。第一から第四までの装甲が融解』
「ん。第四ならまだ貫通してないね」
『はい。ですが、もう一度同じ威力の法術を受けた場合、壁を挟んだ格納庫へも被害が予想されます』
わかった、と返してサングィスともう一度視線を合わせる。
「いってきます。ここなら、腕を切られた程度ならすぐ治せますから、心配しないでください」
自分でも不安になるぐらい、笑顔だった。
『…………』
サングィスも何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
「腕の一、二本ぐらい覚悟しないと本気のあのひとに勝つことなんて出来ないですから」
『気付いて、いたのか』
「ぼくだって剣士のはしくれです。あのときのサョリさん、法術を使おうとして止めるっていう隙がちょくちょくありましたから」
それは、ほんの一瞬の隙。
最初は罠かと疑うほどに。
『……すまぬ』
いえ、と返して出口へ振り返り、歩き出す。
通り過ぎる前にトルアに軽く会釈すると、胸に手を当てて一歩踏み出す。
「サトルさま。お供します」
「いいの? トルアさんはサョリさんの近衞なんですよね」
「はい。サョリさまのご子息であらせられるサトルさまなら、わたくしにとって主も同義ですから」
それに、とひと言置いて、
「いまのサョリさまには記憶混合の法術がかけられています。それ故にあのような言動をなさっているのです」
「やっぱり。なら、治すことはできるんですか?」
「本来、記憶に関する法術は、半年から一年をかけて徐々に行うもの。この短期間に行われたとなれば、それだけほころびがあるはずです。肉体的、あるいは精神的な強い衝撃を与えれば、可能かと」
よかった、と胸をなで下ろす。
せめて、サングィスとは幸せに暮らして欲しいから。
『サトル、それでも無理だった場合はわたしが治します。短期記憶の強制的な上書きなら、眠っている記憶を呼び起こすことで人格が戻ります』
ベスの言葉に、サトルは笑みで返す。
「ふたりともありがと」
「いえ。わたくしも主を助けたいのです」
『サョリ、いいえ、フウコはわたしにとっても大切な友人です。望まない不幸からは救いたいのです』
うん、と頷いて、じゃあいきましょう、と医務室を出る。
「間違えたら大変なので、後ろから法術とかで援護してもらえると助かります」
半分は冗談だ。さすがに鱗の色が違うふたりを間違えることはない。が、乱戦時に見分けている数瞬が命取りになる。
いまのサョリはそういう相手だ。
トルアもサトルの真意を読み取って微笑む。
「はい。治癒と幻惑の法術ならちょっとしたものなんですよ」
「えっと、できればぼくひとりで闘いたいので、治癒の術だけでお願いします」
あら、と驚いて見せ、
「サョリさまはお強いです。危ないと感じたらわたくしは援護に入ります。サトルさまを護衛するという任務はまだ継続中ですので」
「うん。お願いします」
言いながらふたりは駆け出し、屋上のヘリポートへ向かった。
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