第46話 地上の理想郷

 今でも月を見ると思い出す。


 ──何をしてもひとりだった。


 道を歩けば人が離れ、嘲笑とひそひそ話が響く。ある者は俺の手の甲に軽蔑するような目を、ある者は憎悪するような目を向けてきた。


 立ち直るまで結構な時間を要したのを覚えている。


 それでも世界の理に従って、俺は生きていくことにした。


 無理を言って魔法学院に入り、そこでひたすら魔法を学んだ。打ちのめされても、命の危機が迫るまでは頑張った。


 なんとかもう一度、皆に認めてもらおう、と。


 だが、そんな日が来ることは終ぞなかった。


 だから夜空に輝く月を見ているとしみじみと思う。


 届くはずのない月に一人手を伸ばしていた自分を。いつかまた陽の光を拝めると信じていた自分を──


 ……


 ──黒歴史だ。


 やり直し前、晩年の自分はそんな詩ばかりを詠っていたが、死ぬ前に詩集は全て焼いた。


 ともかく、一人になるとどんなことにも感傷的になるものだ。欠伸や咳にすら特別な何かを感じてしまう。それが、晩年の俺だった。


 だが、今思えば一人と言うのも案外悪くない。


 変におべっかを使う必要もない。読書を邪魔する者もいない。綺麗な月を独り占めにすることだってできる……そして、静かに風呂に入れる。


 だから、一人も悪いもんじゃない。


 今は、そう思えるようになった。


「チュー!! 入り口にある入浴のススメを呼んだやつから入るっす!!」


 巨大なドーム状の天井に、鼠人の声が木霊した。


 床も壁も屋根も全てが大理石のせいか、非常に声が響く。まるで鼠人が数百、いや数千いるようにも思わせる。実際、総数はそれぐらいいるのだが……


 今俺がいるこの場所は、アルス島の大浴場だ。


 歴史家は、古代の大浴場をよく地上の理想郷に例える。


 入浴に対しての帝国人の並々ならぬこだわりが、まるで神々のいる天国を模造していると言うのだ。


 古代のルクシア帝国は、こんなものを作っているから分裂し衰退した……怠惰や贅沢なことを批判するときなど、批判的な意味合いでこの”地上の理想郷”は使われることが多い。


 まあそれはどうでもよくて……とにかくこの浴場の設備は息を呑むほどに素晴らしい。


 まず内装からして違う。


 大理石の壁は彫像や彫刻で彩られ、天井のドーム屋根には巨大なガラスのようなものが嵌めこまれている。


 それだけでなく、泡がブクブク出る浴槽や、暖かい湯気の立ち込める魔導具などもあった。また、蛇口や浴槽の水は、全部お湯だ。


 当初、ここは床や壁に苔やカビなどが生えていたり、浴槽に緑色の謎の液体が張っていたりして、とても入浴できる状態ではなかった。


 しかしスライムが苔やカビを丹念に取り除き、壊れた床や壁はゴーレムや青髪族が直してくれたのだ。


 そうして今日、まるで新築のような輝きを取り戻した。浴槽には、回復効果のある温かいお湯が張っている。


「たしかに、地上の理想郷だな……設備だけなら」

「チュー! 早くあのお湯に飛び込みたいっす!」


 ……こんな素晴らしい浴場なのに、ともかくうるさい。


 鼠人たちは初めて入る大浴場に、興奮を隠せないようだった。


「体をしっかり洗ってから入るっすよ! 背中は洗いにくいから、他のやつに洗ってもらうっす! 絶対に浴槽のお湯は汚しちゃいけないっす!」


 ティアは浴場に入ってきた者たちにそう叫ぶ。


 皆、ちゃんと決まりを守ってくれているようだ。

 鼠人たちは布と泡立てた石鹸でごしごしと体を洗い、雨のようにお湯が出てくる管で体を洗い流す。


 スライムもお湯で体を流していた。とろんと体をとろけさせているが、流れていかないだろうか心配になる。


 また、ゴーレムや鎧族も体の汚れを流している。ぴかぴかになった岩や鎧の体を自慢し合っているようだ。彼らも身なりは気になるのだろう。


 俺も椅子に座り、やり直し前や拠点でやっていたように手早く体を洗っていった。


「やっぱり温かいお湯はいい……うん?」

「……ブヒヒ」


 鼠人以外の声が響いた気がした。

 だが、鼠人の声が大きすぎて聞こえない。


 勘違いかと思い、再び俺は体を洗おうとする。


 しかし、突如、隣で膝を突く女性が。


 すらりとした四肢と絹のような肌……優美な曲線を描いた胴体は、ちょっと腹筋が割れている。

 視線を上げると、そこには長いブロンドの髪を後ろでまとめた……エリシアがいた。


「え、エリシア? な、なんでここに?」

「アレク様、お背中をお流ししますね」

「い、いや、いいって……一人でできるし」

「ですがアレク様。もう少ししたら、帝都に行くのです。私もその……少し勉強させてください」

「勉強って何を……? と、ともかく帝都でも風呂なんて誰も見ないから大丈夫だって」


 宮殿をはじめとする帝都の雅な場所では、エリシアは使用人らしく振る舞わないといけない。たしかにそのための勉強は必要かもしれないが……


「だ、誰かが覗く可能性もあるじゃないですか!?」

「ど、どんな状況? いやまあ、入浴中に襲われることはあるかもだけど」


 皇族や貴族が入浴する際に使用人をつけるのは、暗殺を防ぐ意味合いもある。下級貴族に多いが、一人で入浴している際、よく暗殺される事例も聞く。


「お、俺は大丈夫だよ!」

「し、失礼しました」


 少し強く答えたせいか、エリシアはしょんぼりとしてしまった。


 ──そんな落ち込まなくてもいいじゃん。


 思えば、ここまで付いてきてくれたエリシアに俺はまだ何もしてないな……なんだか少し悪く思ってしまう。


 俺の背中を洗わせることが礼になるとはとても思えないが、何故かエリシアはことあるごとに俺の背中を洗おうかと聞いてくる。


 まあ、背中だけならいいかな……


「ま、まあ、その、背中だけなら……」


 そう答えると、エリシアはにぱっと顔を明るくする。


「ほ、本当ですか!?」

「あ、ああ。だけど、背中だけだよ」

「そこらへんは弁えております。まだアレク様はお早い……私のほうはいつでも歓迎なのですが」


 何が歓迎なのだろうか……


「と、ともかく。洗うなら早く……じゃないと自分で洗う」

「はい!」


 エリシアはそう答えると、俺の後ろに回り背中や首など、洗いにくい場所を直接手で洗ってくれた。


「ぬ、布は使わないの?」

「嫌、でしょうか?」

「そ、そんなことはないけど」


 すべすべとしたエリシアの手に、なんとなく恥ずかしい気分になる。


 とはいえ人にこうして触れてもらうなんて、やり直し前の俺にはなかった。エリシアの優しい手つきに、どこか安心感を覚える。


 次第に恥ずかしさは薄れていった。


 最初はやかましく覚えた鼠人の声も、なんだか賑やかだ。歌を口ずさむ者もいるし。


「なあ、エリシア……」

「どうしました、アレク様?」

「いや……いいなって。こういうのも。むしろもっと……」


 一人もいいが、賑やかなのも悪くない。もっと賑やかでもいいだろう。


 やり直し前の俺は、見返したいとか認められたいとか、そんなことを望んでいた。


 でも本当はただ……孤独が寂しかっただけなのかもしれない。


 もちろん一人の時間も欲しいが、願わくばずっとこうして皆と賑やかに暮らしたいものだ。


 だが、何故天使が俺を襲うのかとか、これから皇帝に会わなければいけないなど、不安なことは多い。闇魔法もまだまだ分からないことが多いし……


 そこらへんも乗り越えて、初めて悠々自適に暮らせるな。


 ともかく今は、ここまで付き合ってくれたエリシアに感謝しよう。


 そう思い、エリシアに顔を向けると……


 恍惚とした表情のエリシアがいた。


「あ、アレク様……ありがとうございます!! なら、”もっと”やらせていただきます!」

「そ、そういう意味じゃなくて! ──っ!?」

「アレク様! 私が丹念に隅々までアレク様のお身体を綺麗にしますからね! ブヒヒッ!」

「やめろ、エリシア! そこは自分で洗える! も、もういい……っ!?」


 立ち上がりその場を離れようとすると、これまた息を呑むほど美しい女性たちが立っていた。


「ユーリ……セレーナ。それに、ティカとネイトも」


 皆、胸と腰が隠れるように布を巻いているが……とても直視できない。


 ユーリがぷくっと頬を膨らませて言う。


「エリシアだけずるいです!」

「そうです! アレク様の可愛い体を独り占めしようなんて……!」


 セレーナがそう言うと、皆唖然とした表情でセレーナを見る。


 あわててティカが声を上げる。


「そ、そうじゃなくて、あくまで帝都で使用人としてやっていくために体を洗わせてもらうっていう名分じゃ」

「ティカ……ティカも言っちゃいけないことを言ってる」


 ネイトの声に、ティカはあっと両手で口を抑える。


 セレーナは俺に顔を向けると、目を泳がせながら言う。


「わ、私たちも、帝都で使用人としてのマナーを学ばせてもらおうと思った所存であります!! ぜ、ぜひ、皇族の方の入浴の際の決まりをお教えください!」

「いや、もうさっき本音言っちゃってるからね……よく信じてもらえると思ったな」


 エリシアたちは俺をどんな目で見ているんだ……俺はまだ子供だぞ。


「と、ともかく、もう体はいい! 自分で洗える!」

「そ、そう仰らずに!」


 エリシアはあわてて俺を引き留めようとする。


 しかし俺は《転移》を使い……


「ってあれ? 《転移》できない? あっ……」


 この浴場には、聖属性の魔力を含んだアルスの水が使われている。お湯はもちろん、やたらと濃い霧もその水だ。


 だから、この浴場には聖属性の魔力が蔓延しており、闇属性の魔法が使いにくい。


「まさか、お前たち……それを見越して」


 エリシアたちは少し申し訳なさそうな顔をする。


 さっそく俺は浴場で謀られたようだ。


「わ、私たちはもっとアレク様とその……」

「悪気がないのは分かってる……でも、俺はもう一人で洗う──っ!?」


 そう言って椅子に座ろうとすると、思わず石鹸で足を滑らせる。


 とっさに風魔法で衝撃を和らげようとするが、皆が俺に駆け寄っていた。


「アレク様!」


 一番最初に受け止めてくれたのは、スライムのエリクだった。他のスライムもやってきて、まるでソファーのようになってくれていた。


「あ、ありがとう、エリク、皆」

「アレク様、申し訳ございません!? 大丈夫ですか!? ……きゃっ!?」


 セレーナが足を滑らせたせいで、エリシアたちも俺のもとに倒れていった。


 スライムはそんなエリシアたちを何とかしようと、体を広げ受け止めてくれた。


 だが、おかげで俺たちはスライムの粘液まみれとなってしまった。


 エリシアたちは顔を青くして、こちらに向ける。皆、体に巻いてしまっていた布が外れてしまっている。


「あ、アレク様……申し訳ありません!」


 ……風呂は一人が一番だ。


 そう思いつつも、申し訳なさそうな顔の皆を見て、俺は皆に背中を洗ってもらうのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る