砂漠のオラクル~アリス黙示録~

平河廣海

砂漠のオラクル~アリス黙示録~

 空気を震わせるような轟音とともに、涼やかな風が流れる。

 灼熱の不毛の地――ユダヤ砂漠や荒れ野が周囲に広がっているとは思えないほど見事な滝――カナンの滝が、数十メートルほどの断崖から流れ落ちる。不毛の地となっているカナン地方一帯では、欠かすことのできない水源であり、オアシスとなっていて、ここガリルト神王国から南のバノルス王国の首都、カファルナウムをも潤し、この一帯は乳と蜜の流れる地と呼ばれるほど豊かな地だ。

 人々の暮らしになくてはならない、「神からの恵み」なのだ。

 その滝壺で滝に打たれる影が一つあった。


「……」


 両手を一つにして無心に神に祈る少女。

 ここは神である、ガリルトしんに祈り、時には神託を受けることもあるような神聖な場所でもあるのだ。

 神と真正面から、包み隠さず向き合うため、彼女は衣をまとわず、白い肌をあらわにして熱心に祈っていた。


 御在天なる母なるガリルト神よ。

 願わくは御名を崇めさせ給へ。

 御国を来たらせ給へ。

 御心の天になる如く、地にも為させ給へ。

 我らの日用にちようかてを今日もあたへ給へ。

 我らに罪を犯すものを我らがゆるす如く、我らの罪をも赦し給へ。

 我らを試みに合わせず、悪より救いいだし給へ。

 国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。

 エイメン。


 鈴の音のような声音が辺りに響く。

 芯の通った、優しい音色。

 見るものを厳かな気持ちにさせるその祈りは、まさに神聖なものだ。

 それもそのはず、彼女――アリシア・エリー・ガリルトは百年前に存在した最後の巫女の中の巫女と呼ばれる、「オラクル」の末裔だった。

 最後のオラクルの名は、アリス・エリー・ガリルト。

 バノルス王国へと嫁ぎ、オラクルが滅びるきっかけを作った、リベカ・エリー・ガリルトとともに一時代を築いたオラクルであり、為政者であり、オラクルが滅びた後、御国を守るためにバノルス王国の支配下で自治する道を選んだ、ある人によってはガリルト神の威厳を損なった裏切り者、またある人によってはオラクルのいなくなったガリルト神王国を守った英雄という二分の評価を受けている。

 その末裔であるアリシアは、昨夜ガリルト神から夢枕で神託を受けた。

 ガリルト神からの使いが降臨する、『その時』が来たのだ。

 それはつまり、百年前にアリスが授かった預言が実現するときが来たということ。

 預言が記されているアリス黙示録にはこうある。

 聖戦の果てに常闇とこやみの世から解き放たれん、と。

 これは、悪魔の国であるマスグレイヴ帝国からの侵略や、オラクルの滅亡、ガリルトとバノルスの溝といった、ガリルトにとってどん底にあるといえる今の時代のことを指しているのかもしれない。そうでなくとも、重要なお役目になるに違いない。

 そして黙示録にはこうも記されている。


「巫女が大いなる力をたずさえ、灼熱しゃくねつの砂漠へと向かった」

「巫女は彼の使いと契約を交わし、神の力を分け与えながら一つとなった」


 大いなる力のことはわからない。

 強力な魔法道具であり、幾度もバノルスがマスグレイヴからの攻撃をしのいだ際に用い、リベカがガリルト神からの命により作ったとされる、三つの神器ならば納得だ。

 膨大な魔力を自由自在に操る「ヤサカグミ・ガリルト」。

 物理的な魔法を司り、全てを終わらせるとされる「ヤサコニ・イオツミスマル」。

 そして、全てを破壊するとされ、百年前の戦ではあまりの強大さに暴走してしまい、バノルス、マスグレイヴの軍双方を壊滅させた、「しろがねつるぎ」こと「ケセフ・ヘレヴ」。

 しかし、いずれもバノルス王家が伝承していて、ガリルト側にはない。ケセフ・ヘレヴに至っては、どこかに封印されたという伝承のみが残され、現在それを見た者はいないという顛末だ。

 せいぜいガリルトがはるか昔から受け継いでいるとされているのは、ここカナンの滝や、カナン神殿、そして……。




「キーっ!!」

「あー、はいはい、ちょっと待って、ノエル。服、着られないでしょ?」


 滝のそばにある天幕に戻ると、一目散にノエルがアリシアに駆け寄り、足元をぐるぐると駆け回る。

 間違って踏んでしまわないように注意しながら、巫女からタオルを受け取った。

 この手のひらサイズのイタチのような生き物が、遥か昔からガリルトが守り続けているとされる、ノエルだ。ずっと生き続けているらしいが、本当なのかはわからない。それでも多少魔法を使えたり、歴代のオラクルに「フルシンクロ」という魔法で力を貸したりしていることから、何かしらの力はあるのだろう。

 そんなノエルは、歴代のオラクルの中でも、その時代時代で一番親しかった者たちが継承してきたとされる。オラクルが滅びてからは、かつてオラクルだったものの家系で一番親しかった者たちが継承していた。

 つまり、アリシアは当代で一番ノエルと親しく、継承者なのだ。そのため、齢が十三のアリシアが行く先々にノエルが同行し、可愛いボディガードのような、お目付け役のような役目をしている。

 ただし、それはガリルト神の前では当てはまらず、真正面から神と向き合うため、アリシアは一人で祈りを捧げたり、神託を受けたりしていた。


「アリシア様、なにか、神託は?」


 アリシアが回想しながら濡れた体を拭っていると、付いてきてくれた巫女が尋ねてきた。

 それに対しアリシアは首を振る。


「ううん。何も。一回【プレディクション】で呼びかけてみたけど、音沙汰なし。やっぱり、私だけ、なんだよね?」

「……はい。全ての巫女に確認しましたが、『その時が来た』という神託を受けた者はおらず……。これが私たちだけならば神託を間違って受け取ってしまったと考えられますが、アリシア様が受けたということなので……」

「止めてよね。アタシ、そんな大層な巫女じゃないよ。お姉さまと比べたら、私なんか……」

「……また、『お姉さま』ですか。数年前の、しかも幼いころの自分にいつまで囚われるのです?」

「うっさいなあ……、またお説教? また愚痴? いい加減、そんなにバノルスを悪く言うの止めてよね。いつまでバノルスを穢れた存在として見てんだか」

「口が過ぎますよ。私たちは神聖なるガリルト神王国の巫女なのです。血に穢れたバノルスとは天と地ほどの差です」

「だからそれが……!」

「いずれにせよ、今の巫女では、あなたが一番オラクルに近いものなのです。そのことを努々ゆめゆめ忘れないように。貴女様まで穢れてしまっては、ガリルト神様に顔向けできません」


 元々は家族だったのに。

 ガリルトを守るために穢れを引き受けてくれたのに。

 そう怒鳴ってやりたかったが、言いたいことだけ言って巫女は去っていく。


「……っ」


 言い返したかった。

 それでも、アリシアと彼女との溝は決定的だった。

 なにを言ってもわかってくれない。

 バノルスは穢れた運命を背負ったものだという、彼女だけではない、ガリルト一般の価値観だった。

 お姉さま――サラファン・トゥルキア・バノルスがどんな人なのか、わかってなどいない。

 まだアリシアが小さなころ、バノルス王国の王女として、ガリルト神王国に政務としてやってきたサラファンは、アリシアにとって憧れの存在だった。

 勉強ができて、魔法の腕もすごい。人柄もよく、ガリルトの人間がつらく当たっても決して文句など言わずに、ガリルトのために、バノルスのためにと努力していた様子を、一週間という短い時間ながら垣間見ることができた。そんな姿を見て、こんな人になりたいと切に願ったものだし、今も同じ気持ちだ。

 それ以来ずっと文通している仲だ。

 そのサラファンはもうすぐ十五で、成人する間際だというのにもかかわらず、バノルスの魔法省直轄の研究所で新たな魔法の研究をしつつ、病気を患った現女王のステラ陛下に代わって国内を飛び回ったり、時にはマスグレイヴからの攻撃をしのいだりしているそうだ。

 バノルスを守るため。ガリルトを守るため。そこに住む人々を守るため。

 彼女の献身的な努力は自然と耳に入り、ますます憧れが強くなった。

 そんな彼女は、成人するとともに、結婚するらしい。相手は父親がノア派という現王家に対抗する勢力の人物ではあるが、仲が良いらしく、文の端々に幸せな感情が詰まっていた。きっと、彼女の分け隔てない人柄が、溝を埋めるに違いない。

 そんな彼女のように、アリシアもなりたいと思っている。

 今は駄目でも、遠く及ばなくて悔しいけれども、ガリルトのみんなにバノルスへの偏見をなくしたいと、強く願った。


 そんな時に自分だけが受け取った神託が来たのだ。

 なにがなんでもお役目を成功させようと思う。

 そのためならば何でもしよう。


「……ノエル」


 いつの間にか、ノエルが肩の上まで登ってきていた。

 目が合うが、じっとしている。

 指を差し出すと、ぺろぺろと舐めてくれる。

 くすぐったい。


「……いけないよ。まだ服着てないのに。体も拭き終わってないのに」


 そうは言ったものの、ノエルを下ろそうとはしない。

 慰めようとしてくれているのが分かったから。

 妙なところで鋭い。


「……ありがと、ノエル」


 決めた。

 絶対にお役目を成功させよう。

 ノエルが支えてくれているのだ。

 憧れのお姉さまに近づくんだ。

 そのためにも、神の使いとの契約に全てを捧げよう。

 「インプリント」という、伝承で伝わっている魔法で、お互いの記憶や力を共有して、魂を強く結びつける。

 それが契約。

 肉体の濃厚な接触をもってでしか使えないその魔法を使うのに、抵抗がなかったと言えば嘘になる。

 ……それでも。

 これが、御心に敵うならば。

 憧れのお姉さまに近づけるのならば。

 ノエルが一緒にいてくれるのならば。

 女としての自分を捧げるのも、悪くない。


「んーっ、よし! 吹っ切れた!」


 そのままノエルを自分の手に納め、正面から見つめ合う。


「ノエル! アタシ、がんばるよ!」

「キーっ!」


 ……こうして、一人と一匹の、そして、神の使いによる物語は、幕を開けることになるのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る