さよなら、神戸 後編

 彼はある大きなパーティーの席で、本気で逆玉婚を狙ってわたしに近づいてきて、こともあろうに貢を挑発したらしいのだ。彼の中にあった、「わたしとの生まれ育った境遇の違い」というコンプレックスからくる不安を煽って。

 そのせいで、彼は「絢乃さんと僕とは釣り合わない」「あなたと結婚する資格がない」とネガティブ発言をして、わたしを失望させたのだった。


 ……もちろん、彼をそこまで追い詰めてしまったわたしにも責任がなかったわけではないのだけれど。


「わたしね、お義兄さまと新宿のカフェで話した後、あの人にバッタリ会ったの」


「えっ、そうだったんですか!? 初耳ですけど、そんな話」


「うん、わたしも初めて話すからね。で、貴方を苦しめた原因が彼だって分かって、もうムカついちゃって! ガツンと言ってやったのよ。『貴方がどんなに汚い手を使ったとしても、わたしと貢との絆は絶対に壊せないから』って。なんかスカッとしたわ」


「はぁーーーー……」


 彼は唖然としつつもわたしに感服しているというか、そんな感じの眼差しでわたしを見つめている。――たとえていうなら、ヒーローを見る少年みたいな?


「ねえ、今だからもう一度訊きたいんだけど。あれってやっぱり、有崎さんが原因だったんでしょ? 貴方は謙虚なのがいいところだけど、自分に自信がなさすぎるのよ。多分、あの人はそこにつけ込んだのね」


「……はい。僕はホントにバカでした。あんな初めて会ったような人の言うことより、もっと絢乃さんの言葉を信用すべきだったのに……。そうすれば、あんなにこじれることも、絢乃さんを泣かせることもなかったはずですよね」


「分かってるならいいのよ。もう終わったことだし、わたしだってもう、そのことで貴方を責めるつもりはないから。ゴメンね、つらいこと思い出させちゃって」


 わたしは彼に謝った。でも、あの事件さえなければ……とは思っていない。

 だって、あのことがあったからこそ、わたしと貢との絆はより深まったと思うから。「雨降って地固まる」とはこのことだ。逆にいえば、あのことがなければわたしたちの絆がここまで強固になっていたかどうか……。


「……あれ? そういえば今日、絢乃さん、ナンパされたの初めてっておっしゃってませんでしたっけ? でも有崎さんは?」


「わたし、そんなこと言ったっけ? 有崎さんは本気で逆玉狙いだったもの。あれはナンパじゃないわ。だから、ナンパは今日が初体験なの」


 両者の違いは、明らかに一人に狙いを定めているか、誰彼構わず声をかけるかというポイントだ。そういうわけで有崎さんは前者、今日のナンパ男二人組は後者となる。


「…………はぁ、そうですか」


 貢は相槌を打ってくれたけれど、その顔には思いっきり「それってどんな理屈だよ」と書いてあるのが見える。


「そういえば、あの人あれから一度も絢乃さんや僕に接触してこなくなったなぁって思ってたんですけど。そういうことがあったんですね……。絢乃さん、あなたはやっぱりカッコいいです。僕なんかよりずっと」


「う~ん……、それは褒め言葉ってことでいいの?」


 わたしはリアクションに困った。女性が「カッコいい」と、しかも自分の愛する人から言われて喜ぶべきなのか、怒っていいところなのだろうか……。まぁ、悪い気はしないけど。


「もちろんですよ! これは僕からの称賛です」


「……ああ、そう」


 ――ピンポン♪ ……めちゃめちゃ絶妙なタイミングでドアチャイムが鳴った。


「――あっ、注文してたお料理持ってきてくれたのかな? わたしが出るね」


 急いでドアを開けると、部屋の前にはやっぱり二人分のお料理を載せたワゴンの横に、ホテルの男性スタッフが立っていた。


「篠沢様、お待たせ致しました。ビーフカレーお二つ、先にお持ち致しました。デザートは後ほどお持ち致します」


 彼はダイニングスペースまでワゴンを押してきて、お料理をテーブルの上に給仕してくれた。


「わあ、美味しそう!」


「こちら、注文伝票でございます。お部屋番号で受け取りのサインをお願い致します」


「あ、はい。分かりました」


 受け取りのサインをすると、代金はチェックアウトの時にこの部屋の料金と一緒に精算するように言われた。


「ありがとうございます。ご苦労さまです」


 わたしがお礼を言うと、彼は「では、失礼致します」とお辞儀をして引き揚げていった。


 お皿に被された銀色の丸いフタ(「クローシュ」というらしい)を開けると、食欲をそそるいい薫りが嗅覚を刺激する。


「――お腹すいたね―。いい匂い! さ、食べましょ」


「はい。……あ、じゃあサイダーのお代わりぎますね。乾杯しましょう」


 貢が飲み物を空になったグラスに注いでくれて、わたしたちは食卓に着いた。


「じゃあ……、何に乾杯する?」


「そうですね……、神戸で過ごす最後の夜に」


「「乾杯!」」


 わたしたちはサイダーの入ったグラスを合わせ、一口飲んでからスプーンに手を伸ばした。


 明日・明後日は淡路島にある洲本温泉のホテルに泊まる。こうして神戸の夜景を見下ろしながらゴハンを食べるのは今夜が最後だ。


「……どうでもいいですけど、今日はめちゃくちゃ食べまくりましたよね」


「そうね……。今日一日で太っちゃってたらどうしよう」


 二人とも、今まで太らないと思って油断していた。でも、今日一日の食べっぷりはさすがにヤバいかもしれない!


「……ま、今日はこれが最後ですし? これ以上考えるのやめときましょうか」


「そうだね……」


 言い出しっぺのくせに、貢が強引にこの話題に幕を引く。……まぁ、「太りたくない」というのはわたしたち夫婦にとって共通の願いだったということにしておこう。


「食事が終わったら、食器を取りに伺うので内線で呼んでほしい」とベルスタッフに言われていたので、デザートと食後のコーヒーまで楽しんだ後、さっきのベルスタッフの男性に食器を回収してもらった。


 ――しばらくのんびりしていたら、ローテーブルの上に伏せてあった貢のスマホが着信を告げた。ちなみに、彼のスマホにカバーはついていなくて、裸のままだ。


「……あ、兄からです。――もしもし、兄貴?」


『よう、貢! 旅行楽しんでっかー? 今オレさぁ、お前んで飲んでんだよ』


 貢がスピーカーフォンで応答していたので、わたしにも聞こえてきたお義兄さまの声はほろ酔いぎみだった。


「俺ん家って……、代々木のアパート? あそこは結婚前に引き払ってるはずだけど」


『あー、ちゃうちゃう! お前の婿入り先。仕事帰りに加奈子さんとバッタリ会ってさぁ、「よかったらウチで一緒に飲まない?」って』


「「加奈子『さん』!?」」 


 弟の義母しゅうとめを名前と「さん」付けで呼ぶなんて! 戸籍上は昨日親戚になったばかりなのに……。いやいや、問題はそこじゃない!


「……ちょっとお義兄さま! 絢乃ですけど。母は一応独身女性なんで、間違っても浮気に走らないで下さいね!? しおりさん、妊娠中なんでしょう!?」


 義兄嫁あねの栞さんは、現在妊娠五ヶ月らしい。まだ安定期に入っていないので、昨日の結婚式にも出席できなかったのだ。

 妻の妊娠中に夫が浮気、はありがちなことで、しかもあの悠さんならなおさらあり得る。


『心配しなさんな、絢乃ちゃん。名前で呼んでるのは、「お義母さん」ってほど年が離れてないからで、ご本人の希望だし。オレは間違っても浮気なんかしませんよ~☆ じゃあお二人さん、旅行楽しんどいで♪ 土産は酒のアテになりそうなモンでいいや。じゃな』


「「…………」」


 結局、あの人は何の用件で電話してきたんだろう? ……なんか、ドッと疲れが。


「貢、今日は疲れたから、お風呂に入ってさっさと寝よっか」


「……はい、そうですね」


 今夜もイチャイチャしようと思っていたけど、そんな元気は残っていない。貢は明日、淡路島まで運転してもらわないといけないし。

 そんなこんなで、神戸での二回目の夜は更けていった――。

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