ロンドの草稿 その八 3
ピアノにあわせて、グレウスの透きとおる声がすべりだす。
とたんに別世界の空間が、そこに生まれた。
グレウスの奏でる音階が、天国へ続く長い階段のようにつらなる。花盛りの木々にかこまれた階段をのぼると、まぶしい光が少年少女を迎える。体が光にとけていく。至福の浮遊感。
美しい幻想が次々に呼びさまされる。
少年も少女たちも、完全にグレウスの声に魅了されていた。ゾナチエでさえも。
グレウスは無心になって歌うことに没頭した。これまで、そんなふうになったことはなかった。なのに、グレウス自身、自分の音の虜になった。
これが、いけなかった。
あまりに人が聞くには美しすぎる音。少女たちが、バタバタと倒れて気絶していく。アストラルや、オスカーも、両手で耳をふさいで……。
「グレウス……グレウス! もうやめてッ!」
オスカーがグレウスを我に返らせなければ、グレウスはその声で、そこにいる全員を発狂させていた。
「やめて……くれよ。その音は、苦しい。美しすぎて……」
床にうずくまって、オスカーが涙を流している。
グレウスは歌うのをやめた。
「これが、セイレーンの声だ」
人でない声。魔物の……声。
気を失っていた少女たちが、数人、意識をとりもどした。
ゾナチエが胸を串刺しにされたように手で押さえ、グレウスをにらむ。
「聞いたことがあるわ。セイレーンの血筋を守るために、血族結婚をくりかえしている
グレウスは蒼白になった。
「不愉快だ」
くるりと背をむけ、部屋を出た。オスカーが追ってくる。
「待ってくれよ。グレウス。あんなの気にすることない」
グレウスは逃げるように走った。
歌ったあとの陶酔と興奮。
グレウスの声が他人におよぼす恐ろしい力。
自分の音の虜になったあの瞬間、グレウスは確かに楽しんだ。バタバタと倒れていく人を見ながら、このまま歌い続ければ、もっととり返しのつかないことになる確信があって、それでも、グレウスは酔ったのだ。
これが、セイレーンの血でなくてなんであろう。
美しい容姿。歌声。その背には純白の翼を持ち、まるで天使のような優しげな女神たち。
だが、その実体は歌声にひきよせられる人間の精気を吸い、生きる糧とする魔物——それが、セイレーン。
(あれは恋の歌だった。たぶん、あの場にいたほとんどの少女に恋の魔法をかけた。わかっていて、人の心をあやつることが、僕は快感だった)
グレウスは校内の並木道を走って、ひとけのない場所まで来ると、吐きだすように叫んだ。
「セイレーン姫の再来だって? そんなに羨ましいかッ? この呪われた血が」
オスカーが息をきらして追いかけてくる。
「グレウス」
「セイレーンの力を使いこなせる人間なんていない! こんなもの、人間が持つものじゃないんだ。この血を体からぬきだすことができるなら、今すぐ僕は誰の血とでも交換するのに!」
グレウスは木の幹をこぶしでたたく。両手がしびれて痛くなるまで。
「こんな、こんな血! 呪われた……」
——まじないのようなものだ。気休めの……。
「グレウス!」
背中から、オスカーの腕が抱きしめてくる。
「僕はイヤだ! 君がおじいさまのようになるのは!」
オスカーは泣いていた。
「もし、どうしても、君がその血をぬきたいなら、僕と交換しよう。従兄弟の僕じゃ、たいして違わないかもしれないけど、僕でいいなら……」
オスカーの涙が薄い夏服を通して感じられた。あたたかい小さなしずくが、じんわりと背中にひろがっていく。
「君の血はきれいだ。呪われているのは直系だけだ。以前、君や、君の母上も発狂すると言ったのは、あれは嘘だよ。君を困らせてやりたかっただけなんだ」
「グレウス。約束しよう。絶対に一人では死なないと。死にたくなったら、必ず僕に言うんだ。絶対だよ」
「……そのとき、僕が発狂してなかったらね」
「君は大丈夫だよ。前にそう言ったじゃないか」
「君にそう言われたら、大丈夫な気がする」
「何度でも言うよ。君が弱気になるたびに、僕は何度でも……」
グレウスはオスカーをふりかえった。
「君が……好きだよ」
優しいオスカー。
きれいな血のオスカー。
唇にキスして、グレウスは自分でも戸惑った。
僕は、何をしてるんだ……。
「ごめん。まだ混乱してる」
オスカーもおどろいていた。が、ほんとに混乱していると思ってくれたようだ。
「僕も、君が好きだ」
屈託なく答えてくれる。
「初めはひどく傲慢なやつかと思ったけど、それは君が人にそう思わせているだけだ。今はわかるよ」
「何が?」
「君がすごく繊細なんだって」
「繊細なんて言われて喜ぶ男はいないよ」
「褒めてるんだ」
オスカーは笑う。
グレウスは赤くなった。てれくさいというより、オスカーに見透かされていたからだ。
グレウスはときおり自分のなかに、ひどく女々しい部分があることに気づいていた。そんな自分がイヤになる。それをオスカーに悟られているとは思わなかった。誰にも気づかれないよう、隠してきたつもりだったのに。
オスカーは続ける。
「初めて狩りに行ったときのこと、おぼえてる? 子どものアナグマを殺すとき、君はほんとにつらそうだった。君がとても傷つきやすい、感情のやわらかい人だとわかったよ。あのあと君の部屋に行ったら、泣いてたろう?」
オスカーを塔に置き去りにしたあの夜のことか。
オスカーはあの日、一人で夜をすごした。グレウスは五つのとき以来、叔母が死んだあの塔に、よりつきもしなかったのに。
グレウスの強さは虚栄。
ほんとに強いのは、オスカーのほうなのかもしれない。
「あんな昔のことは忘れてくれたまえよ。あのときは子どもだったんだ」
「いいじゃないか。今は平和な時代なんだ。動物を殺せなくても領主はつとまるよ」
「そうはいかないよ。毎年、あの森での狩りを楽しみにしている客もいるんだ」
「それはおじいさまの代のことだろう? 君は君のやりかたでいいんじゃないかな」
「そうかな」
「そうさ」
「どっちにしろ、とうぶんは僕の自由になんてできないけどね。おじいさまの側近もいるし、うるさい親戚もいるしね。ゴートヒル男爵なんて、皇都の屋敷の壁紙をピンクにしたいと言ったら、カンカンになって怒ったよ」
「それは僕だって怒るよ。なんでピンクなんだ」
「ピンクは胎教にいいんだってさ」
二人は声をそろえて笑った。
オスカーと話していると、生きる勇気がわいてくる。
ぼくは大丈夫。まだ大丈夫。
君がいてくれるから……。
いつか二人が離ればなれになってしまうなんて、このときは思いもしなかった。
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