先輩
恒星君から元彼女さんと別れた話を聞いた日から約1ヶ月後の6月15日。
Aブラスのオーディション課題が発表された。
課題自体はほぼ予想通り、コンチェルトの演奏とウィンドアンサンブルスタディ、いわゆるオケスタが数曲。プロ団体のオーディションであれば基本的には二次、三次と続くけれど、このオーディションは一次で終わりになる。この条件は有利にも不利にも取れるとっても難しい条件ね。だって、一発勝負だもん。
でもいいの、条件はみんな一緒だから!学内のオーディションなら怖いものなんて何もない!くらいのつもりで頑張る!
そして、この頃にはもう前期の演奏試験の曲目も決まっていた。
先生からは、入試で吹いた曲を勧められたんだけど、私は新しい曲に挑戦したいと主張した。確かに入試で吹いた曲はもう一度勉強したいんだけど、それを今やってしまうと同期の皆と同じ曲になる。それが嫌だった。
先生は私の意見を尊重してくださったので、すぐに別の曲に決まった。
さて、ここからは特に頑張っていきたいところね。
まずはオーディション課題を学務部に取りに行って、楽譜に目を通しておかなきゃね!
恒星君は、授業がある時間帯は友達といることが多かったけど、放課後は一人でどこかの教室を借りて練習しているか、見かけない日は打楽器の部屋にいるかバイトに行ってるみたいだった。と言っても、最近はバイトの回数は減らしているみたい。
元カノさんと別れてからは、すごく集中していていい状態なんじゃないかと思う。
飽くまで、見た感じだけど。
前期の試験は7月の最終週。そろそろ一回お茶にでも誘ってみようかしら?
【こんにちは!調子はどう?もしよかったら、来週のどこかでお茶しに行かない?】
早速メールしてみた。基本的に私は駆け引きはしない。誘うならストレートに。
四限の授業が始まる前に送った。
【こんにちは。悪くないよ。結さんはどう?来週なら、木曜はどうかな?】
なんとメールが帰ってきたのは授業中だった。恒星君は空きだったのかな?
四限が終わるとすぐ返信した。木曜なら私も吹奏楽の授業の後は空いていた。
ん?恒星君もそれで木曜を選んだのかな?
【私もいい感じよ!OK!吹奏楽の授業の後、本館の入り口あたりで待ち合わせましょ!】
来週の楽しみができたら後はそこに向かって頑張るだけ!
私は、気分良くクラの部屋に向かって歩き出した。
『あ、峰岸さん、課題見た?』
クラの部屋に着くと先輩に声をかけられた。
藤原恵美先輩。4年生の首席の先輩。ウェーブがかかったショートカットの黒髪に眼鏡が良く似合う可愛らしい人。そして、クラリネットが本当に上手な人。。
「はい、さっき学務で楽譜もらってきました!」
『そっか!初めてのオーディションで緊張するだろうけど、頑張ってね!』
先輩は、笑顔でそう言ってくれた。
「はい、ありがとうございます!」
私も笑顔で答えたけど、実は一つだけ引っかかっていた。
それは、藤原先輩はどうやらこのオーディションを受けないらしいと言うこと。
先輩はこの学校の中で間違いなく1番上手い人。当然よね。4年生の首席だもの。それなのに、卒業後は音楽とは関係のない一般企業への就職を希望しているみたいだった。それ自体はいいの。人の人生だし。だけど、4年生の先輩と並んで吹ける機会はそんなにない。
だからこそ、私はAブラスで一緒に吹きたいと思っていた。オーディションの参加締め切りにはまだ時間はあるけど、さっきの様子からしても、受けないんだろうな。。
まぁ、仮に先輩が受けたとしても、そもそも私が落ちたらなんの意味もないんだけど。。
次の週の木曜日。つまり、恒星君との約束がある日。私は吹奏楽の授業を終えると、クラ部屋まで帰ってきた。
今日は練習には戻ってこないので、ロッカーに楽譜と楽器を入れて身軽になる。
多分、打楽器は片付けがあるからもう少ししたら出ようかなんて考えていると、藤原先輩が入ってきた。
「先輩、お疲れ様です。今ちょっとよろしいですか?」
話しかけるかちょっと迷ったんだけど、二人っきりになれるチャンスもそうはないなと思ったら、気づいた時には話しかけていた。
『ん?いいよ。どうした?』
先輩は相変わらず素敵な笑顔で答えてくれた。
「いきなりですみません、それに、とても失礼なことを言っているのはわかっているのですが。。先輩、Aブラスは受けないんですか?」
少し目を逸らした先輩は、遠慮がちに答える。
『うん、まだ迷ってるけど、多分受けないと思う。私は卒業後は就職するしね。だったらAブラスは楽器を頑張りたい人が受けた方がいいと思うんだよね。』
言わんとしていることは、わかる。実際先輩が受けたら間違いなく受かると思うし。
「そうなんですね。。でも、私は、先輩と並んで吹いてみたいです。ただでさえ、4年生と一緒に吹ける機会なんてほとんどないのですし。。それに、私、先輩の音が本当に好きなので。。いや、でも、私が受けたところで、受かるとも思えないですけど。。」
先輩は、半分困ったような、半分喜んだような笑顔で答える。
『ありがと。そこまで行ってくれて嬉しいよ。私からみたら、1年生の中ではずば抜けて上手な峰岸さんが羨ましいよ。峰岸さんは合格できる気がする!それに、私も並んで吹いてみたいよ。だけど、この件はちょっと考えさせて。本当、直接ここまで言ってもらえたのは初めてだから、ちゃんと、考えてみるから。』
え?先輩、泣きそうなの?
「いえ、すみません、私のわがままで。。」
先輩は涙を浮かべたまま笑顔で言う。
『んん、ありがとう!今度ゆっくりお話ししよう。結ちゃんはいい子だね!』
「先輩が言いたいのは、もう就職して音楽から離れることが決まっている自分よりも、まだまだ楽器と向き合おうとしてる人にAブラスに乗ってほしいってことなんだと思うのよね。」
私は、早速さっきまでの話を例のお店で恒星君に話している。
『うん、俺もそうだと思う。でも、藤原先輩って、確か一年生の時からずっと首席の人だよね?音大生より有望だって打楽器の先輩も言ってた。そもそもなんでそんなに上手い人が就職なんだろうね?』
そう、そこは私も気になっていた。
「本当、そうだよね。私もそこが1番の疑問なの。でも、まさか聞けないじゃない?そんな個人的なこと。」
恒星君は困った顔をした。すごく親身になって話を聞いてくれている。
『そうだな。俺が結さんの立場でも聞けないな。。でも、考えてくれるって言ったんだよね?だったらまだ希望はあるし、結さんは、今は自分が合格できるように頑張るべきじゃないかな?』
確かにね。。私が悩んでいてもしょうがない、か。
「そうね。先輩が受けてくれたところで、私が落ちたら意味ないもんね!ありがと!」
『いや、俺はなにもしてないよ。藤原先輩、受けてくれるといいね。』
なんか、恒星君と話すと落ち着くなぁ。なんだろう?声?かな?
「なんか、恒星君と話すと落ち着くの。これからも色々な話をしましょ!」
『喜んで。俺も随分助けてもらったし、これからももっと話したいよ』
この日は、一緒に帰ることになった。
「いよいよ試験が近づいてきたね。」
私は、少し緊張してきている。
『うん、最初の試験だからね。ここで躓きたくないよな。調子はどう?』
調子は、悪くない。伴奏者も見つかったし。
「うん、悪くないよ。伴奏も見つかったしね。でも、ちょっと緊張してる。。」
恒星君は、静かに微笑んでいる。すごく落ち着いている。。
『初めての試験だからな。誰だって緊張するよ。でも、緊張するってことは、それだけ本気な証拠だと思うよ!』
なんだろう。すごく説得力がある。やっぱり恒星君って、器が違うな。。私も頑張らなきゃ!
『俺、最近気付いたんだけど、頑張らなきゃって思うと焦るけど、頑張ればいいって思うと前向きになれると思うんだよね。条件は一緒だけど、気持ちだけは自分次第だからさ。』
なに?私の心を読んでるの?笑
でも、確かにそうね。
「確かに!そっか、頑張ればいいんだ。」
『うん!』
なるほど。これは、元カノが依存するのも無理ないかもね。。
私は、ここにきて初めて元カノの気持ちが少しわかった気がした。
恒星君は、しっかりしすぎているし、スケールが違うんだと思う。
そんな人に好きだって言われたら誰だって頼っちゃうよね。
まぁ、頼るのと依存するのは違うし、私だったら絶対依存なんてしないけど。
恒星君とは、演奏試験後にご飯に行こうって約束をして、帰った。
試験でいい結果を残したい、オーディションに合格したい。その為に、頑張ればいい。
すごく良い言葉だと思う。
うん、頑張ればいいんだ!
数日後、家に帰ると藤原先輩からメールが入っていた。
開いてみると
【こんばんは。この間は話してくれてありがとう!少し結ちゃんとお話ししたいんだけど、今度お茶でもどう?】
なんと!お茶のお誘い!!
もちろん。断る理由なんてない。
【こんばんは。いえ、私の素直に気持ちを一方的にお話しただけなのに、聞いてくださってありがとうございました。もちろんです!是非お茶してください!】
それから何通かやりとりして、来週の月曜日に決まった。なんだろ?話したいことって。。?
藤原先輩が案内してくれたお店は、いつも恒星君と行くカフェとは学校を挟んで反対側にある小さなお店だった。
少し古そうだけど、綺麗なお店だった。コーヒーの香りがしている。
『ごめんね、急に呼び出したりして。』
「いえ、全然大丈夫です。。」
呼び出されること自体は本当になんとも思っていないけど、なんて言うべきかわからず、ぎこちない返事になってしまった。。
『私が、就職活動をしているのは知ってるよね?』
「…はい」
これにはこう答えるしかなかった。
『私ね、本当は音大に行きたかったの。でも、どうしてもそれは難しくて、茨城大にきたのね。』
「そうなんですね。」
先輩の実力なら、そうかもしれないなと思った。
『楽器を仕事にしたいって気持ちは、今もあるんだ。少しだけど、演奏のお仕事ももらえているし。本当だったら、卒業してからもバイトしながらだって頑張っていきたいんだ。』
先輩はそう言って一旦言葉を切った。私は黙って次の言葉を待った。
『だけど、うちは両親二人とも公務員で…音楽の勉強をすること自体は賛成してくれたんだけど、大学を卒業したら就職するって言うのは、入学する時から約束してたんだ。だから…』
なんて言葉をかけたらいいのかわからない。。
私自身も、卒業後のことを考えて不安になる時はある。でも、私にとっては、それはまだ先の話で。。
『あ、ごめんね。関係ない話になっちゃって。でも私、色々考えてるうちに、音楽に関わる仕事を諦める必要はないなって思ったの。楽器屋さんとか、レッスンプロとか。できる限り音楽から離れないように頑張ろうと思うんだ!まぁ、そう言う仕事だって、就くのは難しいと思うんだけど。。でも、何もしないで諦めたくないし、なんでも前向きに考える方が私っぽいなと思うんだ!それでね!Aブラスも、やっぱり受けるよ!』
「え?本当ですか!?」
思わず身を乗り出して聞いてしまった。。
『うん、この間までは、私はもう就職するんだし、Aブラスにはこれからもっともっと楽器を頑張ろうって思っている人たちが受けるべきだと思ってたんだけど、結ちゃんに一緒に吹きたいって言われて、思い直したの。だって、結ちゃんと一緒に吹けるのは、もしかしたらこれで最後かもしれないし。それに、私だって、演奏家としてはできないかもだけど、楽器を頑張るのはこれからも変わらないから!』
「そうですか。。あの、私が言うのもおかしいですけど、ありがとうございます。」
涙が出そうになった。Aブラスのことも嬉しいけど、先輩がこれからも楽器を続けていこうと思えてことが1番嬉しかった。それにしても、すっごい前向き。。先輩は心が強いんだなって思った。
『んん、私こそありがとね!就職するって、周りの人には言ってたけど、本当はどうにか楽器を続けたいって思ってたから。結ちゃんが声かけてくれたから、就職するからって楽器やめなきゃいけないわけじゃないなって思えたの!それに、一緒に吹いてみたいと思ってたのは、私も一緒だから。』
話を聞いてる私からしたら、先輩が強くて前向きなだけで、私の一言が影響したとはあまり思えないけどw
まぁいいか。結果、先輩が前向きになれたなら。
そうだったんだ。。先輩も私のことをそんなふうに思ってくれてたんだ。
一緒に吹きたいと言う言葉は、何よりも嬉しかった。
『Aブラス、二人とも合格できるといいね!結ちゃんの言葉で決心できたことだから、まず最初に結ちゃんに言いたかったの。今日は、きてくれてありがとうね!』
いやいやいやいやいやいや
「いえ、そんな、私こそ、話してくださってありがとうございます!先輩の決意を無駄にしないためにも、私も合格できるように頑張ります!」
そう、先輩はともかく、今の
私が合格できる可能性は低い。。
うん、だからこそ、頑張ればいいんだ!
よかった。
と一息つこうとした瞬間
『そういえば、結ちゃんさ。。』
はい?
「はい」
『好きな人、いるでしょ?』
とんでもない方向から不意をつかれたw
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