35話 2人の握手会

 だがそこで、ガチャリと音がした。

 静寂に包まれていた楽屋内にはとても大きく響いたように感じ、思わず身体がビクリと反応して舞奈から離れる。


「あ、ねえ、ちょっと!2人とも何してるの?」


「希さん!?……何で?握手会の途中じゃないんですか!?」


 俺の疑問はもっともなものだったが……メンバーにマネージャーが抱きついている、という異常な光景の前ではあまりに反撃として弱かった。


「レーンの整理ってことで少しだけ休憩時間が出来たの!せっかくだから2人に会おうと思ってきたら……どうして2人が抱き合っているのかなぁ?」


 希の表情はにこやかだったが、それが怖さを増していた。

 ……別にやましいことをしていたわけではないが、後ろめたい気持ちはあった。あるに決まっていた。

 何であんな行動に出た?2分前の俺!と𠮟りつけて時間を巻き戻したい気持ちでいっぱいだったが、残念ながらこの世界ではそれは叶わない願いだった。

 

「……ねえ、舞奈ちゃん?私の麻衣ちゃんに手を出さないでもらえるかな?」

 

 希の標的は俺ではなく、なぜか舞奈の方に向かったようだ。


「いや、麻衣さん?これは私の方から勢い余ってと言いますかね……」

「そうです!元気のなかったわたしを励まそうとしてですね……」


 俺の言葉に舞奈も同調するが、希はさして聞く耳を持っていなかったようだ。


「うるさい、うるさい、うるさ~い!問答無用なの!舞奈ちゃんはこの後から私と一緒のレーンにしてください!」


 希が大きな声を出したことに驚いたのか、何人かのスタッフが楽屋の前に集まってきた。

 スタッフ数人が何とか希をなだめようとするが、彼女は思いっきりヘソを曲げてしまっていた。


「私と舞奈ちゃんを同じレーンにしてくれないなら、私はとっても体調が悪くなってしまいそうな気がします!握手を継続するのが困難なほどです!どうしても私の体調を保つために舞奈ちゃんと同じレーンにして下さい!」


 握手会は長時間に渡るもので体力的にも負担の大きい仕事だから時としてメンバーは体調を崩し、ファンからすればお目当てのメンバーと握手できずに終わってしまう……ということも度々起こる。

 もちろん仕方のないことではあるのだが、ファンからしたら残念な気持ちはどうしても残ってしまうし、あまりにそうした事態が続けば握手会に参加するファンも減っていってしまうだろう。

 ましてや希はWISHで一番人気のメンバーなのだ。希はそんな事態も全て理解した上でいわば脅迫しているのである。その意図がどこにあるのかは掴めないが。


 集まってきたスタッフもオロオロするばかりだった。

 体調不良で中止になってしまったメンバーのレーンが途中で変更になることは時々あるが、そうした事情以外でこんなことを言い出すメンバーは前代未聞だ。


「……希さん?一応聞いておきたいんですけど、なぜ舞奈ちゃんと同じレーンにしなければならないんですか?」


 驚きのあまり肝心なことを誰も希に尋ねていなかった。


「なんで?って、舞奈ちゃんには先輩として厳しさを叩き込まなきゃでしょ!麻衣ちゃんに手を出したりしないようにしっかり教育しなきゃだもんね!」


 え、手を出す?何?暴力振るったの?みたいな空気が集まってきたスタッフの間では流れた。


「いや、あの、ちがいますからね?別に舞奈ちゃんも私も手は出していませんからね!希さんが誤解しているだけですからね!」


 もちろん暴力以外の意味でも手は出していない。……少なくとも舞奈は。俺の方が舞奈を抱きしめた行為は解釈によっては手を出したことになるかもしれないが。……うん。

 舞奈は突然の事態に固まり、緊張した眼差しで希と俺とを交互に見ていた。


 ……そうだった、希は舞奈の一番尊敬するメンバーなのだ!

 このチャンスに賭けてみるべきではないだろうか!


「希さんがそこまで言うのなら仕方ありません。私、社長に掛け合ってきます!公式のアナウンスの準備をしておいて下さい!」


 そう言うと俺は唖然とするスタッフと舞奈を残し、楽屋を飛び出した。




「良い、舞奈ちゃん?先輩メンバーの私が握手会のってものを、ぜ~んぶ教えてあげるからね?何なら手取り足取り教えてあげようか?」


「い、いえ……そんな。希さんには希さんのファンの人が来るわけですし……」


 憧れの希との1対1の局面で緊張しながらも、舞奈は冷静さを保っていた。

 何だかんだ言ってやはり舞奈はメンタルが強いのかもしれない。


 希の要望を通して、急遽レーンが変更になった。

 それまで1人だった希のレーン(彼女は一番人気なので、2人や3人ではなくソロのレーンだった)が、舞奈との2人レーンに変更されたのである。

 メンバーの体調不良などでレーンが変更になることは時々あるが、こんな理由で変更になることは前代未聞だ。もちろん今回は理由をファンの人に明かすことはなかったが。


 俺自身も誘導のスタッフとして、並んでいるファンの列を整理しながら2人の様子を窺っていた。


「あれ、桜木ちゃんもいるんだ?」

「舞奈ちゃんじゃん!……俺実は2推しは舞奈ちゃんなんだよね!」

「すいません!私、正直今まで黒木さんしか眼に入っていなかったんですけど……舞奈ちゃん間近で見るとめちゃくちゃ可愛いですね!一気にファンになりました!」


 レーンが変更になったことは、会場でアナウンスも行い公式サイトにも(ファンにとって握手会は数時間待つことがなので、握手時の話題のためにも公式のメンバーブログを隅から隅まで読む人も多い)載せているのだが……それでも事態が伝わっておらず、自分の握手の番になったところで舞奈の存在に気付くという人も多かったようだ。


 以前にも希の握手会での様子は見たことがあったが、今日も完璧な対応を見せていた。

 まずはファンに対し希の方から手を差し伸べにいくという点だ。ほんの少し……ほんの1秒にも満たない時間だが握手の時間が長くなり、ファンとしてははそれだけで嬉しくなる。

 会話もとても自然体だ。どんな話題に対しても小気味いい返答を返しているが、優等生的なものや露骨なあざとさを狙ったものではなく、分からない時には「分からない」と答えるし、好きでない話題が出た時には「ごめん、あんまり好きじゃない」と答えるといった正直なものだ。彼女の素の部分を見れたような気がして、握手に並ぶという行為の特別さをファンの人は感じているだろう。


 一方の舞奈はまず、並ぶファンの多さに圧倒されたようだった。

 レーンが変わった最初の頃は不貞腐れた気持ちを引きずっていたのか、依然として態度も表情も固かったが、引っ切り無しに押し寄せる無間握手地獄にそうした感情すらも失っていったようだった。

 舞奈ももちろん握手会の経験は何度もあるのだが、ここまでファンが続いたことは初めてだったようだ。




 やがて夕方になり10分間の休憩時間が訪れた。

 人気のあまりないメンバーは、この辺りで握手打ち切りになることも多い。

 どちらかと言えば人気下位の舞奈は、この時間まで握手を続けたことはほとんどなかったはずだ。

 だがもちろん今日は、希と共にあと1時間半ほどレーンに立ち続けなければならない。


「……舞奈ちゃんだいぶ疲れちゃったのかな?……大丈夫かな?」


 楽屋まで戻るほどの時間ももったいないので、ブースの後ろに椅子を並べ休憩を取っていると、希が俺にだけ聞こえるようにそっと言ってきた。

 一方の舞奈は白目を剥きそうになる顔を必死で持ち上げ、メイクさんに直してもらっているところだった。


「……いや、そりゃ疲れちゃってるに決まってるでしょう。6時間も7時間もずっと立ちっぱなしで、握手をしてファンの人と会話して……むしろ平然としている希さんの方が異常だと私は思いますけどね」


 久しぶりに希とは一緒にいたわけだが「マジで特殊な人なんじゃないだろうか?」という思いが再燃してきた。


「え~、そうかなぁ?私はむしろ握手ではファンの人にエネルギーをもらっている感じだけどなぁ?……だって来る人来る人みんな私のことを褒めてくれるんだよ?しかも単に「可愛い!キレイ」ってだけじゃなくて、雑誌での表情だとかダンスのこととか、凄い細かいところまで見て褒めてくれるんだよ?めちゃくちゃ嬉しくない?」


「……まあ、同意を求められても私はアイドルをやったことないので、分かりませんが……」


「もう、なによ!麻衣ちゃん冷たいなぁ!……とにかく、レーンに並んでくれる人なんてみんな私の味方なんだから何を言っても大丈夫なのよ!」


 そこに黄色いユニフォームのTシャツ を着たスタッフさんが入ってきた。


「すみません!黒木さん、桜木さん、そろそろお時間ですので握手会の方を再開してよろしいでしょうか?」


「はい、よろしくお願いします!」


 いち早く希は立ち上がり、スタッフさんに頭を下げた。

 どんなスタッフに対しても丁寧に接する辺りも彼女のプロフェッショナルな一面だ。


「……よろしくお願いします」


 一方でうの体かと思われた舞奈だったが、立ち上がったその眼にはしっかりとした光が宿っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る