第22話 こうして無事除夜の鐘をつくことで2021年は幕を下ろしたのであった

 紅白歌合戦を見ながらみんなで年越しそばを食べた。一緒にいた親族がみんなアルコールを入れて楽しくおしゃべりを続けた。向日葵もぽかぽかしていた。先ほどのカラオケの椿の歌がまだ頭の中を巡っている。ふわふわしている。今日はいい日だった、と言いたいがまだあと二時間弱残っている。


 2021年もあと二時間弱で終わりか、と思うと感慨深い。今年はいろんなことがあった。大学を卒業して、椿と別れて、就職して、茶摘みをしながら賃金労働者もして、友人とウズベキスタンを旅行した。何より椿と再会して結婚した。山あり谷ありだったが、こうして振り返るといい年だったと思う。人生の転機が三回ぐらい訪れた。なんだかんだ言って自分はちゃんと乗り切ったし、締めの本日が幸せだから細かいことはもうどうでもいいのだ。


 缶チューハイを気持ちよく飲み干す。今日はもう年越しそばの片付けもしたし入浴も済ませたので何にもすることはない。強いて言えば歯磨きぐらいだ。


 紅白歌合戦がじりじりと終わりに近づいている。


「もう全員お風呂入った?」


 桂子に尋ねられ、向日葵と一緒に缶チューハイを飲んでいた菜々と稔が明るく「はーい」と答えた。二人ともパジャマ姿だ。


「じゃ、もう栓抜いちゃうけど」


 広樹が「椿は?」と問いかける。


「今入ってんの?」


 はっとして周囲を見回した。いつの間にか椿の姿が消えていた。向日葵は「あらららっ?」と変な声を出した。


「今ばあちゃんが入ってるよ」

「椿はどこ行った?」


 慌てて立ち上がって「捜してくる」と宣言する。


「離れに帰っちゃったのかも。見てくるね」

「まあ、それならそれでいいら。疲れてるだろうから引きずり出してくんな」


 父の言葉が温かい。ほっと胸を撫で下ろした。


 スマホを握り締めて縁側に出る。今は雨戸を閉め切っているが、空気は外気を反映してひんやりしている。アルコールで火照った頬に気持ちいい。

 LINEの画面を開いて、椿にメッセージを送った。


『今どこにいる?』


 すぐに既読がついた。そして間を置かず返事が返ってきた。


『仏間』


 なんと、居間の隣の部屋だった。すぐ近くにいたのだ。


 向日葵は居間に戻ってからふすまを開けた。

 仏間の隅、壁際に、こちらに背を向けて椿が寝転がっていた。

 慌てて駆け寄り、すぐそばに膝をついた。


「どうかしたの? 体調悪い?」


 小声でぼそぼそと答える。


「良くはないな。疲労困憊やわ」

「たいへん」


 手を伸ばして椿の乱れた髪を手櫛で整える。蒼白い顔が見える。


「離れに帰ってゆっくり休もう」

「もうちょっと母屋にいる」

「なんでよ」

「ひとりになりたくない」


 可愛いことを言うようになったものだ。向日葵は椿に気づかれないよう声を噛み殺して笑った。


「せっかくここまで耐えたんやし、日付変わるまで起きてて挨拶したい」

「そっか、そっか」


 それでも、したい、であって、せなあかん、ではないことに安堵した。


「じゃあしばらくここで二人で休もうか」

「うん」


 膝立ちになってふすまのほうに戻り、音を立てずに閉める。それから膝立ちのまま椿のそばに戻り、椿の背中に背中をつける形で座り込む。


 ふすまを一枚隔てただけなのに仏間は静かだ。紅白の音声がほんの少しだけ漏れ聞こえる。線香の匂いがする。ホットカーペットが温かい。


 顔を上げると、祖父の遺影が目に入った。モノクロの祖父はとろんとした目で微笑んでいた。穏やかで物静かな、おっとりした、優しい笑顔の人だった。そう言えば雰囲気が少し椿と似ているかもしれない。


 祖父は向日葵が高校生の時にがんで亡くなった。一族はみんなこの祖父が大好きで、特に祖母はこの夫に惚れ込んでいたので、あの気丈な祖母がうつ状態になるまで落ち込んだことも含めて、寂しくて悲しい限りだった。彼にも例のウエディングフォトを見せてあげたいと思うが、自分たちの写真を仏壇に上げたら自分たちが死んだみたいではないか。


「ひいさん」

「はぁい?」

「今日もうお風呂ええ? 浴槽で溺れそう」


 向日葵はからっと笑った。


「いいよいいよ、お風呂って体力いるし今日はもういいよ」

「汚いて言わへん?」

「一日くらい入らなくたってどうってことないよ。昨日は入ったでしょ?」

「よかった」


 もごもごと「一年の垢を落とさなあかんのに」と呟く。背中をぽんぽんと叩く。


「みんなに挨拶して離れに下がったら寝間着に着替えよう。それで十分だよ」

「うん。ありがと――」


 その時だった。

 ふすまが開いた。


「なぁに二人でいちゃいちゃしてるのーっ」


 酔いが回ってご機嫌の菜々が入ってきた。

 とうとう菜々と稔にも遠慮がなくなった椿は起き上がらなかった。菜々に知らん顔をして背中を向けている。

 向日葵はちょっと困惑したが、母屋に残ることを選択したのは椿だ。強いて菜々を拒むことはせず、明るい声で「紅白もういいの?」と尋ねた。菜々がにっこり笑って「いいの、いいの」と答える。


「ねー、ひまちゃん、椿くん、除夜の鐘つきに行こうよぉ」


 ぎょっとした。椿を寺に連れ出すというのか。

 菜々の後ろから稔がやってきた。彼も楽しそうににこにこ笑っている。


「ごめんね、ななちゃんがどうしてもでかけたいって言うから、僕もついていこうかな、と思って」


 姉を止める気はないらしい。


「ななみの二人で行ってきたら?」

「どこにどのお寺があるかわかんないよぉ」

大泉寺だいせんじあるじゃん」

「連れていってよぉ」


 さらに稔の後ろから大樹が顔を出した。


「鐘つきに行こうぜ! 一年の締め! 楽しい! ごーん!」

「お兄ちゃんどうした? テンション二割増しじゃん」

「てへっ! 稔と二人で一升瓶空けちゃったっ」


 あの普段はおとなしい稔がいつになく楽しそうに大きな声を上げて笑って「空けちゃった」と繰り返す。稔からしたら二十歳になってから初めての年越しなので飲酒が楽しいのだ。無茶をして吐いたり意識を失ったりしないでくれればいい。父方のアルコール分解酵素を受け継いでいれば明日にはけろっとしているだろう。向日葵は「この酔っ払いどもが」と苦笑した。


「いいけど大泉寺徒歩で行く距離じゃねぇ」


 酔っ払いばかりなので酔い覚ましに歩いてもいいような気もするが、冬の夜空の下小一時間移動するのは現実的ではない。さすがの沼津も朝晩は冷える。雨も降っていたはずだ。


「わたしも紅白見ながら缶チュー二本飲んだんですけど」


 大樹がしゃがみ込む。


「あれれれー? ここに一人だけお酒飲んでない人がいるな?」


 空中にのの字を書くように指を回した。向日葵は顔をしかめた。


「……いやや……」


 椿がうめく。菜々と稔が「ええー」と非難の声を上げる。


「行こうよ、お寺! みんなで!」

「行ったらええやん、徒歩で」

「気持ちいいぞ! 鐘にすべてを叩きつける!」

「すべてって何や、煩悩ちゃうんか」


 向日葵は椿をかばって「ちょっとちょっと、ちょっと」と三人を止めようとした。しかし椿は自ら率先して起き上がり、自分の頭を手櫛で整えた。


「めんどくさいけど行ったろか。僕が運転せなあかんのやろ」


 菜々と稔が「やったぁ」と飛び跳ねた。


「えっ、いいの? だいじょうぶなの?」

「ここまで来たらヤケや。鐘にストレスを叩き込んだるわ」

「煩悩ちゃうんか」

「ナイスツッコミ、ひいさんも関西人のセンスあるで」


 椿が「よっこらせ」と言いながら細いのに重そうな体で立ち上がる。


「お寺さん見たいしな。菩提寺か?」

「自分の家の寺を菩提寺って言う現代人初めて見たけど、まあ、うん。池谷家先祖代々のお墓があるよ。鎌倉時代からある、この辺では由緒のあるお寺だよ」

「ほな見とこか。何かあったら僕も行きたいしな」


 そんなことが動機づけになるとは思っていなかった。平安貴族はやはり信心深いのだろうか。

 しかし――先祖代々の墓があって、それを見たいということは、彼もいつかそこに入るということか。と思うと、向日葵はまたぽかぽかした気持ちになるのであった。


「明日体調崩さないでね」

「振り絞るし看病してな」


 大樹が「おら行くぞ」と言う。


「なな着替える」

「誰も見てねぇから何だっていいわ」

「さすがに寒いよぅ」

「パジャマの上から俺のベンチコート着ろ」


 そういうわけで、五人は向日葵の車で大泉寺に向かうことにした。椿がハンドルを握り、助手席には大樹が座った。大樹は「椿の運転で根方ねがた街道サイコーにスリリング」と言っていたが、それでも率先して助手席に座ってくれたところに兄の妹夫婦や従兄弟たちへの愛を感じる。狭いわりに交通量の多い根方街道は椿のような運転初心者でなくてもみんな怖い。椿はずっと「ほんまか!? ほんまにここ行かなあかんのか!?」と震えていた。それを見て酔っ払った一同はげらげらと笑った。酔っ払いは恐ろしい。飲酒運転ダメ、ゼッタイと思っているうちに目的の寺につき、五人は無事に除夜の鐘をつくことができたのだった。


 雨はいつの間にか上がっていた。満天の星空の下、五人は楽しく年明けを迎えた。明日の天気予報は晴れである。




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