第4話
次に目を覚ましたのは、明くる日の昼間のことだった。
どさり、と地面に乱雑に投げつけられた感覚で、俺は重たいまぶたをこじ開けた。
「なんだ、お前、生きてたのか」
目の前には顔馴染みの店主がいた。殴られて腫れてしまった顔のせいで、いつもの半分くらいしかない視界の中、日の光の眩しさに目を眇めれば、店主は面倒臭そうに大袈裟な溜息をつく。
「よくもまあ店を汚してくれたな。帰ってきて早々厄介なことになったもんだ……」
店主は俺の前で麻袋をひっくり返して、屋根裏部屋に置いてあった本やら小物やらを乱雑に振り落とした。ほとんどがナタリアやロザリーの持ち物だが、繰り返し読んだナタリアの魔術書も中には混ざっていた。
「ナタリアもロザリーも死んだよ。あの男、商品に手出しやがって……」
ああ、やはりそうか、と、すとんと納得すると同時に、虚しさにも似た何かがぎゅっと胸を締めつけた。
親愛も憐みも持ちあわせていない相手の死の知らせに、俺は喪失感を覚えているのだろうか。
あんな奴らでも、確かに俺の日常の一部だったとでもいうのだろうか。
それに今更気づくなんて、俺もふたりを馬鹿にできないくらいには愚かなようだ。
だが、それ以上の感情は湧き起こらなかった。あの男がふたりに何をしたのか想像できないわけではないが、特別悲しくもない。せいぜい「運が悪かったな」と淡白な感想を抱くくらいだ。
「そういうわけでお前も用済みだ。まあ、その髪と瞳の色に目を瞑ってくれる物好きな女でもいたらいいけどな」
じゃあな、と店主はごみでも捨てるような気軽さで、俺を王都の裏路地に置いて行った。
王都の表通りに近いのか、人々の賑やかな声や音楽が聞こえてくる。何か催し物でもあるようで、いつもより華やかな印象だった。
俺はぐったりとしたまま、ナタリアの魔術書を抱え、建物の壁に寄り掛かった。
息をするたびあばらが痛む。口の中に血がこびりついていて気分が悪い。水が欲しかったが、汲みにいく気力もなかった。井戸の場所すらもわからないのだ。
これはいよいよ野垂れ死ぬしかなさそうだ、と小さな笑みがこぼれた。
幸いなのは、この手の中に本があることだろうか。明るいうちは文字に目を通して、じっと死を待つことができるかもしれない。
俺はぼやけた視界の中、血塗れの手で魔術書を開いた。黄ばんだ頁の上に、冬の風が色のついた紙吹雪を運んでくる。
そういえば、ついこの間新たな女王が即位したのだっけ。まっとうな幸せの中に生きる人々は、新しい女王の誕生を祝福して、お祭り騒ぎに興じているのだろう。華やかな空気感のわけがわかって、俺は建物の隙間から見える表通りにそっと視線を向けた。
そうして不意に咳き込んで、口の端からまたすこし赤い血を吐き出した。殴られてもうずいぶん時間が経つのに、傷口は塞がっていないらしい。
死が、目前まで迫っている。どうやらこのごみ溜めのような裏路地が、俺の死に場所であるようだ。
……ああ、もっと、いろいろな物語を知りたかったな。
知らない言葉を、詩を、声に出して読んでみたかった。物語を作る人間に話を聞いて、叶うならば弟子入りして、いつか俺も文字を、物語を書きつづってみたかった。
幸せで、良い匂いがして、色彩にあふれた美しい物語がいい。温かければもっといい。そんな物語に、出会ってみたかった。
建物の隙間から、どこまでも澄み渡った空が見える。
青空は女神の瞳と呼ばれ、この国の人間がなにより好む色だ。大した信仰心のない俺でも、空の青さは好きだった。
「殿下、いけません! このようなところを歩いては……!」
「いいだろう。お前たちが守ってくれるのだから」
誰かが近づいてきたのだろうか、と何気なく声のしたほうへ頭を傾ける。
歪んだ視界の中で、小さな人影とそれを囲むように歩く大人たちが見えた。
「……ひどい怪我だ」
小さな人影は、俺のそばで足を止めて、柔らかながらも感情の読めない声で呟いた。憐れんでいるというよりは、ただの感想に近い言い方だ。
その人影は、よく見ると淡い金の髪と若緑色の瞳を持つ少年だった。俺とさほど歳は変わらないように見えるが、ずいぶん質の良い衣服を着ている。貴族かもしれない。
「……殿下、参りましょう。魔女の色を持つ忌み子です」
大人たちは俺と少年を関わらせたくないらしく、あからさまにこの場から立ち去ろうとしている。少年はそれを知ってか知らずか、じっと俺を観察していた。
「黒髪と紫の瞳……確かに、魔女の伝承と同じだな」
「はい、殿下とは相容れない存在です」
こつり、と小気味の良い靴音を響かせて、少年は俺の前に歩み寄ってきた。
「見れば見るほどに忌まわしい色彩だ」
笑うような少年の言葉に、従者は答えなかった。言葉に迷っているようだ。
「ああ、でも……コーデリアも……あの髪の色と瞳の色だから母上に傷を負わされたのか」
一瞬だけ、少年の声は年齢に相応しくないほど虚ろになった。従者はさらに困惑したようなそぶりを見せている。
「殿下、あれは事故のようなもので……」
「――お前、生きているのか?」
この問いは、どうやら俺に投げかけられているようだ。高慢な物言いだったが、苛立つような余裕はない。
「本を大事そうに抱えているな。もしかして、文字が読めるのか?」
どうしてこんなことを尋ねられるのかわからないままに、俺は頷いていた。
それよりも、眠くて仕方がない。早くどこかへ消えて欲しかった。
「……こいつを連れて帰るぞ。コーデリアへの土産にしよう」
「殿下、そのような……! 姫のお話相手であれば、もっとふさわしい者が――」
「――ふさわしいと困るんだよ。下手に貴族の中から選んで、妙な知恵の回る者がそばにつくと厄介だ」
少年は俺を見下ろしながら、ふっと吐息まじりに笑った。
「あの子は大切な大切な、僕の人形姫なんだから」
裏路地で出会った少年――王太子アーノルドとの出会いをきっかけに、俺の日常はそれまでの人生からは考えられないほどに様変わりした。
アーノルドに拾われたあと、俺は適切な手当てを受けて一命を取り留めた。まもなくして長かった髪を短く整えられ、落ち着かないほど質の良い衣服を着せられて、喉から手が出るほど欲しかった辞書や物語を山ほど与えられたのだ。
「お前には、コーデリアの朗読師になってもらいたい」
山積みの本にもたれかかりながら、アーノルドは俺に命令した。
若緑色の瞳が美しい、凛とした顔立ちの少年だったが、彼の声にはいつも感情がない。
コーデリアというのは、彼の妹姫の名前のようだった。俺より六つも年下の王女さまだ。
「……どうして俺にそんな役目を?」
朗読師なんて、夢のまた夢だと思っていた仕事だ。もちろんその役目自体に不満があるわけではない。
だが、身分も特別な能力もない、それどころか魔女の子と呼ばれる色彩を持つ得体の知れぬ俺のような者を、大切な姫君のそばに置いてよいものなのだろうか。アーノルドの従者の言葉を借りるわけではないが、姫君の朗読師にふさわしい身分の者は他に大勢いるはずだった。
「その忌まわしい髪と瞳の色がうってつけなんだ。お前がコーデリアのそばに仕えれば、周りの者たちはお前を気味悪がって、無闇にあの子に近づこうとはしないだろう。お前には、いわば番犬のような役回りを任せたい」
ずいぶんはっきりと物を言う王子さまだ。だが、変にはぐらかされるよりもさっぱりする。
何より、この不可解にも思えた命令に合点がいった。
魔女の子と呼ばれる色彩を持つ俺は、そこにいるだけで人を遠ざける。呼び込み役の仕事をしているときは見せ物として目を引いただろうが、普段はあからさまに避けられるのが常だった。
平民でさえそのような態度なのだから、女神への信仰の厚い王侯貴族たちは尚更俺を忌み嫌うだろう。姫から人を遠ざけるという点では、確かに俺のような忌まわしい存在はうってつけなのかもしれない。
「……でも、肝心の姫君が、俺をそばに置きたがるとは思えませんね」
蝶よ花よと大切に慈しまれて育った姫ならば、魔女の子と呼ばれる俺を見ただけで悲鳴を上げるに違いない。俺に本を読み聞かせられたら、泣き出してしまうのではなかろうか。
「その点は問題ない。コーデリアは目が見えないから」
淡々と受け応えていたアーノルドの表情が、一瞬だけ曇ったような気がした。若緑色の瞳はどこか遠くを見つめている。
「正確には、ついこの間見えなくなった。母上が、コーデリアに花瓶を投げつけて、そのかけらで……」
アーノルドの母ということは、この間即位したばかりだという新しい女王のことだろうか。
女王が王女に花瓶を投げつけて失明させただなんて、とんでもない醜聞だ。
王族も、複雑な事情があるらしい。深く尋ねようにも訊き出せない空気感だった。
「……コーデリアは、物語が好きなんだ」
アーノルドはまるで独り言のように呟いたかと思うと、すっと俺に視線を戻して本の山を軽く叩いた。
「それに、お前も本が好きなんだろう? 死の間際にぼろぼろの書物を大切そうに抱えていたくらいだもんな。こんな職、王都じゃ一生見つけられないぞ?」
やっぱり高慢な物言いだったが、事実だった。俺に、この仕事を逃す手はない。
年下の王女さまが相手というのは気乗りしないが、これだけの書物に触れられるなんて俺にとっては夢のような待遇だ。
せいぜいそれらしく振る舞って、できるだけ長く朗読師の役目にしがみついてやる。
手始めに、言葉遣いを改めるところから始めよう。俺は挑発的にも捉えられそうな笑みを浮かべて、王子の若緑色の瞳を射抜いた。
「……謹んでお受けいたしましょう。アーノルド殿下」
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