第4話
人形姫の離宮にある礼拝堂は室内と繋がっているが、庭を渡って訪れることもできる。美しく整えられた前庭を抜けて、裏庭を通ることになるのだが、風が心地よいので今日は外から向かうことにした。
「久しぶりに来たわ。いい風が通るのね」
この道を通るのはそれこそ、九年ぶりではないだろうか。青々とした芝生と、名前のわからない草木が日光を浴びて風に揺れている。薔薇の庭とはまた違った趣のある場所だった。
「使用人でさえ滅多に通らない場所なのですから、姫さまに馴染みがないのも当然かと」
「そうなのね。ちょっとした運動をするには良さそうだけれど」
他愛もない話をしながら進んでいると、ふと、庭の片隅にきらりと光るものがあることに気がついた。
思わず礼拝堂へ至る道から外れて近づいてみれば、マリーが不思議そうな顔をしながらもついてきてくれた。
それは両手で持てるくらいの小箱で、中には水が張られているのか、太陽の光をきらきらと反射している。小箱を覗き込めば、底は鏡になっているようだった。
「なんでしょうか?」
マリーは首を傾げていたが、私はぴんときた。
これがきっと、この間レイヴェルが言っていた、魔術に使う塗料の原料となる水なのだろう。三日分の青空を映しとっている最中なのだ。レイヴェルが準備しているものに違いない。
量からして、大規模な魔術を使おうとしているとは考えにくかった。おそらくは、外套に忍ばせているあの小瓶に詰め替えるつもりで作っているのだろう。何か物騒なことを考えているわけではなさそうだ。
「ふふ、空が映り込んでいて綺麗ね」
「はい、女神さまの瞳の色ですね」
「ええ、私たちを見守ってくださっているのよ」
空を見上げれば、薄水色の中を淡い雲がゆったりと流れていた。レイヴェルの声によく似た、優しい空の色だ。のどかな一日を過ごせたことに、心の中で女神さまに感謝を捧げた。
空に見惚れていると、不意にマリーが耳打ちするように私に身を寄せた。
「姫さま、神官が」
振り返ってみれば、そこには分厚いベールを纏った女性神官の姿があった。あのすらりとした体型は、クロエだ。
「クロエ、ごきげんよう」
神殿からの帰りなのだろうか。女性神官の中には、この堅苦しい神官服を嫌ってわざと髪や肌を覗かせるような着こなしをするひともいると聞くけれど、クロエはまったくその素振りがない。相当信心深く、真面目な神官なのだろう。
クロエは膝を折ると、感情を覗かせない涼やかな声で淀みのない挨拶をする。
「人形姫さまに女神アデュレリアの祝福を。麗しき暁の瞳で、私たちをお導きください」
「ちょうどよかったわ。これから礼拝堂へ向かおうとしていたの。付き添ってくれる?」
「人形姫さまの仰せのままに」
マリーは私付きの侍女として、他にも仕事があるのだ。祈りを捧げる間、彼女を拘束してしまうのは申し訳ないと思っていただけに、ここでクロエに会えてよかった。
マリーに目配せをすれば、彼女は心得たように視線を伏せて膝を折った。
「では、私はお茶の用意をしております。……クロエ、頼みましたよ」
クロエは答えの代わりに、片手で神官服を摘んで礼をした。
クロエが、マリーをはじめとした私の侍女たちと言葉を交わしているところを見たことがない。ひょっとすると、私や神殿関係者以外とは話さないつもりなのかもしれなかった。
まもなくしてマリーが立ち去ると、珍しいことにクロエから私に話しかけてきた。
「人形姫さま、その花束は」
冷たさすら思わせる玲瓏な声に、私は花びらを撫でながら頬を緩ませた。
「今日は、お母さまのお誕生日だから、祈りを込めてお贈りしようと思って。……もちろん、人形姫としての祈りを終えたあとにするつもりよ」
厳格な彼女に誤解がないよう取り繕うように付け加えれば、彼女がわずかに身を強張らせるのがわかった。
「……誕生日に、贈り物を?」
「え、ええ……」
クロエの声には、わずかな翳りがあった。
彼女にしては珍しい反応に戸惑っていると、次の瞬間には彼女の手が花束に伸びていた。
「――え?」
ばさっと無惨な音を立てて、花束が芝生に投げつけられる。
苦労して結んだレースのリボンが、するりと解けて風に靡いた。
「……穢らわしい。あなたが人並みに母親を思い慕い、贈りものをするなど、許されるはずがないのに」
明らかな怒気が含まれたクロエの声に、息を呑む。
彼女は珊瑚色の薔薇を踏み躙るようにして、私との距離を詰めた。
「もうすこし、人形姫としてのご自覚を持たれてはいかがですか? あなたは王女ではなく、人形姫です。民のために死ぬことだけが、あなたに許された生きる意味です。本当は、笑顔も感情も、あなたには必要ないのですよ」
クロエの口調はあくまでも淡々としていたが、彼女の逆鱗に触れたことは間違いなかった。
何も言い返せない。人形姫としては、過ぎた行いだったと言われても仕方がないのだ。
「それに、あなたの視力を奪うほどにあなたを忌み嫌っている女王が、こんなものを贈られて喜ぶとはとても思えません。はっきり言って無駄です」
「っ……」
クロエの指摘は、想像以上に鋭く私の心を抉った。お母さまの誕生日だからと、ひとりで浮かれて花束を用意していたことが恥ずかしく思えてくる。
「そう、よね……ごめんなさい」
「あなたは人形姫なのです。人形が人間らしくあろうとするなんて……見ていて虫唾が走ります。すこし頭を冷やしてはいかがですか。雑念のない、清らかな心で祈りを捧げてくださいますよう」
それだけ言い残して、クロエは足早に去っていった。踏み躙られた薔薇の花びらが、ひらひらと風に攫われ散っていく。
脱力するように、私は芝生に膝をついた。原型を留めないほどぼろぼろになった花束に、そっと手を伸ばす。
国のために生贄となる役目を考えれば、クロエの言うことももっともだ。私はいっさい心を揺り動かすことなく、祈りを捧げるだけの人形のように生きることが望ましいのかもしれない。
お母さまだって、私に人形姫らしくあることを望んでいる。そして一刻も早く、私を女神さまの御許へ還したいと思っていらっしゃる。
……確かに、こんな花束をもらってお母さまが喜ぶはずもないのだわ。
私は多くの人々にとって、「コーデリア」ではなく「人形姫」でしかないのに。
すこし、浮かれていたのだろうか。九年ぶりに目が見えるようになって、生贄となるまでまだ余裕がある穏やかな日常に、勘違いをしていたのだろうか。
災厄を引き止めることに必死で、人形姫らしく慎ましやかに生きることを疎かにしていたのかもしれない。これはきっと、その罰なのだ。
千切れた薔薇の花束を掬い上げ、そっと胸に抱く。私に摘まれてしまったばかりに、ただでさえ短い花の命を無駄にしてしまった。
途方もない虚無感と、死なない程度に首を絞められているような息苦しさを感じて、ゆっくりと目を閉じる。目を閉じていてもなお、まぶたを透ける淡い光を感じて、優しい闇はもう私を守ってはくれないのだと思い知った。
ぼろぼろになった花束を抱えて、ふらりと立ち上がる。クロエの言う通り、礼拝堂へ向かうのはすこし頭を冷やしてからのほうが良いだろう。
重苦しい気分のまま、とぼとぼと私室へ向かえば、出迎えてくれたのはマリーではなくレイヴェルだった。ティーテーブルにはすでにお茶の用意がされている。彼は私がひと息つく間、朗読をしようと待っていてくれたのかもしれない。
「コーデリアさま、おかえりなさい。今日は早かったですね」
笑いかけるような甘さを帯びた声だったが、すぐに彼が息を呑むのがわかった。私が抱えている花束に気づいたのだろう。
「いったいどうなさったのですか……? その花束は、女王陛下にお贈りするものでしょう?」
レイヴェルは、このところ私が必死にレースのリボンを編んでいたことを知っているのだ。かろうじて花束の茎に絡まっているリボンを見て、これが贈り物だと察したのだろう。
私は何気なくテーブルの上に花束を置いて、誤魔化すように頬を緩めた。
「……やっぱり、やめようと思ったの。これは、余計なことだもの。人形姫の役目を過ぎた行いだわ」
クロエに言われたことを自らに言い聞かせるように呟けば、ますます虚しさが広がっていくような気がした。
「何がありました? あなたが花を無駄にするとは思えない」
回り込んできたレイヴェルに顔を覗き込まれ、慌てて視線を逸らした。
今、レイヴェルに優しくされたら泣いてしまいそうだ。それはどうしても嫌だった。
「……誰かに、やられたのですね。あなたにそんなことを言わせるのは、女神に心酔した神官あたりでしょうか」
彼は察しが良すぎる。どう誤魔化すべきか言葉に迷っていると、彼が悩ましげな溜息をつくのがわかった。
「……まったく、これだから女神の狂信者どもは嫌になる」
奇しくもそれは、やり直し前に彼が神官長を殺した際に発した言葉とぴったり同じだった。
本能的に、心臓がどくんと跳ね上がる。
「そんな言い方をしないで! 厚い信仰心を持っているのは、すばらしいことなのよ」
この言葉を契機に彼が何か残酷なことをしてしまう気がして、むきになるように否定してしまった。正論ばかりを言うわがままな姫だと思われても仕方がない。
「……申し訳ありません。言葉が過ぎましたね」
レイヴェルは私をなだめるように頬を緩めたが、深紫の瞳はすこしも笑っていなかった。
気を悪くして当然だ。私を慰めようとしてくれたレイヴェルに当たるような真似をしてしまって、ますます自分が醜く思えてならない。
レイヴェルから逃げ出すようにソファーに腰を下ろし、両手で顔を覆った。本来空っぽであるべき心の中が、ぐちゃぐちゃだ。
「いいえ、私のほうこそごめんなさい。……すこし、ひとりで頭を冷やすわ」
暗に退室を促したつもりだったのだが、レイヴェルは私の前に歩み寄ると、顔を覆っていた両手を半ば無理やり外させた。彼は床に膝をつくような形で私の顔を覗き込む。
「申し訳ありませんが、今のあなたをひとりにしたくありません。……こういうときに殻に閉じこもっても、ろくなことにはなりませんよ」
「……でも」
反論を塞ぐように、レイヴェルは人差し指を私の唇に触れさせた。
「コーデリアさま、あなたには気分転換が必要なようだ。……いかがでしょう。今夜、魔術師に攫われる気はありませんか?」
「え?」
攫われる、なんてずいぶん物騒な言葉だ。いったいどういうつもりだろう。
彼の意図が読みきれず、何度か目を瞬かせてしまう。
レイヴェルは言葉の代わりに怪しいほど美しい笑みを浮かべると、ゆっくりと私の指先にくちづけを落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます