第2話
◇ ◇
「――っ」
ぷつりと夢が途切れ、何かに導かれるようにして目を覚ます。
目の前には、月影に照らされた私の寝室が広がっていた。ソファーの肘掛けにもたれかかるようにして、いつの間にか眠っていたらしい。まぶたを擦りながら、纏わりつくような微睡をかき消す。
このところ、ずっと同じ夢を見ていた。年端もいかぬ少女が、劣等感と疎外感に苛まれ、何か悲壮な決断を下す夢だ。偶然なのか、はたまた何か意味があるのかわからないけれど、目覚めた直後はすこし悲しくなる。
あの子は、みんなと決別して、それからどうしたのだろう。幸せになれたのだろうか。
夢の中の少女に想いを馳せていると、肩から何かが滑り落ちた。いつの間にか、絹のネグリジェの上に、真っ黒な上着がかけられていたようだ。
……そうだわ、私、レイヴェルを待っていたのに。
どうやらいつの間にか、うたた寝をしてしまったらしい。
この上着があるということは、彼はすでに私のもとを訪れてくれたのだろう。ひょっとして、もう帰ってしまったのだろうか。
もしそうだとしたら、なんてもったいないことをしてしまったのだろう。思わず肩を落とさずにいられなかった。
今夜は、レイヴェルに魔術を見せてもらう約束をしていたのだ。
災厄を引き止めるためには、魔術について知っておくに越したことはない。そう考えて、私から彼にお願いしたことだった。
レイヴェルと打ち解けたあの星の夜から数日が経ち、私たちは徐々に元通りの関係に戻りつつある。彼はまだ、私と目を合わせることに慣れていないような様子も見受けられるけれど、以前のように壁を作ることはない。
私もまた、やり直し前のレイヴェルに抱いていた恐怖と今の彼を分離して、冷静に向きあうことができるようになっていた。
場合によっては「彼を殺してでも災厄を引き止める」という覚悟に変わりはないけれど、今は彼を、信じてみたいと思っている。彼があれだけの災厄を引き起こしたことには、何か特別な理由があったのだと。決して、利己的な願望からあのような惨劇を生み出したわけではないのだと。
「お目覚めですか、コーデリアさま」
薄暗闇の中から、足音が近づいてくる。ぱっと広がる空色の声に、思わずその場に立ち上がって彼を出迎えた。
「レイヴェル! まだいてくれたのね。上着をかけてくれてありがとう」
窓から差し込んだ月影の中に姿を現して、彼は静かに口もとを緩めた。彼の手には、青い炎の灯った燭台と、まだ蕾の薔薇が一本握られている。
燭台の炎が青いのは、レイヴェルの魔術によって灯されているからだ。揺らぐ炎をよく見ると、宝石を砕いたような紫の光が瞬いていた。
「悪い夢でも見ておいででしたか? とてもつらそうなお顔をなさっていたので、声をかけようか迷ったのですよ」
言葉通り、レイヴェルの瞳にはわずかな憂いが浮かんでいた。見てわかるくらいに、私はあの夢に苦しめられていたらしい。
「……近ごろずっと、同じ夢を見るの。悪夢とはいわないけれど、あまり楽しいものではないわ」
「どんな夢なのですか?」
レイヴェルは薔薇と燭台をティーテーブルに置き、私を窓辺の椅子に座らせながら、真剣な眼差しで問いかけてくる。
夢の内容にまで真摯に耳を傾けようとしてくれる彼の思いやり深さに、苦しい夢の名残が和らいでいくような気がした。
「うまく説明できないのだけれど……私と同じくらいの歳の女の子が、ずっと旅をしてきた仲間を裏切って、決別する夢なの。女の子は、自分だけがみんなと違うことに疎外感を感じていて……だんだん、みんなのことを信じられなくなっていくの」
レイヴェルも、あの女の子と似たような疎外感を感じて生きてきたのだろうか。
「……みんなと違うというのは、私が思っているよりもずっと寂しくなるものなのね」
レイヴェルの孤独を、私はきっと半分も理解できていないのだろう。彼の苦しい気持ちはなんでもわかちあっていたいのに、もどかしくてならなかった。
「寂しいばかりではありませんよ」
レイヴェルは椅子に座った私の前に跪くと、そっと私の右手を両手で包み込んだ。
「この忌まわしい色彩を持っていたおかげで、コーデリアさまにお会いすることができたのですから。おかげで今は、すこしも寂しくありません」
「黒髪と紫の瞳のおかげで?」
レイヴェルは睫毛を伏せるようにして笑って、そっと私の指先にくちづけた。触れられた箇所から、ぱっと鮮やかな熱が広がっていく。
「……だいぶ顔色が良くなりましたね。そろそろ魔術をお見せしましょうか」
悪戯っぽく笑うレイヴェルに指摘され、思わず頬に触れてみる。頬が熱を帯びているのは、彼のくちづけのせいだろう。敢えてそれを口にするあたり、レイヴェルはちょっぴり意地悪だ。
レイヴェルは宥めるように小さく微笑みながら、私の肩にかけられた上着に手を伸ばし、小瓶を取り出した。
「何をお見せしようか迷ったのですが、コーデリアさまは薔薇がお好きなので今夜はこちらを」
レイヴェルは小瓶を傾けると、つるつるとしたティーテーブルの上に細やかな紋様を描いた。
抽象的ではっきりとはわからないが、ゆらめく炎と月のようにも見える。この間、彼に離宮から連れ出してもらったときに見た、あの紋様とそっくり同じだ。
魔術は、怖いばかりではないのだとレイヴェルに教えてもらったばかりだ。今夜はいったい、どんな不思議な現象を見せてくれるのだろう。
「よろしいですか、コーデリアさま。しっかりご覧になっていてくださいね」
レイヴェルはまだ蕾の薔薇を紋様の上に置いて、確かめるように私を見た。
「ええ、瞬きもしないわ」
意気込んでレイヴェルの手もとに集中すると、彼がくすくすと笑うのがわかった。すこし、子どもっぽい反応をしてしまっただろうか。
恥ずかしく思ったのも束の間、彼は蕾に手をかざすと、瞬く間に淡い紫の光をあふれさせた。
「わあ……!」
光の中で、薔薇の蕾がゆっくりと花開いていく。甘い香りが鼻腔をくすぐって、思わず頬を緩ませた。
紫の光の中で咲き誇る薔薇はなんとも幻想的だ。ほう、と溜息をついてその美しさに酔いしれる。
「とってもいい匂いだわ」
胸いっぱいに咲きたての薔薇の香りを吸い込んでみる。甘ったるく絡みつくような匂いだった。
レイヴェルは目を細めてゆったりと微笑むと、咲かせたばかりの薔薇を私に差し出した。
「急いで咲かせたぶん、一晩しか持たないという代償もあります。それでも、コーデリアさまに愛でてもらえて、この花も幸せでしょう」
「そう……一晩だけなのね。今夜はこの薔薇と一緒に眠るわ」
短い花の命を憐れむように薔薇を胸に抱けば、レイヴェルは色気すら思わせる甘い笑みを見せた。その瞳は優しげなのに、よく見れば激しい熱を秘めているようにも思えて、どくんと心臓が跳ねてしまう。
慌ててレイヴェルから視線を逸らし、戸惑いを誤魔化す。
さまようような視線は、やがてテーブルの上に描きつけられた複雑な紋様に留まった。一筆書きで描けるようになっているが、真似するのは難しそうだ。
「……これが、魔術を使うときに必要なものなのね?」
「はい。これに魔力を込めると、魔術が発動します。今は描いたばかりなのでくっきりと見えますが、時間が経つとこの紋様は見えなくなるのです。この性質を利用すれば、相手に気づかれずに魔術を仕掛けることもできるのですが、すこしでも歪むとうまくいかないので……綺麗に描けるようになるまでに、ずいぶん苦労しました」
「私にはまず描けそうにないわ、すごく難しそう」
目が見えなかった期間が長かったせいか、手を使う作業については極端に不器用なのだ。ふとした瞬間に、もどかしく思うことも多い。
「紋様は、必ずこの紫のお水で描かなきゃいけないの?」
レイヴェルは紋様を描くとき、いつもとろりとした紫の液体を使っている。レイヴェルが手をかざすと光りだす不思議な液体の正体がわかれば、いざというときに彼の魔術を阻止するきっかけになるかもしれなかった。
「そうですよ。気になるならお手にとってみてください。ただ、綺麗なものではないので直接は触れないでくださいね」
レイヴェルは栓のされた硝子の小瓶を取り出して、私の目の前に置いた。
レイヴェルにもらった薔薇をそっとテーブルに乗せてから、両手で小瓶を包み込み、傾けたり、透かしたりして観察してみる。
小瓶の中の液体は、レイヴェルの瞳によく似た、綺麗な紫色だった。月影にかざせばきらきらと光を反射して煌めく。まるで蜜の中に細やかな宝石のかけらが浮かんでいるかのようだ。
「綺麗ね。いったい何が入っているの?」
「端的に言ってしまえば、血と水です」
「血⁉︎」
予想だにしなかった材料に、瞬きも忘れてレイヴェルを見つめてしまう。思ったよりも物騒な代物だ。
「その塗料を作るためには、底が鏡になった箱の中に水を入れて、三日分の青空を映しとり、術者の血を数滴垂らす必要があります。そうすると、空の青と血の赤が混ざり合ってその色になるのです」
レイヴェルは淡々と説明しながら、私が握りしめている小瓶を指先でなぞった。ゆらゆらと紫の液体が小瓶の中で揺れる。
「レイヴェルの血を使っているものだったのね……。とても貴重なものなのに……魔術を見せてほしいだなんて、気軽に頼んでいいことではなかったわ」
「この程度の魔術であれば、本当にわずかな血を垂らすだけですから、コーデリアさまがそんな表情をなさる必要はないのですよ」
小瓶をなぞっていたレイヴェルの指先が、私の頬を掠めた。彼の瞳に困ったような表情をした私が映り込む。
「……大きな魔術を使うときには、もっとたくさんの血が必要なの?」
――たとえば、王都を焼き払うような強大な炎を生み出すときは?
口にするには物騒なその問いは、胸の中に秘めておいた。「悪い夢」の中の彼の罪を、目の前のレイヴェルには伝えたくない。
「試したことはありませんが、大きな魔術を発動させる際には、紋様を描いたあとに追加で直接血を振りかける必要があるようです」
「直接、血を……」
では、やり直し前にレイヴェルが王都を焼き払ったときも、きっとその手法を用いたのだろう。自らを傷つけてまで、彼はいったい何が欲しかったのだろうか。
やり直し前のレイヴェルも言っていた通り、王座だとか財産だとか、そういう明快な目的ではないであろうことは察しがついている。
破滅の魔術師と成り果てた彼の本音に近づく手がかりを、今のレイヴェルからどう引き出せばよいのだろう。
わずかな間考え込んでいると、不意に視界に影がかかり、レイヴェルが距離を詰めたのがわかった。
「……今夜のコーデリアさまは、ずいぶんと知りたがりですね?」
レイヴェルは頬にかかった私の髪を耳にかけながら、じっと私の瞳を覗き込んだ。
反射的に、体がこわばる。すこし、踏み込みすぎて妙に思われただろうか。
「っごめんなさい。たくさん質問してしまって、困らせてしまったかしら……」
睫毛を伏せ、視線をさまよわせながらおずおずと問いかければ、頭上で彼が吐息まじりに微笑むのがわかった。
伺うように彼を見上げると、怖いくらい綺麗な笑みが私に向けられていた。
思わずはっと息を呑む。たった今抱いていた緊張感も忘れて、頬が熱くなるのがわかった。
朗読師のレイヴェルには、慈愛や親愛といった穏やかな感情ばかりを感じるが、魔術師の彼は時折、目を合わせるのも憚られるほど色気のある笑い方をする。恐ろしいほどに綺麗なのだ。
「謝ることはありません。知らないことを知ろうとするのはよいことです。未知を愛するあなたを、とても眩しく思います」
黒手袋をつけた彼の手が、洗い晒した長い髪に通される。一瞬うなじに夜の冷気が迷い込んで、甘い寒気に身を震わせた。
「……俺が教えられることならば、どんなことでも教えて差し上げますよ。コーデリアさま」
甘さを帯びた空色の声で耳もとに囁かれ、耐えきれずぎゅっと目を瞑った。どくどくと、脈が早まっている。
……やっぱり、魔術師のレイヴェルは心臓に悪すぎるわ!
思わず彼の手に触れて、黒手袋を剥ぎ取ると、そのままぎゅっと握りしめた。布を介して伝わる温もりにさえ戸惑ってしまうのだから敵わない。
「こ、今夜はもうここまでにしましょう。そろそろ本を読んでちょうだい、レイヴェル」
無理やり彼を魔術師から朗読師に引き戻せば、彼はくすくすと笑って了承した。
「はい、コーデリアさまの仰せのままに」
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