第8話
気づけば私は、レイヴェルが後ずさったぶんの距離を詰めて、その勢いのまま彼を抱きしめていた。もっとも、身長差があるせいで、抱きしめるというよりは抱きつくような形になってしまったが、気持ちとしては彼を包み込んでいるつもりだ。
「……これからもそばにいて、レイヴェル。私にはあなたが必要なの」
囁くようなその言葉に、自分で言ったことながらはっと気づかされたような気がした。
……そうよ、彼は、私の人生になくてはならないひとなの。
どれだけ歪んでいようとも、残酷な本性を秘めていようとも、私からはこの温もりを手放せない。
私からこの手を離すときが来るとしたら、それは私が彼を殺すときだ。
そんな未来は、絶対に阻止したい。
「そんなの……俺のほうがよっぽど――」
レイヴェルは何かを言いかけたかと思うと、私の肩に両手を置いて体を引き離した。
そのまま俯いて、苦しそうに息をつく。空色の声は震えていた。
「俺だって……あなたのそばにいたい。でも俺は本来、あなたのような清らかな方に仕えていい人間ではないのです」
レイヴェルは私の肩に触れたまま、わずかに首を傾けて私を見下ろした。
「――この際、申し上げましょう。俺は本当に、魔女の子なんです。俺は魔女の血を継ぐ人間で、俺自身、魔術を操ることができる魔術師なのですよ」
どこか自嘲気味な笑みの混ざる、悲痛な声だった。
彼は、相当な決意のもとにこの告白をしたようだ。長い睫毛が震え、瞳は今にも涙をこぼしそうに見えた。
私もまた、目を瞠って絶句していた。
……まさか、彼から魔術師であることを打ち明けてくれるなんて。
あまりの衝撃に、言葉が出てこない。
彼の瞳が、怯えるように揺らぐ。だがそれも一瞬のことで、すぐに私に焦点が結ばれた。
「驚くのも無理はありません。……説明するより見せたほうが早いでしょうから、どうです? 星でも見に行きませんか。怖かったら、無理にとは言いませんが」
レイヴェルは上着から黒い手袋を取り出して両手につけると、私に手を差し出した。
それはひょっとすると、朗読師から魔術師に切り替わる合図なのかもしれない。
よく見ると指先が震えていて、彼の覚悟が伝わってくるようだった。思わず私の背筋も伸びる。
「……行きたいわ。レイヴェルと一緒なら怖くない」
彼の瞳をまっすぐに見上げ、差し出された彼の手に自らの手を重ねた。
彼は今から、私に魔術を見せてくれるつもりなのだろう。
レイヴェルは上着から小さな小瓶を取り出すと、地面に向かって口を傾けた。
中からとろりとした紫の塗料のようなものが、細い線となってこぼれ落ちてくる。きらきらと光るそれは、レイヴェルの手の動きに合わせて複雑な紋様を描いた。
「……綺麗」
思ったままのことを述べれば、彼は意味ありげに笑って私の手をぎゅっと握りしめた。
「これが女神に背く忌まわしき力、魔術ですよ」
そう告げるなり、彼は右手を紋様の上にかざした。
途端に、眩い紫の光があふれ出す。彼の瞳とよく似た色だった。
「眩しいでしょう、目を瞑って。決して手を離さないでくださいね」
こくんと頷いてからまぶたを閉じれば、一瞬だけ、くらくらとするような浮遊感に包まれた。あまり心地の良いものではないが、耐えられないほどではない。
次に息を吸った瞬間には、明らかに中庭の風とは違う夜風を感じた。
ざあ、と大気が揺れ動くのがわかる。
「もういいですよ。目を開けてください」
言われるがままにまぶたを開く。いつのまにか空を見上げるように頭を傾けていたようで、たちまち無数の銀色の光が視界に飛び込んできた。
「わあ……!」
満点の星空だ。きょろきょろとあたりを見渡してみれば、どうやら小高い丘の上にいるらしく、眼下には王都の街並みが見えた。
「っ……信じられない! すごいわ、レイヴェル! これが魔術なのね!」
ついさっきまで、離宮にいたはずなのに。瞬きする間に別の場所へ移動してしまうなんて。
魔術というと、魔女が人々を苦しめていた伝承や、やり直し前にレイヴェルが王都を焼き払った災厄ばかりが印象付けられていただけに、こんな平穏な使い方があるなんて予想外だった。
「……恐ろしくはないのですか?」
レイヴェルが、躊躇いがちに問いかけてくる。私はくるりと体の向きを変えて彼に向き直った。
「そうね、正直、魔術は怖いものだと思っていたけれど……こんなすてきな使い方もあるのなら、怖いばかりではないわ」
振り返った拍子に風にさらわれた髪を片手で押さえつけ、笑いかける。
レイヴェルは何か言いたげに私を見つめると、薄く笑って距離を詰めた。
「女神に背く魔術師にひどいことをされるかもしれない、とは考えないのですか? ……魔術があれば、あなたのことなどどうとでもできるのに」
黒手袋をつけた指が、白銀の髪を巻きつけるように弄ぶ。
脅すような言葉に昨日までの私ならば震えていただろうが、不思議と今はすこしも恐ろしくない。
レイヴェルは静かな表情をしていた。冬の澄み切った空のような、凛とした静寂がふたりを包み込む。
「……それでも離れたいとは思わないわ。私、あなたのそばにいたいの。それはあなたの正体が魔術師であろうと、変わらないわ」
魔術を使っていようが、朗読をしていようが、レイヴェルはレイヴェルなのだ。
そう思えば、得体の知れなかった魔術師という存在も、不気味なだけではなくなってくる。
彼の手にゆっくりと触れて、深紫の瞳を見上げた。
彼の背後にはいくつもの星が瞬いていて、まるで一枚の絵画のように美しい。
「あなたはとても特別なひとなのね、レイヴェル」
指を絡めるようにレイヴェルの手を握り込む。
すると彼は吹き抜けた夜風に促されるようにして、ゆったりと長い瞬きをした。
泣いているわけでもないのに、どうしてだろう。風が、彼の涙をさらっていったように思えた。
「コーデリアさま……あなたは綺麗すぎる」
レイヴェルは低い声で独り言のように呟いたかと思うと、彼の手に絡んでいた私の手をそっと掲げ、指先に唇を押し当てた。
おやすみのくちづけよりも長く、じっくりと熱が伝わってくる。
「っ……」
思えば、レイヴェルが私の手にくちづけている光景を見るのはこれが初めてだ。
凄絶な色気を漂わせる彼の姿に、一気に頬が熱くなる。思わずぴくりと指先を動かせば、彼は唇を離さずに視線だけで私を捉えた。
まるで獲物に狙いを定めるような鋭い瞳なのに、彼は信じられないほど甘い笑みを浮かべていた。
その瞬間、彼との間にあった壁が崩れていくのを感じたが、それを素直に喜べるほどの余裕は私に残されていなかった。
顔から火が噴きそうなほどに、頬が熱くなる。耐えきれなくなって、思わずぎゅっと目を瞑った。
……レイヴェルは、ずっとこんな目で、私の手にくちづけていたのかしら。
目が見えなかったからとはいえ、平然としていられた自分が信じられない。
やがて、指先から柔らかな熱が遠ざかっていく。おそるおそる目を開ければ、レイヴェルは満ち足りたような表情で微笑んでいた。
「顔が赤い。すこし休まれますか?」
久しぶりに聞く彼の柔らかな問いかけに、ぎこちなく頷く。
レイヴェルはすぐに上着を脱いで芝生の上に敷き詰めると、その上に私を座らせ、彼もその隣に腰を下ろした。
「……ありがとう」
まだ戸惑いが残ったままの声で礼を述べれば、レイヴェルは答えの代わりにわずかに目を細めて、そうして星空を見上げた。
糸のように細い月の浮かぶ、星の美しい夜だった。こぼれ落ちてきそうな銀の瞬きに、しばし心を奪われる。
夜風に当たっていると、彼の色気に惑わされていた心も徐々に落ち着きを取り戻していった。
「……ここは空を眺めるのにもってこいの場所ね。レイヴェルのお気に入りなの?」
「はい。眠れない夜はよくここへやってきます。星を見ながら、コーデリアさまのことを考えるのです。今夜も、中庭を散歩して……それからここに来るつもりでした」
レイヴェルはなんてことないように告げたが、私からしてみればずいぶん大胆な言葉だ。
彼は、私といないときも私のことを考えてくれているのだ。
そう思うと、恥ずかしいような、くすぐったような気持ちで、そわそわしてしまう。
「……本当は、海の見える場所に連れてきて差し上げたかった。転移の魔術は、紋様を描いた場所にしか使えないのです。海は遠くて、俺もまだ行ったことがありません」
わずかにレイヴェルの横顔が翳る。
幼い私が海を見たいと言った日のことを、今も覚えてくれているようだ。
「私、ここに来られて良かったわ。こんなにいっぱいの星を見たのは初めてだもの」
思わず両手を広げて、芝生の上に倒れ込む。レイヴェルの上着があるおかげで、草が肌に刺さることはない。
寝転んで星空を見上げると、レイヴェルの声を聞いているときに感じる空を思い出した。
この国では、青空は女神さまの瞳と言われ、みんなが親しむ色だ。その空色を持つレイヴェルが不当に迫害を受けているなんて、なんだか不思議でならなかった。
魔術という不思議な力といい、美しい空色の声といい、彼のほうが人形姫である私よりもよっぽど特別な存在に思えるのに。
ぼんやりと考え込んでいると、ふわりと薄手のストールが浮き上がって風に靡いた。
危うく攫われかけたそれを、私よりも先にレイヴェルの手が引き止める。
「ありがとう」
彼はふっと微笑むと、身をかがめて、私に覆い被さるような姿勢をとった。そのまま私の肩にストールを巻きつけてくれる。
思ったよりも近い距離に、いちど落ち着きかけた脈が再び早まってしまった。
「外で寝転ぶなんて、おてんばな姫君ですね。マリーさんに叱られますよ」
「……じゃあ、レイヴェルはもっと怒られてしまうわ。私を離宮から連れ出したんだもの」
「違いありません」
くすくすと笑いあい、やがてどちらからともなく視線を絡めあった。
彼の背後できらきらと星が瞬いている。氷長石を夜空いっぱいにちりばめたみたいだ。
「……綺麗。星空も、あなたも」
夢のように美しい、ふたりきりの夜だった。
レイヴェルは、私の顔の横に肘をついてこちらを見下ろしていた。微笑みの滲む頬にそっと手を添えれば、彼はその感触を味わうように静かに目を閉じ、小さな吐息をこぼした。
「そんなふうに言ってくださるのは、あなただけです。コーデリアさま。……俺には、あなただけだ」
まるでひとりぼっちで生きてきたかのような言葉に、きゅっと胸が切なくなる。
「レイヴェルには……家族はいないの? お父さまやお母さまは?」
そっと問いかけてみれば、彼はゆっくりと目を開いて、淡々と告げた。
「父親の顔は知りません。母親は娼婦でしたので。あなたに会う前は母親と妹とともに王都の裏通りで暮らしていましたが、ふたりとも死にました。特別、悲しくもありませんが」
「そう、なの……」
彼は私に覆い被さるような姿勢からわずかに体勢を変えると、私のすぐ隣に寝転んだ。横になったままで彼と目が合う。
「……私、あなたのこと、何も知らないって気づいたの。あなたがどんなふうに生きてきたのかも、あなたが何を思って私のそばにいてくれるのかも」
「特別なことは何もありませんよ。まず前者の質問からお答えすると、俺は母親の働く店で呼び込み役をやっていました。少女の格好をしていたんですよ。髪を長く伸ばしていたので、男だと見抜かれたことはいちどもありませんでした」
悪戯っぽい眼差しで、レイヴェルは黒髪をつまんで笑う。今は短く整えられている、柔らかな艶のある髪だ。
「そうなのね。長い髪も似合いそう」
「お望みなら伸ばしますよ」
黒い髪を長く伸ばしたレイヴェルをぼんやりと想像してみる。
今でさえすさまじい色気を漂わせているのに、中性的な雰囲気になったらとんでもないことになりそうだ。まともに彼の顔を見られる気がしない。
「……やっぱり駄目。私よりずっとずっと美人になってしまいそうだもの」
軽く唇を尖らせて前言撤回すれば、レイヴェルはくすくすと笑った。
「コーデリアさまに嫉妬されるなんて、並の人間ではできない経験ですね」
こんなに楽しそうなレイヴェルを見るのは久しぶりで、むくれていたことも忘れて見惚れてしまう。彼は、こうして笑ってくれていたほうがいい。
やがて彼は、星空を見上げてゆっくりと息を吐いた。
「……もうひとつの疑問には、うまく答えられそうにありません。俺が、何を思ってあなたのそばにいるのか」
レイヴェルが視線だけを私に向ける。
互いに寝転んでいるせいか、いつもより彼を近くに感じて、妙にどぎまぎしてしまった。
「あなたの幸福を……『幸福な結末』だけを願ってそばにいるつもりなのですが、残念ながら、そんな清らかな気持ちばかりではなさそうです」
「そういうものよ。綺麗なだけのひとなんていないわ」
「あなたがそれをおっしゃるのですか? 面白いひとだ」
レイヴェルはふっと笑ったかと思うと、小さく寝返りを打って私と向きあった。
彼の深紫の瞳の中に星が煌めいていて、息を呑むほど美しい。
ふたりの間に投げ出された彼の手を、そっと握りしめる。温かくて、大好きな、レイヴェルの手だ。
「あなたが何を思っていてもいいわ」
そっと彼の手に身を寄せるように、距離を縮めた。
彼の手を頬に添え、目を閉じてその温もりに酔いしれる。
「朗読師でも、魔術師でもいいの。私のそばにいて。私から、離れていこうとしないで」
それは災厄を引き止めるために彼をそばで見守る必要があるから、という人形姫の使命としてというよりも、ただのコーデリアとしての願いだった。
彼に、そばにいて欲しい。私の目の届かないところで、苦しまないでほしい。
「……おそばにおります」
彼が私の指に自らの指を絡めるように手を握り込んだのを感じて、ゆっくりと目を開ける。
すぐに、彼の深紫の瞳と目が合った。
「あなたが望んでくださる限り、どこまででもお供いたします」
彼はもう、私に壁を作るのをやめたのだろう。
それが真摯に伝わるひと言で、はちみつのように甘い幸福が、じんわりと私の胸を満たした。
「ええ、私たち、ずっと一緒よ」
――私が、女神さまの御許へ還るそのときまで。
どちらからともなく額を擦り寄せて、祈るように目を瞑った。
絡めあった指先から、あなたとひとつの温もりになれたらいいのに。
レイヴェルは私だけだと言ったが、私にも彼だけだ。
私が、光のない世界の中で、レイヴェルにどれだけ救われたか、どれだけ言葉を尽くしても足りない。きっと彼は、半分もわかっていないに違いない。
「――あなたはいつでも私の空よ、レイヴェル」
私を包み込んでくれる優しい温もりを持ったこのひとに、あんな惨劇を引き起こさせてはならない。
何がなんでも、私は災厄を引き止めてみせる。
たとえその先に、ふたりの破滅が待っていようとも。
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