32話 闘いを終えて

 允生を投げながら、俺自身もバランスを崩して床に手を付いた。

 早く体勢を立て直さないと允生の反撃が来る……と慌てたが、允生はまだ立ち上がって来なかった。


「……クソ、立てねえわ……俺の負けだ」


 恐る恐る様子をうかがっていた俺に向かって允生は呟くように言った。


「……? 」


 例の本気なのかふざけているのか分からない口調だったから、俺はすぐにその言葉が信じられなかった。素人の投げ一発で允生を倒したなどということは信じられなかった。


「……んだよ、ガリ勉……投げはまぐれだったのかよ……」


 ようやく允生は身体を捻り、床に両手をついて、息も絶え絶えといった感じで上体を起こした。


「まだ信じてねえのかよ、疑り深いヤツだな。俺の負けだよ……」


 その眼に戦意はもはや感じられなかった。

 俺は允生の手を取り立ち上がるのを手伝ってやった。やっとといった感じで允生は立ち上がると、屋上の外周のフェンスに背中を預け胡坐あぐらをかいた。仕方なく俺もその隣に腰を下ろす。




「あの……私、何か飲み物買ってきますね……」


 隣に座ってはいいものの互いに何を話せば良いか分からず、しばらく気まずい沈黙が流れていた。その気まずさに耐えられなかったかのように蜂屋さんは屋上から出て行った。……いや、真面目な彼女のことだ。本当に俺たちの状態を心配して水を持ってきてくれるに違いない。


「投げってのはな、かなり厄介な技なんだよ……」


 2人になり口を開いた允生が初めに言ったのはそんなことだった。


「……ああ……そうなのか?」


 允生が言い出した意味が最初は理解出来なかった。


「ケンカでもな、時々投げを使って来るヤツがいる。柔道をやってたヤツなんかはマジで厄介だ。だから事前に分かっている場合はそういうヤツを最初にやっちまうんだよ。……まあ大抵は何人か投げ飛ばされてからようやく分かるんだけどな」


 はは、と允生は軽く笑った。

 しかし投げ技というのはそんなにも強力なものなのだろうか?自分で允生を倒しておきながら俺は未だに半信半疑だった。

 この2週間允生対策として俺は、格闘技や街中の不良のケンカの動画を様々見漁った。街のケンカで投げ技が繰り出される映像は見たことがなかったし、総合格闘技の中での投げ技はあくまで寝技に移行するためのもの……といった印象だった。


「ガリ勉、あの投げはかなり練習していたのか?昔柔道をやっていたとかか? 」


 悔しさを滲ませながら問いかけてきた允生に対して俺は、ゆっくりと首を振った。


「いや、経験は全くない。……動画を見ながら戦略を色々と考える中で少しだけ考えてみたことはある。……布団をガムテープでぐるぐる巻きにしてサンドバッグみたいなものを作ってみたんだよ。それをお前に見立ててパンチやキックの練習をしていた、その時に何回か投げも試してみたことがある気がする……その程度だよ。まさか一発で決まるとは思ってもいなかったな……」


 戦局を少しでも好転させるきっかけになればいい……くらいの感覚で咄嗟に出たものだった。俺が実際に允生に決めた投げ技を何と呼ぶのかも分かっていないくらいだ。


「……んだよ、ケンカまで予習してたんかよ、ガリ勉。ずりいな。……投げ技ってのはな、さっきも言った通り路上では凶器なんだよ。投げ飛ばされる先は畳でもリングのマットの上でもない。固いコンクリートやアスファルトだからな。……正直俺も背中が痺れて動けんかったぜ」


 允生は再び自嘲気味に笑った。

 そうか。俺が動画で見ていたのは全て格闘技の中での投げ技だった。もちろん競技者である彼らは受け身の練習もしているだろうし、投げられることにも慣れているだろう。不意を突かれ固いコンクリートに投げ飛ばされた允生とはダメージが大きく違うのも当然か。というか頭や首にダメージがいっていれば大ケガになっていた可能性も充分にあるわけで……アドレナリンが切れて冷静になってきた頭で考えるとその恐ろしさに震える気持ちだった。




「なあ……お前みたいなヤツが何でヤンキーなんかやってんだよ? 」


 俺は気付くと允生にそう尋ねていた。口から思わず出てきたというのが近い言葉だった。


「……ああ?どういう意味だよ? 」


 允生は少し眉をひそめた。

 言ってから俺自身も意味を考えるような言葉だった。でも、それは俺の正直な言葉だった。


「お前みたいなクソ真面目なヤツが何でヤンキーなんてやってるんだよ、って意味だよ」


 今度は自分の気持ちを正確に言語化出来たように思える。


「……は?俺がマジメ?何言ってんだよ、ガリ勉君!……ははは、頭には結構ダメージいってるんじゃねえか?大丈夫かよ? 」


「茶化さないでちゃんと答えろよ。何でお前はヤンキーなんかになったんだよ? 」


 俺はコイツがクソ真面目である、と本気で思っていた。

 それはもしかしたら拳を交えた人間同士でしか感じられない部分なのかもしれない。

 ケンカの最中のコイツの真っ直ぐな瞳。実直で美しい打撃、コンビネーション。「ガリ勉ガリ勉」とバカにした風を装いながらも冷静に戦力としての俺を分析する観察眼。……それに、今日だってこちらの呼び出しに対して一切逃げることも言い訳もせず、真っ向から応えてくれたのがコイツだ。言い訳して大声出して、仲間のヤンキーたちを呼んで来るくらいのことは普通に考えれば可能だっただろう。允生の側にこの場で俺とのケンカを真っ向から受け入れる必要は必ずしもなかったはずだ。だけどコイツはきちんと受けた。

 もう一度コイツとやり合って勝てるかは分からない。

 俺はコイツに対して友情とも尊敬とも付かない不思議な感情を抱き始めていることを認めないわけにはいかなかったのだ。


 だがその時ギギーと油の切れた古めかしい音がして屋上のドアが開いた。

 そこから顔を出したのは蜂屋さんだった。


「戻りました。……あの、ちょっと自販機で色々売り切れていて……コーラとオレンジジュースしかなかったのですけれど……お2人どちらがよろしいですか? 」


 ジュースの入った缶を2つ振ってこちらに向けた蜂屋さんに対して、允生は鼻を鳴らした。


「いやいやいや、メガネっ子ちゃんさぁ……こういう時は水で良いのよ!俺たちゃさっきまで殴り合って口の中血だらけなのよ?オレンジの酸っぱさも、コーラの炭酸もメチャクチャ傷口に沁みるんだっての!……頭良いくせにそういうとこ気遣えないと、モテないぞ!……ったく」


「あの!私、すぐ買い直してきますので! 」


「……良いって、ありがとうな。ほれ、ガリ勉君はコーラな」


 允生は駆けだしそうになる蜂屋さんを押し止め、その手から缶をひったくるとコーラのほうの缶を俺に放り投げた。

 そして自分の方はオレンジジュースの缶を開けて、再び床に胡坐を掻いた。

 何となく俺もそれに付き合わなければならないような雰囲気になり、允生にならいコーラの缶を開けた。

 蜂屋さんは、俺たちの奇妙な行動の一致に戸惑いながらも優しくそれを見届けてくれているかのようだった。


「……なあ、ヤンキーって何なんだろうな? 」


 少しの沈黙の後、允生がそう呟いた。



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