水も滴るラブコメディー

魚を買っただけなのに…

買ったばかりのガラス鉢は、予想以上に部屋になじむ。私は寝る前にもう一度だけ、とそれを覗き込んでいた。

「名前どうしような…まー明日でいっか、休みだし」

鉢の中には、鉢とセットの小さな魚。我が部屋の新しい住人だが、明日までは名無しで我慢してもらうか。

「おやすみ、とりあえず…魚ちゃん」

私はふちを軽くなでると、ベッドに入って明かりを消した。

―――あれは3時間ほど前のこと。…といっても、アラサー独身女がペットに魚飼ってみた、それだけの話である。

仕事帰りの疲れたOLに

『癒やしが欲しい』

『一人暮らし寂しい』

その他諸々のよくある感情と極度の疲労、そこにショップ店員の

『お金も手間もほぼ不要、初心者も超飼いやすい』

なる殺し文句をプラスすれば、

『飼うつもりなかったのに気付けば連れて帰ってました♪』

な即席飼い主、ハイできあがり。

…まさか自分がこの手合いだったとは。というのも私はちょっと特殊な生い立ちもあってか、生き物飼育にかなりの抵抗があったからだ。

コイツが余程可愛くみえたからなのか、それとも余程私がコミュニケーションに飢えているからなのか…

まあ過去をつきつめても仕方ない、いまはとにかく眠ろう。しかし、終わらせたはずの一日は、密かに続いていたのだった…。

―――深い眠りの底に、かすかなノイズが届く。

(トプ…バシャ)

…水音？

(バシャシャシャッ)

なに、と呟くヒマもなく続けてビタン！と音がし、私の体もビクッ！と跳ねる。まちがいない。なにかとてつもなく重くて濡れたものが、床に落ちた音だ。しかも恐ろしいことに、えらい至近距離だ。

最悪最悪最悪だ、変質者か泥棒かあるいはその両方…あああ、考えてても仕方ない。勇気を出してスタンドライトをひっつかんではみたものの、手ががたがたでボタンが押せない。仕方ないので気配をさぐっていると、『何か』はまだ私に気付いていないようだった。

指がやや自我を取り戻す。…あ、押せそう。ライトを押す。カチリ。…頼りない暖色ライトの弱い光が現れ、その光はそのまま、ぶるぶる部屋をまさぐった。…居た。居た、のだが、そこに居た者のあまりの美しさに、恐怖は姿を引っ込めた。

びしょ濡れの男がこちらに背を向け、髪にかかった水滴を払っている。引き締まった筋肉で覆われた、美しい背中だ。背は高い。180cmか、それ以上。高くてそして、…美しい。

しかし男は余程水滴がうっとうしいようで、私の光にまったく気付いていない。

男の髪はそこそこ長い。そこそこ長いその髪は、強めのウェーブがかかっている。そしてその髪を豪快にかき上げた瞬間、ようやく男の動きが止まる…自分がずっと照らされていたことに、今まさに気が付いたらしい。

―――男は髪をかき上げたまま、ゆっくりとこちらに顔を向けてきた。そして知らない横顔と目が合った瞬間、私は息を呑んでいた…甘く物憂げな瞳、ギリシャ彫刻のように引き締まった身体。

全身から水滴を落とす謎の男は、なんともけしからん色香を放っていた。ホラーな現場にそぐわない、なんと節操のないエロス。正直、どう反応していいのか我が脳が混乱している。悲鳴を上げるべきなのか？しかしそれはなんというか、ちょっと勿体ないのではないだろうか？

しかるべき状況下で鑑賞すれば、間違いなくフェロモン的な何かで悩殺されて人が死ねるだろう。私もできることならこういった美形は、安全な場所から安全な方法で、鑑賞したかった。

…見つめ合うこと、恐らく数秒だったのだろう。

惚ける私に相対し、とろんと美しいアーモンド型の瞳は見る間に見開かれ、男は一瞬で戦慄をあらわにした…って、あれ？あれれれれ？「うわあああああッッッ！！！！」

大絶叫。ちなみに現在、深夜2時。

断末魔の叫びと同時に男はぺったんと尻もちをつき、ガクガク震えながらあとずさり、私となるべく距離を取ろうとした先で壁にぴったり貼り付いた。

男の目からはぼろぼろと、恐らく恐怖からであろう、大粒の涙が流れ落ちている。「……！」「えっ…えっ？」「……！！」　

男は何か言おうと口をぱくぱくさせているが、何の音すらも出せていない。このいたいけな私に取って喰われるとでも思っているのだろうか、なんか腹立ってきたな。

「えっとーあのですねー…」

やや勇気が出た私は私はベッドから這い出て、ライトを手に男に近づくことにした。「！！！！」「あ、だ、大丈夫…？」

って、何で私が心配する？

なんでコイツも大人しく心配されてる？？

サービス精神溢れる心配むなしく、距離にしてあと約２メートルで男は完全に気を失った。バターンという派手な音とともに人んちの床で倒れ伏す男(全裸)と、深夜2時。

「ちょっまっ……理不尽でしょうがッ！！！！」

ヒステリックに頭を抱えてうずくまる途端、両側の壁から同時にガスッ！とクレームが入る。右の住人からは一度あったが、左のからは始めてだ。

やばい怖い。変質者も怖いけど、ご近所トラブルが怖い。ってかそうだよ、怖いんだよ！怖いことばっかりだよ何なんだよ！！

私は今日…

魚を買っただけだろう！！！！！！

―その男がまぎれもなく、『とりあえず魚』と呼びかけて眠りについたあの魚であることが判明するのは、もう少し後の話である。